三州鬼瓦の古来考 瓦の発祥 | 三州瓦メーカー山平の瓦ブログ

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意外にたくさんのことがあり過ぎて、伝えなきゃですが
他のことが書けないので一気にいきます(笑)
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瓦の発祥

 瓦は板葺屋根から火災などを守り、建物が少しでも
損傷を免れ、雨、露を防ぐことが大きな目的の一つで、
長持し家の美観を併せ持つことが条件として発展して来た。

その瓦を作る人を見瓦地方では「瓦屋」カワラヤさんと
親しみを含めて呼んでいた。

その昔、奈良時代にも同じ字で「瓦屋」と記されていて、
これを「瓦屋」ガオクと言い、寺院や御殿を建立する際の
屋根瓦を製造する付設の瓦工場を指している。

即ち、此の瓦屋は瓦を製造して売る所轄営業ではない。

必要な建造物の際に築窯(当時は登窯、穴窯)して
需要に応じていた。

 此の「瓦屋」ガオクの最初は仏教の伝来と関係があり、
我が国最古の寺で六世紀の終わり崇峻天皇の時代元年(588年)
法興寺(本元興寺)建立の時、これに要する瓦を作るため
寺域の近くの丘陵の斜面を利用して築窯したのである。

又、仏寺以外で瓦屋根が用いられる様になったのは、
鎌倉時代に入ってからであろうと言われている。

土倉に用いられ、後醍醐天皇の時、京都の商人が初めて
造り質物を入れていた。
その後、酒造商人たちが多く造った。

そして、追々普通の民家では豪商などが屋根を
瓦で葺くようになる。

 瓦の伝来は佛教の公伝と深い繋がりがある。

百済よ佛教が上陸し崇峻天皇元年(588年)の頃、
「日本書紀」によれば四人の瓦博士が派遣されて来た。

麻奈父(まなほ)、奴陽貴(ぬやんぎ)、文陵貴(ふんりょうぎ)、
文昔麻帝弥(ふんきまてや)が二人の寺巧(てらたくみ)、
一人の鑪盤(ろばん)博士、一人の画士とともに
遣わされて来たという。

何故瓦と鑪盤(ろばん)のみが博士で、
他は工であったのだろうか。

四人のうち瓦窯を築く人、瓦の素地を造る人、瓦を焼く人、
瓦を葺く人、それぞれ専門家がいたか、それとも博士と
いうからには、すべてに堪能な高度の技術をもった人々の
集団であったかも知れない。

その時に建立された飛鳥寺(法興寺)の屋根瓦は
文献上最古の瓦である。

その後聖徳太子が四天王寺を建立、法隆寺(推古天皇九年の頃
1261年)も起工するのである。

以上


いやぁ~ 難しく書いてありますが、四人の瓦博士の
名前を初めて知り、勉強になりました!!!

瓦というのは仏教とも大きく関わりがあるのですね。
そしてお寺から京都の商人、酒造商人達、そして豪商と
瓦屋根が伝わっていき、江戸時代後期に一般家庭へと
広まっていったんですねぇ~


BY 「瓦屋」ガオクという言葉がカッコイイと思った社長

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