を書いた後で浮かんだイメージが、
こんなんでした。
たとえば私が地球で、太陽に憧れて、太陽のマネっこしたとしたら、
多分、私の周りの星達に影響出てくるんだろうなぁ。
だってもともと、
太陽は太陽、
地球は地球、
木星は木星であることで
全体でバランスを取っていたのに、
ひとつがそれを崩し始めたら、
崩れたバランスを元に戻そうとして、
他のどこかが形を変えて、
さらに全体の調和が崩れる。(悪循環)
結局、「私」が「私」であることが、
一番の全体への貢献なのだと思います。
ただ、
でも書いたとおり、
きっちり「私」として生きるのって、
相当難易度高いと思います。
現代日本では、「五教科全部できた上で運動できて友達も多い子でいなさい」って
「完璧であることが最低ライン。どこか欠けていたら人間のクズ」的な
むちゃくちゃな理想像を押しつけてくる上に、
「自己犠牲」と「我慢」を美徳とする国なので、
その中で「私」として生きるには、
知恵も必要。
工夫も必要。
仲間も必要。
日本にアドラー心理学を紹介した野田俊作先生は、論文の中で、アドラー心理学を、
「人間でありながらどうすれば幸福になれるか」ということを課題とする知の体系 ※
と表現しています。
(※「アドラー心理学の東洋的展開(1)個人の存在様式をめぐって 」
アドレリアン第1巻第2号(通巻第2号) 1985 年8月 )
たとえば、生まれてくる前に、
お空の上でお友達と、
「今度生まれたらさ、みんなでハムレットのお芝居やろうよ!」
「いいねぇ!」
「じゃあ、私オフィーリアやる!」
「じゃあ、私お城の門番やる!」
って、それぞれ役柄決めて生まれてきたのに、
「男の子はハムレット、女の子はオフィーリアになりなさい」
って学校や社会で押しつけられたとしたら、
ハムレットとオフィーリアやることに決めてた2人以外は、
すんげー苦しい人生を生きることになるような気がしません?
「いい加減、お城の門番やらせろや!」
って、どっかでキレると思うし、
キレるのが正解と思います。
だいたい、お城の門番もいないとハムレット、なりたたないんだってば。
みんながみんなとして、調和しながら、しかも自立しながら、
生きていける世の中になるといいなぁと思いますし、
そのために自分にできることをしていきたい、と思います。