言語と権力 | 山田優の★行政書士試験憲法の分析★

山田優の★行政書士試験憲法の分析★

行政書士試験の憲法の過去問について分析するブログです。
分析の手がかりは芦部信喜著『憲法』(岩波書店)のみです。
「芦部憲法」があれば行政書士試験の憲法の問題は解ける!
ということを示したいと思っています。

というのも、ファシズムとは、何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるものだからである。
これは、ロラン・バルトの言葉である(『文学の記号学』 花輪光 訳)。
この言葉を読んだ時点で、「これはツマラナイ」と思った読者は、なるほど、このテキストを評価したとはいえようが、1つ確実なことは、「このテキストによって、その読者も評価された」という事実である。
現今、ますます、何かを批評するという行為が一般化しているが、ゲーテの言うように、批評はまったく近代人の単なる習慣にすぎない(『ミュラーとの談話』 手塚富雄 訳)。
「テキストを評価することによって、まず、評価した者が、逆に評価されているのだ」という、昔から、いわば当然視されてきた事実は、現今、忘れ去られている。
さらに、バルトは次のように述べている(上掲書)。
われわれはそこで、権力は、社会的交流のきわめて些細な機構のうちにも存在する、ということを知る。権力は、単に国家や社会階級や集団のなかだけでなく、流行、世論、映画演劇、遊び、スポーツ、報道、家族関係、個人的交友のなか、さらには、権力に異議をとなえようとする解放の動きのなかにさえ存在するのだ。私が権力的言説と呼ぶのは、言説を受けとる側の人間に誤ち*があるとし、したがって、罪があるとするような言説のすべてである。(誤ち*という表記は原訳文のまま)
この記述と「テキストを評価することによって、まず、評価した者が、逆に評価されているのだ」という指摘とは、いかなる関係にあるのか。
さらに、バルトは、話すこと・論ずることが、伝達することではなく、服従させることである点を指摘している(上掲書)。
どのようにして「服従させる」のか。その経過については、次のバルトの叙述が、極めて明確に説明している。
言語活動は立法権であり、言語はそれに由来する法典である。われわれは、言語のうちにある権力に気づかない。というのも、およそ言語というものはすべて分類にもとづき、分類というものはすべて圧制的である、ということを忘れているからである(上掲書)。
「分類というものはすべて圧制的である」とは、どういう意味か。
ここで「立法権」「法典」という用語が出ているので、この点を、法解釈学を素材として考えてみよう。
法解釈学は「定義と分類の学」という側面が極めて強い学問である。個々の概念を明確に定義し、それに基づいて、個々の現象を厳格に区別していく。
もっとも、実は、あらゆる学問がこの手法を前提としていると考えられる。これがなければ、学問自体が成り立たないからである。
ここで、「定義と分類」という営為の持つ効果・作用・影響に関しては、長所と短所とが挙げられる。
長所としては、作業の効率化を促進すること、分析のヒントを提供すること、短所としては、対象にレッテルを貼り付けることになる危険性、作為的な定義によって対象を封じ込めることになる危険性が挙げられる。
「定義と分類」という営為の原初的な目的は、思考の正確性の確保・思考の効率化の実現であったかもしれないが、まず定義をして、それから、それに従って対象を分類していくということは、
結局、対象を制御可能なものにするという効果をもたらす。つまり、対象を服従させるという効果である。
このようにして、言語は、対象に分類を押し付け、それによって対象をコントロールするという作用を持つがゆえに、圧制的なのである。
ところで、バルトの「言説を受けとる側の人間に誤ちがあるとし、したがって、罪があるとするような言説」という(上述の)権力的言説の定義からは、「言説を受けとる側の人間に誤ちがある」との判断を導出する過程において、権力者側によって「論理的な操作」が加えられているのだという趣旨が窺える。
論理的に考えても誤ちがあるならば、誤ちがあることに相違ないのであって、そのように断ずるのも、そのこと自体には意味がある。
しかしながら、「誤ちがある」という判断自体に「論理的な操作」が加えられているのだとすれば、話は別である。
これは、「言説の内容が正しければ、それでよいのではないか」という反論と関係がある。これに対しては、「正しいかどうかが、そもそも問題なのである」と答えざるを得ない。
もっとも、言説の内容が「自然的事実の客観的認識・叙述」である場合は、「言説の内容が正しければ、それでよい」と言えるだろう。
しかし、言説の内容の正しさが問題となるのは、実は、往々にして、規範の問題、当為の問題に関する言説なのである。
これは、意思決定・政策決定の問題なのであって、「(自己を含んだ)人間に一定の行動を強制すること」を内容とする言説である。この言説については、「『言説の内容が正しい』とはどういう意味であるか」自体が問われなければならない。
さらに、そもそも、この意味での正しい選択を強制すること自体、果たして正しい選択なのかという疑問もある。
要するに、自己決定の問題なのであるから、選択の内容が正しいからといって、それを選択することを外部から強制してよいものかどうかということが、別に問題となるということである。
つまり、「強制できる『正しさ』」というものは存在しないのではないかということであり、選択の内容の正しさも含めて、「正しさ」というのは自己決定の問題なのではないかということである。
ところが、実際には、「何が正しいか」自体を、とことん突き詰めて考えるということは、現実の社会ではほとんどない。
要するに、正しくても正しくなくても、関係がないのである。
問題なのは、ものごとが動いていくことであり、ものごとを動かしていくことである。
どこかにものごとを着地させること、これが問題なのである。
もし、「論理的であるということ」が、この着地に役立つのであれば、「論理的であるということ」は評価され、尊重される。しかし、役立たなければ、社会というものは、「論理的であるということ」などには目もくれないのである。
むしろ、結果として、ものごとを動かすことに貢献したものが、「正しかった」と評価されると言ったほうがよい。
次に、さらに検討しておかなければならない点がある。
実は、これまでの論述では、冒頭に引用した「というのも、ファシズムとは、何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるものだからである」というバルトの言葉については、十分に吟味していない。
思うに、「私は○○○○である」「私は○○○○と考える」「私は○○○○と主張する」「私は○○○○に賛成する」などと発言することは、大きなエネルギーを必要とする。
しかし、社会は、このような発言を強制する。この種の発言をしなければ、社会において存在しないものとして扱われてしまう。立場を明らかにしない者、賛同者であることを表明しない者、つまるところ、服従・屈従を承諾しない者は、排除されてしまう体制ができているのだ。
ところが、「立場を明らかにするということは、発言を強制されることだ」ということに気がついている者はそれほど多くない。 「吐け!吐くんだ!」という言葉は、捜査過程における自白強要の場面でだけ発せられるものではない。
「ファシズムとは、何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるものだからである」とバルトが叙述した状況・現象は、この社会のいたるところに存在するのだ。
それでは、他者に発言を強制する目的は何か。
個人が自発的に発言するのであれば、その発言の目的が他者を服従させることであるとしても、それは理解しうる。
しかし、この場面では、発言を強制される側が、その発言によって他者を服従させる目的を有しているのではない。
他者を服従させる目的を有しているのは、発言を強制する側である。他者を強制して特定の内容の発言をさせることによって、その他者を服従させるという手法なのである。
ここで、強制に耐えかねて、心ならずも、特定の内容の発言をしてしまったということ自体が敗北であることは、当然である。
しかしながら、このことよりも一層深刻なことがある。
それは、特定の発言を強制された者は、その発言をすることによって、自己の内部を変化させてしまうこと(強制的に「変化させられてしまう」こと)である。
自己の内部を変化させてしまうような発言の強制は、「自己の犯罪事実を認める旨の供述」である「自白」以上のダメージを発言者に与える。心を、あるいは、魂を、意に反して改造されてしまったことになるからである。
権力者は、この手法を、いつの時代も採用してきたのである。それは、実際の暴力を使うよりも、この手法のほうが、コストが低く、効果が高いからである。
このように、圧制的言語は、政策実行において、コスト面で利便性をもっているのである。しかし、極めて卑劣な手法である。 さらに、取り扱いの一層困難な問題が、別にある。
それは、人間が言語の圧制に苦しむのは、他者の言語による場合だけではなく、自分自身が言語活動をしている最中、恒常的に、自己の言語によって圧制を受けているという事実である。
以下のバルトの叙述は、この点を指摘している。
主体のもっとも奥深い心のうちにおいてさえ、いったん発話されるやいなや、言語は権力に仕えはじめる。言語のうちには、必ず二つの項目が姿を現わす。それは、断定からくる権威と、反復からくる群生性とである。………中略………。私が言表しはじめるやいなや、以上の二つの項目は、私のなかで一つになり、私は主人であると同時に奴隷となる。私はすでに言われていることを繰り返し、記号の隷属状態のうちに安住しているだけではない。自分が繰り返し言っていることを、主張し、断言し、強調してもいるのだ(上掲書)。
この圧制から逃れられる者は、基本的には、存在しないだろう。自己の言説も権力的言説となりうる可能性が常にあるということである。
個人は、自己が思索を進めていく過程で、言語の性質のために、自己の言語による圧制に苦しめられるのだ。
思索という行為によって、新たなもの、できれば自由を確保する助けとなるものを創出しようとしているにもかかわらず、思索者は、その行為によって、その自由を剥奪される危険にさらされることになる。
圧制的言語によって、つまり、言語の圧制によって、自己が進めるべき思索の方向さえ見極められなくなることは、実は、日常茶飯事なのである。 ここに、言語に基づく思索の限界の1つがある。
バルトは「単に権力からのがれる力だけでなく、またとりわけ、誰をも服従させない力のことを自由と呼ぶなら、自由は言語の外にしかありえない」と述べているが(上掲書)、①権力からのがれる力と②誰をも服従させない力の双方を手に入れようとして思索を試みる者自身が、そもそも自己の言語による圧制・自己の言語への服従に苦しめられるという状況になっているということだ。
上記のような苦悩(この苦悩の中には、他者に対する圧制を心ならずも実行してしまうという苦悩も含まれる)がほとんどない思索者というものが存在するとしたら、彼は極めて強固な政策目標を予め持っていると言わざるをえない。
いわば、最初から目標あるいは結果を決定しているのだ。そうしなければ、自己の言語による圧制に阻まれることなく思索を先に進めることはできないはずだ。
ところで、言語が圧制的であるのは、その本質によるものだとしても、言語が科学的真実を記述する場合にもそうであるのか。自然科学の領域で使用する言語には、このような圧制的言語・権力的言説はないのか。
少なくとも自然科学的真実を記述するという目的で使用する場合については、権力的言説はないであろう。
それは、結局、自然科学の領域においては、科学法則が自然科学的真実を記述しているのであって、それを表現する数式などは表現の道具にすぎないからである。
数式も言語の仲間だとは言いうるが、この種の言語が、それ自体として、圧制的に用いられることはないであろう。
この件に関しては、日常言語自体は、科学法則が自然科学的真実を記述するのを補助する役割しか与えられていないことをも想起すべきである。
これに対して、言語がその圧制的な顔を顕わにするのは、意思決定・価値判断の場面である。政策決定とは、結局のところ、権力闘争である。
しかし、政策決定の手続き自体を論理的に公正なものとすることは可能かもしれない。意思決定・価値判断・政策的判断の局面で、「言語の圧制を回避する手段」が、言語の論理の中に潜在していないだろうか。
それは、意思決定・価値判断・政策的判断の手続きを規制するという方法である。圧制的言語は論理を盾にとってくるわけだが、そこを逆に利用して、言語の圧制を抑制することの可能性を探るべきである。
ここで、「個人が自己の言語活動において自己の言語による圧制から退避すること」の意義を考察しておこう。
矛盾するようだが、「言語に対する絶望」を経験しなければ、「言語に対する信仰」は生まれない。
言語は、自己にとって有用なものを何も与えないどころか、自己を拘束し、隷属させる。むしろ、言語があるがゆえに、自己は不自由な状態に置かれている。
このような認識を持たないということ、つまり、言語に対する「一種の絶望」を1度も経験しないということは、「言語から分離した状態の自己」というものを想像できないということを意味する。
このような人間は、言語は自己を隷属させる危険があるものであるにもかかわらず、それを承知の上で、「言語を頼りとして自己を構築していくという選択をするしかない」という認識には到達できない。
言語は、自己を害すると同時に、自己を養うものであるという認識に到達すべきなのである。
しかしながら、言語の圧制から、圧制的言語から、退避すること、言語の圧制を拒否することは、一種の孤立を引き起こす。
言語の圧制に屈服して行動していれば、その他のおおぜいの人々と行動を共にしているため、このように孤立することはない。言語の圧制を拒否したことに対する非難もない。
これに対して、言語の圧制を拒否するということは、圧制的言語が要求する行動を拒否するということだから、この拒否行動は、程度の差こそあれ、制裁の対象となる。
したがって、究極的には、自己の生命を守るために言語の圧制に屈服して行動するか、言語の圧制を拒否して制裁を受けるか、という選択を迫られる。
このような危機的状況においては、圧制的言語からの退避に対する理解を持つ人々(言語に対する信仰を持つ人々)と連携する必要がある。
しかし、バルトの言うように、「権力に異議をとなえようとする解放の動きのなかにさえ」権力的言説、圧制的言語は存在しうるのだから、この連携は容易なことではない。言語
に対する信仰を持つ人々を統合して1個の集団とすること自体が、圧制的言語への陥落の危険を伴うのである。
したがって、これ以外の方法を用いて、言語
に対する信仰を持つ人々と連携しなければならない。それは、つまるところ、権力側に気づかれない方法で連絡をとりあい、合意に達し、それぞれの場所で行動する方法を構築する必要があるということを意味する。
さらに、言語の外に出たところに、そこに宗教という名称を付するかどうかは別として、人間の救いがあるかもしれない。
この点に関連して、バルトは「権力の外の言語を聴き取らせる」ということを述べているが(上掲書)、この視点は重要である。
ただ、「権力の外の言語を聴き取らせる」手段が「言語」である点は、配慮を要する。権力側は、「権力の外の言語を聴き取らせる」という活動に対して、警戒をするであろう。
なぜならば、多くの人々が「権力の外の言語」を聴き取るようになれば、圧制的言語による権力の維持自体が困難になってくるからである。
それでは、言語の外の領域に出ないで、しかも、言語的圧制、圧制的言語の弊害を回避することは可能であろうか。
これについては、はなはだ懐疑的にならざるを得ない。しかし、論理によって説得しようとするから、それが不可能なのであって、それ以外の手段があれば、可能かもしれない。
これは、「権力の外の言語」を聴き取るようになった人々が、権力的言説を使用しないで、かつ、実質的には相互に連携して、圧制的言語からの退避を実現することができるという可能性はあるのかという問題である。
さらに、言語の外の領域における手段として、音楽はどうか?
音楽自体には十分に効果が期待できる。
しかし、過去において、音楽は政治的に利用されたというのが、歴史的事実である。メンゲルベルク、フルトヴェングラー、カラヤン、ギーゼキングらは、その犠牲者だと言い得るだろう。
むしろ、「権力に気づかれないように、音楽による連帯をすることが可能であるか」ということが問われなければならない。音楽による結集の力を前面に押し出さない形で、音楽の持つ力を使うのである。
これには冷静沈着・用意周到な準備が必要であろう。政治的・社会的事象を語らないで、暗黙の了解をし合って、それぞれの人が、個別に、自らがよいと考える行動をするのである。
これは、集合的な行動とは呼べない。団体行動ではない。にもかかわらず、個人個人にとって好ましい方向に進むことが可能となる方法が存在しうると考えられる。
つまり、音楽(美術・映画などについても同様のことが考えられる)の内容自体に、好ましい行動をとらせる因子を埋め込んでおくのである。しかし、表面的には、それに気づかない振りをするのである。音楽を発表する手順については通常どおりに行い、政治的・社会的関心は全く示さない。むしろ、そのようにすることによって、淡々と、人々を音楽のほうへ導く。これは、理想論の域を出ないかもしれない。
最後に、念のため付言すると、「私が権力的言説と呼ぶのは、言説を受けとる側の人間に誤ちがあるとし、したがって、罪があるとするような言説のすべてである」というバルトの言葉と「テキストを評価することによって、まず、評価した者が、逆に評価されているのだ」という考察との関係の説明は、本稿のどこかに存在する。