方向性は糾しても、存在は否定しない | 真理は心の中にある

真理は心の中にある

真理は心の中にある。これが私の基本的修行スタイルです。日々、思っていること、考えていることのなかで、読者が参考になると思われることを書いていきたいと思っています。

今でこそ、少なくなって来たが、大川先生は、講演が終わった後、会場の質問を受けて、それに回答していた。

霊的な質問から、この世的な問題の質問まで、全て答えていた。
こんな多岐にわたる質問に、即答して、誠実に答える人は、今だかって見たことはない。

まさに潜在意識の扉を開いた人というのは、ここまでできるものか、と関心したものだ。

大川先生は、どんな質問にも誠実に答えていた。
レベルの上下は問わない。
明らかに低レベルとしか思えない質問もあったし、質問と言いつつ、自分の話を一方的にして、何が質問したいのか、わからない人もいた。

それでも、大川先生は、全ての質問に丹念に誠実に答えていた。
「くだらない質問をするんじゃねえ」みたいな、嫌悪感を一切出すことはなかった。

どんな奇想天外な質問にも即答するのも、驚きであるけれども、どんなくだらない質問にも、一切、嫌悪感を示さず、これほど、誠実に、丹念に答える人もいない。

大川先生にしてみれば、全ての人を、かわいい我が子のように思っているのかもしれない。

私には、とても、とても真似できないけど、見習いたいと思う。

人は激情に駆られると、相手を殺したいほど憎んでしまうことがある。
しかし、そうなってしまうと相手も反発せざるえない。

相手に非があるのかもしれない。
だからといって、全てを否定してもいいという理由にはならない。

その考え方を糾すためにキツイことを言わなければいけない時もある。
だからといって、相手の存在を否定してしまうのは、行き過ぎだ。

全面否定するのはよくない。
全面否定して、素直に反省する人は、どこにもいない。
全面否定してしまえば、己の尊厳を守るために刃向かわざるえないのだ。

中世キリスト教社会では、異端者を捕まえては、火あぶりにするという酷い行いが繰り返されていた。
信仰を守るためと称して、このような野蛮な行為が繰り返されたのだ。

そうまでして守らなければいけない信仰とは、いったい何であったのだろうか。

真実の神仏は、どんな非道な相手であろうとも、その存在を否定するほど、追い詰めたりはしない。

逃げ道を奪い、無理矢理追い込み、反省させたしても、そんな反省は偽物だ。
その無念は怒りとなって、新たな犠牲者を生み出すに違いない。

主体的な反省は教訓を生み出すが、無理矢理、追い詰めた反省は、心に深い傷を残す。

まず為すべきことは怒りを鎮めること。
正義を実行するのは、その後でいい。

本当に存在意義がなければ、それは自ずと消えていくはずだ。
現に存在しているということは、いくばくかの存在意義があるということである。