仏教とヒンドウのことなど | やまのブログ

仏教とヒンドウのことなど


「仏教はインドに生まれていながらそのインドで廃れてしまっている これではいかんからインドに仏教を逆布教しよう」
というような言葉を見たことがあるのですが そのとき少々カチンと来たのを覚えています 
それはずいぶん前のことですが仏教を特集した雑誌でした 日本山妙法寺の言葉です 今考えれば日蓮の影響が強いから なのかな と思います 
まあ インドに来るのはいいのです それはいいのですが、、


インドにいる私は考えるのです
ブッダが現代のインドを見るなら自分の教えが広まっていないと嘆くだろうか?


否 だと私は思います 多分ブッダはそうは思わないと私は思います


私はインドにいて仏教あるいはブッダにつながっているのかなと感じることがふたつあります 
ひとつはインドの神様たちを見て感じることです こっちの神様には 手がいっぱいあったり 顔がいくつもあったりするのです 
こんな風に


私は中学か高校の教科書で見た千手観音の仏像を思い出しました wikipediaで見るとやっぱりインドの神様とつながってるようです 仏教が日本に渡ってきたときにインドの神様たちも日本にやってきているようですね 神様たちが自らやってきたのかそれとも誰かが連れてきたのか は知りませんが、、、渡っては来ている でも日本ではあんまり活躍していません たまに漫画に出てくるのを見てもたいしたことない インドでは大活躍してるんですけどね 
日本の千手観音はせいぜい仏教美術として紹介されるぐらいでそれはつまり動かない仏像の紹介でしかないのですが インドの千手観音は神様として紹介されていてそれは私たちの中に彼女のイメージが動くように紹介されてます 物語的に紹介されているということです  その結果として人格的に千手観音を覚えます 私は鉄腕アトムやブラックジャックのキャラクターを覚えていますがそれと同じようにインドの神様を覚えていくということです ただインドの神様たちはキャラが分かりにくくて理解が難しいですけどね、、、  
ところでキャラを覚えるということはそのキャラの世界観を理解することにつながってゆきます これが 私 大好きなんですよ  


ヒンドウの世界観は面白いです そしてそれはブッダの世界観と相反するものではないように思うのです もちろんあなたがそれをどう捉えるかは私にはわかりませんが、、、、何はともあれインドの人たちは輪廻や来世と言うものを当たり前のように受け入れているようです それでいいのではないかと思うのですがどうかな?


私がインドにいてブッダとつながっているのかなと思うことのもうひとつは周りの人たちとのコミュニケーションにあります



私には彼らが何を話しているのか分かりません 私がどうやら自在に使える言語は日本語だけです かたことのヒンディかたことの英語は分かりますが連続した会話になるとまるで分からない バシストにいる私にとって実生活上でのコミュニケーションにおいて言葉の果たす役割は通常よりずっと小さいでしょう ではどうやって足りない分を補うかというと 以心伝心 です お互いに相手の心を察知しながら話しているので少ない言葉で伝わります 楽ちんです


村にネパールから来た聾唖のおばさんがいます 彼女は15年ほど前この家の1階に夫婦で住んでいたことがあるのですが家人たちはみんな彼女と当たり前のように身振り手振りでコミュニケーションしてました 正式な手話なんか誰も知らないでしょう 自己流です 言葉が伝わらないので身振り手振りでやってるだけですけど それが通じてしまう それが通じてしまうのは価値観が似ているということに加えて言葉の指し示すものをしっかりと捉えているいるからだと思います 聾唖の人は言葉を耳で聞いたことがないわけですがそのネパールのおばさんはおそらく文盲なので言葉そのものを知らないのではないかと思われます でも言葉は知らなくても言葉の指し示すものは知ってるはずです 「食べる」という言葉は知らなくても食べるという行為は知ってる 「おいしい」 「まずい」 という言葉は知らなくても味は知ってる 「母」という言葉は知らなくても母がどういうものかは知っている 「人類は一家 世界はみな兄弟」という言葉は知らなくても 家族というもの兄弟というものがどういうものかは知っている だから言葉ではなく言葉の指し示すものを身振り手振りで表すことによってコミュニケーションしてるわけです 言ってみれば当たり前のことだけれどそれができるのはお互いの心に相手の心を察知しようとする姿勢があるからだと考えています 


「ふぁーすと らんげーじ いず ああ ううん」 グプタが言う 
そうだ とボクは煙の中で受け入れる
こいつはこっちの状態が分かって言っている ボクがそれを単なる言葉として聞き流さないだろうことを見越してそれを言っている
煙に包まれてボクは考え始める、、、 


「ねくすと らんげーじ しゃっ くん」 **が言う
あほか ボクは煙の中で拒否をする
こいつもこっちをある程度察知して言っている だがこいつは信用できない 適当なことを並べている 人を迷わせて面白がるやつだ
煙に包まれて僕の感性が動き出す

 
ちょっと 
脱線しましたが話をもとに戻します
「仏教はインドに生まれていながらそのインドで廃れてしまっている これではいかんからインドに仏教を逆布教しよう」
のような言葉が出るのは宗教を名前とかの外見で捉えているということがまずあると思います そしてもうひとつ 何のためにという問題があると思うのです


宗教を外見で見ているらしい言葉をよく見かけます
「宗教には世界宗教と民族宗教に分けられ仏教やキリスト教イスラム教が世界宗教でヒンドウや神道は民族宗教になる」
「宗教には一神教と多神教に分けることができ代表的な一神教はキリスト教でヒンドウは多神教になる」
みたいなのがそうですが 私などにはすごくくだらないことを言ってるように見えます


バシストの人はほとんどヒンドウです ツーリストを別にすればこの村に店を出している人にモスリムが4,5人いるらしいのですが後はみんなヒンドウ 生粋の村人は全員ヒンドウです どこのうちにも神棚がありどこの部屋にも神様のポスターが貼られています それらは部屋の中に飾られています この村の通りを歩いても神様を見ることはありませんが部屋に入れば神様だらけです それは一人一人の村人が自分の意思で神様を飾ってる 自分が好きで神様を掲げてる そんな人たちの手でプアープアードンどこドンとしょっちゅう行事が行われています この村はそういうところです 家人はそこに生まれたがちがちのヒンドウです その家人が言います
「God is one, burahuma bisyunu shiva only name this is same buddha kurisyuna also same」



家人からだけでなくインドでは似たような言葉を何度も聞いています
そういう言葉を当たり前に聞いている私にとって一神教とか多神教とか分けてる観点がくだらなく見えてしまうのがご理解いただけるでしょうか 


ヒンドウはブッダをその神々の一人に含んでいますが それは形だけではないように思います ブッダが含まれたことによってヒンドウの世界観が変化したということがありそうにも思います 私は宗教学者じゃありませんので知識に詳しくありませんが主神の一人であるシバなど昔は脇役に過ぎなかったと何かで読みました それが今ではクリシュナと人気を二分する神様となって描かれてます そのシバなんですけどね 通称はシャンカーなんですよ

それってね ブッダの日本での通称じゃないですか 
おしゃかさんやないかいな 
偶然ですかねえ ユングの言うところの共時性のようなものでしょうか 


誰がこういうイメージを作ったんだろう? と考えると これがものすごく興味深いところへいきます 
はしょって(そのうちはしょらないで書きたいと思うのですが今ははしょります)結論だけ言えば神様が世界観を提示していると私は捉えているのですがそこには形は変わっていてもブッダの伝えたかったものはしっかり入っているのではないかと思うのです まあ 私はブッダじゃないですから当人がどういうかは知りませんけどね

ところで
私はシバシャンカーとおしゃかさんを比べるなら 絶対シバのほうがかっこいいと思います パンチパーマはダサいと思うのです 罰あたりなこと言いなさんな と祖母ちゃんがいたら言われそうですが まあ そんなものじゃないかなあ ブッダは過去に実在しましたからそのキャラをあまり過大に表現することには制止がかかるでしょう でもシバはこれから現れる神様ですから だから ブッダはブッダとして転生の中にその存在を残しておきその思いはシバに移送されている 結果かっこいいシバのイメージが現れたと私は捉えています ヒンドウは面白いです


話が脱線ぎみなので戻します
さてインドに仏教の何を逆布教しようと言うんだろう? 仏教にあってヒンドウにかけているものがあるんだろうか? あるなら私も知りたい
一般に欧米や日本は先進国でインドやネパールやチベットは後進国(発展途上国)とみなされますが精神性ということに限ればむしろこちらのほうが進んでいると思うのです こちらの国々にとって必要なのは現実にどのように対処するかだと思うのです 宗教より政治でしょう チベットなんかもろにそうじゃないですか 
話外れますが
チベット人の中には強い宗教心がありそれは外部の私などから見るとダライラマに集約されているように見えます そのダライラマのやってることを見るとブッダの教えそのまんまじゃないですか 殺生しちゃいけない、、、 当時のブッダは自分ひとりのこととして考えていけばよかったわけですがダライラマには彼を慕う民族がいる みんなを連れていかなきゃならない さらに話が外れていきますが ダライラマのやり方を支持します ちっぽけな者ですが私はダライラマとチベットを支援します
話を戻します
精神性に確たるものがなく迷いやすい状態にある人にとっては宗教が救いになるかもしれません でもこっちの人たちにはもうすでに宗教が十分に根付いていると思いますよ むしろ宗教を広めるというか宗教を考え直さなければいけないのは日本や欧米のほうではないかと思うのです
日本山妙法寺は実際にインドに来ているんだろうと思います 私が「逆布教」の言葉を見たのは17,8年前です 今 彼らがどう考えているのかは知りません
どなたか ご存知の方がいらっしゃいましたなら教えていただければ幸いです


私は神学追及者です その私の観点から言うと宗教は2種類に分けられます 一つはあなたや私に精神的自立を促すことを目的とした宗教 もうひとつはあなたや私を支配することを目的とした宗教です 


私は宗教学者ではなく社会学者でもありません 現実の宗教団体に対する詳しい知識を持っておりませんのでどの宗教団体がどちらに属するのかが分かりません 確かめたいと思っています 確かめようと思っています 

確かめとかないと もしあなたや私が迷ったとき 困るでしょ