猫とぼくと太宰治論 | イージー・ゴーイング 山川健一

猫とぼくと太宰治論

 太宰治論を幻冬舎新書で書くことになった。
 というか、今、書いてます。

 新書のタイトル案は──

  ↓


『太宰治、ダメ人間と女達』


 このタイトル、どうかな?
 新書1冊で太宰治のすべてを描くのは無理なので、太宰の恋愛だけに絞った本にしようと思ったのだ。

 それでも的を絞り切るのはたいへんなので、すべての女をまず二種類に分けた。
 一つは、平気で鉄面皮な嘘をつきまくる女で、これが「鉄子」タイプ。
「鉄子」はなぜ嘘をつくのだろうか? それは、彼女に企みがあるからだ。「鉄子」にはいい意味でも悪い意味でもエゴに支えられた人生の目的があり、どうしてもそれを達成しないと気が済まない。だから嘘をつくのだ。

「私が愛しているのはあなたのほうよ。だって運命の人なんだもの。でも彼とだって会わなければならない現実的な理由があるのよ」

 などと言って、「鉄子」は平気で二股、三股をかける。いや、平気ではないのかもしれないが、結果的にそういうことをする。


 太宰は言っている。

「人間は嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。」(「斜陽」より)


 また、こんなことも言っている。

「大人というものは、侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければばらぬ。なぜ、用心深くしなければならないのだろう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤っ恥をかいたことが多すぎるからである。人はあてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。」(「津軽」より)

 あの女、今頃あいつと寝てやしないだろうな。いやまさか、さすがに今度ばかりはそんなことはあるまい──なんて男が疑心暗鬼になる場合、真相はほとんどクロなのである。そして、男は赤っ恥をかくことになるのだ──と太宰は言っているのだ。


 「津軽」を書いた時、太宰はたしか三十四歳ぐらいである。
 年齢のわりに、老成していると言わざるを得ない。

 そしてこういう「鉄子」、いわば魔性の女が強引に叶えようとする目的が叶えられる確率はかなり低い。そいつは傍目には野望としか思えないほど大きな目的の場合が多いから、目的達成率はかなり低くなってしまうのだ。
 そうすると彼女は男に心中を迫ったりするわけだ。
 われわれ凡人なら「ご冗談でしょう!」と断れるが、それに応じてしまうのが太宰治の優しさなのではないだろうか。

 「鉄子」の女王は、玉川上水で太宰と心中した山崎富栄だろう。典型的な魔性の女だ。写真を見ると、かなりの美人であることにまちがいはない。
 人妻だった富栄は、出会った時には太宰の作品など一つも読んではいなかった。奥さんと太田静子さんは熱心な太宰の読者だったわけで、そんな2人をのこしてなんで太宰は人妻の富栄なんかと死んだのかねぇ。


 「鉄子」の対極にいるのが、いわば太宰の理想の女性像である、イノセントでユーモアがあり、太宰を支えつづけようとしてくれる「ヴィヨンの妻」タイプである。こうしう女を描かせると、太宰の右に出る作家はいない。

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」(「ヴィヨンの妻」より)

 こうして並べてみると、「鉄子」からは逃げて「ヴィヨンの妻」を探せばいいようなものだが、事情はそう簡単ではない。

 一人の女の中にさえ「鉄子」「ヴィヨンの妻」が共存していて、それが代わる代わる顔をのぞかせる場合があるからだ。そこが、なんともたいへんなところなのだ。

 いずれにしても、心中までいかなくても太宰が象徴するようなダメ人間がドロ沼に引きずり込まれないようにするには、愛をもって「鉄子」とは距離をおくしかないとぼくは思うね。つまり用心して、他人行儀を守らなければばらぬ」ということだ。太宰には、わかってはずなのに──。

 ところでダメ人間というのは太宰自身のことであり、もちろんぼくら自身のことでもある──というようなことを考えつつ原稿を書いていたらチムがやって来て、ごろりと寝転んだ。
 そのまま、本格的に寝てしまった。
 イビキというほどじゃないが、寝息が聞こえている。可愛いよ。あー、ほんとに良かったよ!

 ぼくもそろそろ寝ようかな。
 みなさん、おやすみなさい。



イージー・ゴーイング 山川健一-チム3