可能性というもの論、その1。 | やぎろぐ - 千代田区の税理士社長の情熱Blog

可能性というもの論、その1。

学校の先生は、生徒の成長のために、つまり外部に向く。


作家は自分自身の中に向く。




教師出身の作家というものについて書いた、


演出家の成井豊
さんの言葉(の要約)です。


演劇集団キャラメルボックス
の方ですね)






では、塾の先生はどうでしょうか。






私は学生時代、塾の講師をしていました。


それも、国語です。




税理士って理数系では!?・・・・・・いやいや。




私自身は理数系も好きでしたが、


一番得意だったのは国語でした。


それも、現代文→漢文→古文の順で得意。


比較的、苦手な人が多い現代文が得意でした。




とはいえ、人間の感情を言葉で表現する、文章というものは、


実は捉える側(読み手)の観点・視点・経験で、


答えも変わってしかるべきではないか。




などという不遜な考えを学生ながら


(たぶん高校生の途中まで)思っていたものです。


だから点数を伸ばすのは大変、100点取るのはもっと大変。


結果、苦手意識を持つ人が多いのではないかなと。


幸い、私は波があっても高得点でしたが。


あくまでも国語だけですけど。




ところが、受験を控えた高校3年の時期だったでしょうか。


国語には数式における公式のように、


決まりごとがあるのだ、とわかったのです。




数学には、問題用紙には答えが用意されていないことが多い。


これは、極論すると公式を知っているかどうかの勝負であったり、


発想の勝負だったりします。


(私は暗記が苦手なので、発想でばかり勝負してよく負けました)




国語は、なんと!問題用紙の中に答えが用意されていることが多く、


キーワードも開示されているという、なんとも豪勢な試験なのです。




そして、覚えるべきパターンは驚くほど少なく、


少なくとも世界史の気の遠くなるような年号と事件に比べれば、


全く時間がかからずにそれなりの点数を取ることができます。




100点を取るには、出題者と


実際に書いた作家の脳みそにゆだねられるのですが、


80点くらいなら、どうにかなる。




それが国語という学問だと私は思っています。




これらのことは、大学受験の時に通った


大手予備校の先生から習ったことです。


正確には、そう私の中では理解した、というところでしょうか。




何の華もなく、嫌になるほど真っ暗だった浪人生時代に、


この技能(?)は、塾の先生をやって試してみたいと思ったものです。




余談ですが、おかげさまで国語の偏差値「だけ」は


全国の順位でも安定して上位に居続けました。


何度か名前も載せたはずです。


数少ない、浪人自慢(笑)。




長いので続く。




あ、上だけ読むと嫌味に読めるので先に。




でも私、見事に大学受験では志望校に落ちまくってます。


純たる受験では(だけではないですが)、


大失敗をやらかしておりますので、そんなえらくないです。


プロフィール読めばすぐわかります。


とはいえ、そのおかげで今があるので、


結果は成功・・・・・・になるように、日夜奮闘中。です。



その2に続く。