明智光秀のキリシタン観 | 中山道を歩こう

明智光秀のキリシタン観

八切止夫(やぎり とめお)は、歴史小説家である。(1914年~1987年)

八切止夫による歴史観を「八切史観」というそうだ。





その読者の感想によれば、八切史観によると、宣教師による信長爆殺が示唆されており、爆殺ゆえに信長の首も本能寺の跡形も残っていないのだという。





宣教師が信長を狙った理由は、信長が火薬や多くの物資の輸送基地であるマカオ占領を狙ったからだという。





これは歴史小説の世界だから、空想も含まれているだろうが、信長の桁外れの着想力から見れば、南蛮渡来の宣教師たちの情報を仕入れたあとならば、十分有り得ることであろう。





宣教師による信長暗殺説が仮に正しいと仮定すると、明智光秀はキリシタン側に立った大名だということになる。

そして秀吉はそうはさせじと対立した反キリシタン大名となるだろう。





その後の日本の歴史は明治維新までは明らかに「反キリシタン」の政治姿勢を貫くことになる。





そう考えると、明治維新は親キリシタン革命であった可能性が見えてくる。

下関吉田における奇兵隊による首切り六地像もそういう視点でみれば、奇異な行動ではないだろう。





英国による彦島租借地要求が高杉晋作らとの下関戦争講和交渉において、証拠も残さずに消えてしまっている不思議さがある。

司馬遼太郎の小説などを読むと、高杉晋作がきっぱりと断ったから彦島租借は免れたとしているが、外交交渉とはそんな簡単なものではないだろう。





香港、マカオを見れば、英国が租借地を得ることによって、どれほどの利益を享受したかは明らかである。

表の書面には彦島租借要求を取り下げた理由は書かれていないが、晋作と英国公使パークスの間に取引があったように思われる。





彦島租借の要求の取り下げのあとで、奇兵隊の仏像破壊が起きたのではないかと思うのである。

それは明治維新後の廃仏毀釈につながっていくのである。





話を明智光秀に戻そう。

ザビエル来日直後にイエズス会により科学技術の恩恵を一身に受けたのは信長であった。

その第一の子分が明智光秀である。





信長は宣教師から黒人奴隷を贈与され、それを家臣としている。

アフリカの黒人奴隷の貿易は当時のスペイン、ポルトガルの海外貿易の主要なものであった。





ヤスケ『ウィキペディア(Wikipedia)』によりその黒人奴隷と明智光秀の関係を見てみよう。





『ヤスケ(やすけ、彌介)は織田信長の家臣の1人で、現在のモザンビークあたりを出身とする黒色人種の男性であったと言われている。

中略。





元々は宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。

天正9年(1581年)、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れられていたのが信長の目にとまった。





信長は最初、肌の黒さが信じられず彼が身体に何か塗っているのかと思い、2月の寒空の下でたらいに入れて家来に体を念入りに洗わせたが肌が黒いままだった。

肌の色の黒い人種がいることを理解した信長は彼に興味を持ちヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。





信長が彼を「ヤスケ」と名づけ武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように取り計らってくれたことに大いに感謝し、忠実に仕えたと言われる。





本能寺の変で陥落直前に信長から脱出するよう命じられたと言われる。その後明智光秀に捕らえられたものの、インドのバテレンのもとへ放逐されたらしい。その後の消息は不明である。』(抜粋終わり)





ヤスケは奴隷の自分を自由の身にしてくれた信長に大層忠誠を尽くしたようである。

現代の人道主義に基づいてこのシーンを見れば、奴隷制度を公認する宣教師が不正義で、信長が正義の人になるであろう。





信長の第一の家臣であった明智光秀もヤスケと親しく交際していただろうと思われるが、そういう記述はWikipediaには見られなかった。





「本能寺の変 織田信長・明智光秀」http://honnouzi.日本史.net/ にはヤスケに対する明智光秀の不可解な行動が述べられていた。





『ヤスケは織田信長の家臣の一人であった。

本能寺の変の後、明智光秀の手勢に捕まったが、光秀はヤスケを「人間ではない」として殺さず、「インドのバテレンのもとに送れ」と命じ、そのまま放逐したという。

その後の消息は不明である。





本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。大河ドラマ秀吉ではヤスケは信長とともに戦い、信長に先んじて明智軍の鉄砲に射殺されている。

このほか、完全武装の鎧武者を素手で撲殺するなど、大男の黒人という特色を最大限に活かしてキャラクター立てした例もある。』





戦国時代の戦で敵の武将の家臣を逃がすという行為はありえない。

ヤスケは信長に忠誠を示していたのであるから、最後まで信長とともに戦うべきであった。

信長以上に親しい人物が手ほどきしたために、ヤスケは投降したのであろう。





明智光秀が宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの手先であると仮定すると、信長の死が確実になった時点で、ヤスケが元の主人ヴァリニャーノの支配下に戻った可能性もあったのではないだろうか。





目だって仕方がない黒人武士の死体も見つからないということは、光秀がヤスケを海外へ逃亡させた可能性が高いと思われる。





ヤスケの処理の不可解さからも、明智光秀はキリシタン擁護側に立っていたようである。

敬虔な仏教徒であった言われる明智光秀の実像は、私の頭の中で揺らぎ始めている。

光秀は隠れキリシタン大名であったのではないだろうか。





光秀の娘玉子(ガラシャ)が洗礼を受けたのも、急な話ではなかっただろう。

幼い頃から宣教師たちと会う機会があり、説教も受けていただろう。

とくに大名や家臣が戦争で外出している期間は、宣教師たちが彼らの妻や娘たちをイエスの教えに導く機会に恵まれていただろう。





そういう素養を持った娘が細川家に嫁ぎ、生まれた子供が病弱だったとき、彼女は何を思うだろうか?





神の意思や信仰の十分さや不十分さに思いをいたらせるのではないだろうか?

玉子は夫九州出陣中にイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父のもとへ走ったのである。





光秀の先祖明智氏は、清和源氏土岐氏の支流氏族である。

本姓を「清和源氏頼光流」と称し、そこから「光」の一字を継いでいるようだ。





光秀の父は明智光綱(みつつな)、祖父は明智光継である。

父の戦死後、光秀の養父になった明智光安は光綱の弟である。





どうやら光秀の「光」はザビエル来日以前から継承してきたものであるようだ。





しかし、ユダヤ人の渡来は紀元前のことであり、「光」とシュロの木を重んじていたことは事実であるから、まだ明智の「光」の意味は調べてみる必要があるだろう。





ユダヤ人に代々伝わっている旧約聖書の知識を明智一族が継承していたとすれば、イエスの復活祭で聴いたコスメ修道士の説教の内容は砂が水を吸うようにガラシャの体内に入っていったことであろう。





明智光秀『ウィキペディア(Wikipedia)』記事の中にも、光秀とキリシタンの関係を説明していた。





『光秀が用いていた印章は、キリスト教に関する模様が使われている事が判明している。また、娘の珠や、組下大名(寄騎)の高山右近と身近な人物にキリシタンが多いことから唱えられている説である。







愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。





光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。





「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐家出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。





あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。





しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い。

また、愛宕百韻後に石見の国人福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。』(抜粋終わり)





石見の国人に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたことは興味深い。





信長は大砲を積んだ船で北京侵攻を企画していたようである。

イエズス会宣教師は、武器の供給という貿易仲介で信長の天下取りを手伝うが、見返りに中国への軍事進出を要求していた節がある。





なぜスペイン、ポルトガルが中国侵略を日本へさせようと考えたのであろうか?

或いはそれはフランスパリで設立されたイエズス会の、或いはその上層部であるローマ教会の意図であったのであろうか?




当時の西洋人の抱いていたアジア感を知らなければ、正しい予想はできないだろう。

ザビエルの当時は、アフリカ奴隷貿易が真っ盛りの時代であった。