明日9月27日は安倍晋三元首相の国葬が挙行されます。どうか無事故にて粛々と執り行われることを願っています。

 

無事故たるべき最大のポイントは海外から弔問に来られる要人たちの警備です。安倍元首相の逝去そのものが警備の失態から起きているだけに、警察はその威信を賭けて海外からの要人を警護し、一切の不安を払拭し、安全な国日本への信頼を取り戻してほしいと、祈る思いで託したいと思います。

 

私は安倍元首相にこれまで特別な思い入れはなく、本ブログで取り上げたのもただ一度だけ。2016年12月、当時の安倍首相がハワイの真珠湾を訪問した際に、そのことへの感慨を記しました。

 

安倍首相の真珠湾訪問に思う

 

ただ、今回驚いたのは安倍氏の逝去に対して海外から寄せられる弔意が予想以上の数に上ったことです。実に260か国・地域から1700を超える弔意のメッセージが届いたとのこと(読売新聞9月9日付社説)。そのこと自体が彼が長い在任期間に日本国の顔として積極外交を進めてきたことの証であり、その労に対してこのような凶弾で報いるべきものではなかったと再認識しました。このたびの国葬に際して改めて追悼の祈りを贈りたいと思います。

 

岸田首相が国葬の判断をしたのはそうした海外の弔意に対して呼応したものであることは私も理解できました。つまり、それらは、安倍元首相個人への弔意というよりも安倍氏を通して日本国家と接し、交流してきた人たちの日本国家への哀悼の意だと言えるでしょう。したがって、そうした海外の弔問客を日本が国家として迎える葬儀の形式とする判断をしたのは自然なことだったと思います。

 

ですからくどいようですが、国葬に訪れる海外の要人は決して安倍氏個人の客人ではなく、日本国家のお客様であることを忘れてはならないと思います。国葬への反対を主張する方がいることも承知しています。日本は民主主義国家であり、言論の自由も保障されていますから、そのような主張があってもよいと思います。ただ、日本国の大事なお客様に対してはどうか失礼のないように、日本国民として礼節をもって迎えることをお願いしたいと思います。

 

蛇足ですが、そのような外向きの意味合いが国葬の目的であるとするならば、安倍氏を神格化するとか、安倍氏への弔意を強制するといった内向きの目的は考えなくてよいと思いますし、そもそもそうした心の問題は全国民が自由であり、何も強制は受けないと思います。仮に国民が国葬への参列を強要されるといったことがあれば話は別ですが。考えてみれば、「国葬」という言葉に「国教」と似た響きがあり、かつて日本が苦しんだ軍国主義への直感的な嫌悪感をそこにダブらせるのかもしれません。岸田首相にはもっと早期に国民に対する丁寧な説明を行ってほしかったと思います。