今日は「トレーニング」について書いていきたいと思います。
 
 
ちょっと長くなるので、お時間ある時にお読みください(笑)
 
 
 
 
 
 
ここで扱うのは、私が個人的に行っている「パーソナルトレーニング」についてです。
 
 
最近はあまりトレーニングについてブログで書くことはなく、オンラインサロン限定でトレーニング映像や細かい説明を掲載しておりますが、今日はちょっと基本的なところを掘り下げて書いてみることにします。
 
 
アスリートクラブ
永里優季「Nagasato YukiのSence and Logic」
 
 
トレーニング経過や、試合での成果・分析含めてこちらのサロンでは定期的に発信しております。
 
トレーニングの他にも、コンテンツは多岐に及んでいますので、さらにもっと知りたい!勉強したい!という方は、是非ご参加ください(^^)
 
年に1〜2回OFF会を実施して、メンバーの皆さんとの親交も深めております。
 
 
 
 
 
さて、ではなぜ私が”パーソナルトレーニングを継続的に受ける”のか、という点についてざざっと書いていきたいと思います。
 
 
 
私はかれこれ4年近く、日本に帰国するたびに中西哲生氏によるこのパーソナルトレーニングを受けています。
 
 
サッカーでは「技術面」におけるパーソナルトレーニングというと、あまりピンと来ない人の方が多いと思いますが、ゴルフや野球、テニスといった個人競技には、ティーチングプロ、投手コーチ、バッティングコーチなどといった形での指導者がいて、プロ選手に指導やアドバイスを行っている、という話しを耳にするかと思います。
 
 
個人競技のプロ選手は、自分でコーチを雇っているケースが多いですよね。
 
 
「それと似たようなモノ」と、想像して頂くとわかりやすいと思うので、そういった解釈で大丈夫です。
 
 
ただ、私の場合は「教えてもらっている」という感覚ではなく、指導者と選手という枠を取っ払ってお互いに「探究している」という感覚で毎回トレーニングに臨んでいます。
 
 
もちろん、そのための「気付き」であったり「課題」は提供してもらっているのですが、意識してそれを自分のモノにしなければならないのは自分なので、自分自身にも「探究する」という感覚がなければ身に付かないと思っています。
 
 
毎日が様々な項目についての探究の日々なのですが、ここでは主にこの2つについて書きたいと思います。
 
 
「サッカーに必要な身体の使い方、動き方」
「サッカーにおいて必要なボールを扱う技術」
 
 
上記に挙げた「身体の使い方、動き方」「ボールを扱う技術」は、「意識」によって形成されます。
 
 
これを聞いてピンとくる方とそうでない方がいらっしゃると思うので、ピンとこなかったかたは、こちらを是非よんで見て下さい。
 
「技術・動き方を身につけるための必須ポイントがある」
(パーソナルトレーナー 中野崇)
 
 
新しい動きや技術を身につける時って、とにかく繰り返し死ぬほど意識しまくるしか方法はありません。
 
 
だから、私は日常生活での動きも大切にします。
 
 
座り方、立ち方、呼吸の仕方、階段の降り方昇り方、食べ方、箸の持ち方、歯の磨き方、寝る姿勢、ドアの開け方、運転の仕方、、、
 
 
挙げだしたら切りがないですが、そういったところの意識の差が、動きを身につけるスピードに大きく関わってきます。
 
 
こちらも併せて読んで頂ければより理解が深められるかと思います。
 
「だから一流選手は必ず日常生活での動き方を大切にしています」
 
 
 
基本的な論理を理解すると同時に、日常生活とサッカーの動きがリンクしているということを常に頭に置きながら、普段の生活を送ります。
 
 
 
それを踏まえた上で、まずはその「動き作り」のトレーニングの一部例を紹介します。
 
 
 
 
この映像の中に、肩甲骨が羽みたいになってる映像がありますが、この名前は立つ甲とかいて「立甲(りっこう)」と言います。
 
 
私がこの動きの習得を目指して始めたのがちょうど1年半くらい前で、その当時は全くといっていいほど肩甲骨は飛び出ず・・・真っ平らでした。
 
 
ですが、毎日地道に続けた結果、このような変化を遂げました。
 
 
このような身体を作りを行うのには必ず理由がありますが、この「立甲」についてはこちらを是非ご覧下さい。
 
 
「立甲がパフォーマンスアップ、障害予防に重要な理由」
 
 
こういった「課題」を毎回帰国するたびにいくつかもらって、毎日一人じみーーーーーに、身体と会話しながら意識しまくって、その動きを出来るようにしていきます。
 
 
身体の変化は必ずピッチの上でプレーの変化として現れます。
 
 
そしてその変化を考察・分析しその理由をしっかりと「論理」として理解します。
 
 
 
そのためにはある程度の「知識」が必要で、言葉がわからないと「言語化」することができないので、私の場合はそれらに関連しているであろう本を読んで理解を深めることにしています。
 
 
事前に勉強していたり、毎日身体を動かす中で得られる気付きやヒントをしっかりと言語化しておくと、すぐ色んなことに結びつけて思考することができるので、1言われたら10理解できてしまったりもします。
 
 
なので、実際、思考力と思考速度、さらには言語化できるかできないかは、進化スピードに大きく関わっていると感じます。
 
 
 
 
私自身、知識を鵜呑みにするタイプではないので、まずは自分の身体を使って実験してからそれが正しいかどうか、自分に合うのかどうかを判断し、引き出しを増やしていきます。
 
 
「なぜ」「どうして」を問う癖がつくと、些細なことにも疑問を持つようになり、探究が尽きることがありません。
 
 
どうしてこの現象が起きたのか?
どうしてこれが出来るようになったのか?
 
 
といったことに気付きやすくするためにも、常に何かに「トライ」している状態であることが良いと私は感じています。
 
 
ただ、それが多すぎると分析するのに確信的なところに迫ることができないので、試す数というのは限定して行っています。
 
 
さて、ここまで書いてきましたが、結局私は何を目指しているのか?
 
という点ですよね。
 
 
私が目指している動きというのは、一言で言うなれば・・・
 
全ての無駄を排除し、理にかなった身体の動き方と使い方、です。
 
 
 
まず、理にかなった技術を発揮するためには、理にかなった身体である必要があります。
 
 
日本の伝統武道にも基本的な動作の「型」があるように、サッカーにもそういった「型」があって当然なのではないかと最近考えています。
 
 
実際に去年の夏に弓道を体験したときに感じたのは、型の重要性でした。
 
 
その「型」が出来上がる過程にはおそらく色んな試行錯誤があり、その洗練された美しい動きに辿り着くまでに探究を繰り返した人がいたから、無駄のない理にかなった動きに辿り着いたと思います。
 
 
そして、そういった型が「伝統」「文化」を生み出し、伝承されているということ。
 
 
これは、武道のみならず「陶芸」や「機織り」を体験したときにも同じような感覚を抱きました。
 
 
美しい動きは無駄のない理にかなった動き。
 
そしてその動きからは、感動が生み出される。
 
 
そんなことを、実体験を通じて感じました。
 
 
 
 
去年の9月頃に読んだ「頭脳から身体脳へ」(著者:宇城憲治)という本から、私が共感できる部分を含めて、いくつか抜粋させて頂きます。
 
 
 
 
生と死を意識せざるを得なかった実践の場から創出された武術の術技、型には、生きるための極意があります。
 
 
すなわち「負けは死を意味する」という、勝つこと以上に厳しい境地に至ったことからこそ、型は必然的に調和融合の理合いを兼ね備えたものとなり、自然体や平常心という居着かないからだと心を身につけるエキスが包括されました。
 
 
生と死の中から生まれた武術には、人を生かすという「心」、それを実践する技が存在します。
 
 
まさに「心」を伴った実践哲学であるからこそ、平和な未来に対し最大の哲学を持つものとなります。
 
 
伝統武道の場合は、もうそういった「型」が構築されているので、その型を習得する作業から入ることが可能ですが、サッカーにおいては「止める」「蹴る」「運ぶ」といった動作の基本技術は、まずその型を「構築」するところから始めなければなりません。
 
 
 
ようするに、意識的にトレーニングする中に、無意識化を可能にするシステムが必要だということです。
 
 
身体を通して身体で感じ、身体を通して考え、言葉にすること
 
平和な世の中にあるからこそ、身体を通して心を鍛えることで心の豊かさを育み
 
平和だからこそ、身体を高度なところに導く余裕があり、高度な技が創出されていき、そこに真の自信が備わっていく原点があるということを知ることが、現代社会においてもっと必要なことなのではないかと思います。
 
 
平和でなければ、スポーツなどをする余裕はありません。
 
 
哲学のない言葉は理屈になりがちですし、哲学をもった言葉には重みがあります。
 
 
だから、実践を伴うことでその言葉に「重み」が増します。
 
 
 
型の習得が人としての成長、人格形成の根源となっていくのであれば、このプロセスには人として生きる意味、そして価値があります。
 
 
 
「蹴る」「止める」「運ぶ」といった動作において、決まったやり方がないのがサッカーの現状であり、これを自分のやりやすいレベルに合わせてしまうと、一時的にはやりやすくても、重要な内面の一体化は見えてきません。
 
 
私も実際、こういったボールを扱う技術に関して小さい頃に誰かにしっかり教わったことはありませんでした。
 
 
「習うより慣れろ」とはよくいったもので、実際にボールを蹴って覚える方が圧倒的に早かったからだと思います。
 
 
 
ですが大人になって、しかも25歳を過ぎてから、自分の身につけてきた動作が理にかなっていない動きだということに気付かされました。
 
 
色んな鎧をかぶってかぶってかぶってきたのだなと、思い知らされました。
 
 
そこからは、その身につけた鎧を剥がしていく作業と同時に、この基本動作の本質を探究するようになり、もちろんやり始めは当然窮屈で、癖だらけの身体ですから、全くやりやすさのかけらもなく、出来ないことだらけで悪戦苦闘の日々でした。
 
 
それが何年も継続して続けていくことにより洗練され、自分が上手くなっていく過程を体験し、そこにはプレーや身体の変化だけではなく、内面の気付きや変化も感じられるようになり、そこに深みと面白さと生き甲斐を感じ、「生きる」とは何かを考えさせるという「本質的な部分」を感じることができるようになっていきました。
 
 
これは間違いなく、私の人生をより豊かなものにしてくれています。
 
 
今現在も、もちろん探究している過程で、完成という終わりはないものだと思っています。
 
 
完成させるために、探究しているわけではないですしね。
 
 
その先に何があるのか、そこで自分は何を感じるのか、どう考えるのか。
 
そういった私の知的好奇心を掻き立ててくれる。
 
 
 
だから私は、このパーソナルトレーニングを何年も継続して行っているのです。
 
毎回進化したトレーニングで、毎回違う発見があり、毎回面白くて楽しくて仕方ありません。←そう思っているの私だけかもしれません・・・笑
 
 
『最終的に辿り着きたい領域をイメージしながらメニューを組み立てるのか、今やるべきだと考えるトレーニングを積み重ねた結果、最終的に領域が上がるのか。
 
トレーニングの組み立てには前者も後者も必要で、常に両方を意識しながら選手とのトレーニングには臨んでいる』と言っていました。
 
さらに私は、毎回勝負のつもりで臨んでたりもします。
 
 
実際、本当に世界トップクラス、そして日本の未来を担う選手たちとのトレーニングはプレッシャーでしかないそうです。
 
 
それでもやはり『ただプレッシャー、つまりストレスなくして進化はないですし、そこで必ず「もう一度トレーニングしたい」と選手に選んでもらえるような指導者でありたい』とも言っていました。
 
『そのために必要なことは、自分が幅広くサッカー以外の知識を取り入れること。
 
またより新しい視点でサッカーを見ること。
 
さらにサッカーの常識を壊すこと』
 
 
指導者が選手の先をいくことが当たり前だと思っているからこそ、30手前の私なんかも、いとも簡単に上達させてしまうのだと思います。
 
 
だからこそ、常に成長した自分でトレーニングに臨むことが、最低限の礼儀だと私は思うのです。
 
 
 
スケールの大きな問題や意義を探究する楽しさも、この出逢いによって開花されたような気がします。
 
 
自分一人での進化スピードなんてたかが知れてるし、一人だったら高いところへはいけるけど、誰かとこうして協力すれば、もっと高く「遠く」へいける。
 
 
もう、感謝しかないです。
 
 
 
 
 
本の中で、宇城氏はこうも述べていました。
 
「道理をよく理解し、しかも技の修練をよくしているものは、その道理を心で理解したうえに、技術のうえに活かすことができる」
 
 
美しいものには、誰が見ても感動するものがありますよね。
 
それって「心がある」ということですよね。
 
 
 
 
 
 
 
私はこんなことを考えています。
 
 
「サッカーに型を作れば、文化としての伝承が可能となり、人の心をより豊かなものにし、社会に対してもっと貢献できるではないだろうか?」
 
 
 
 
だいぶ長くなってしまいましたが、そんな未知なる可能性を私は抱いております。
 
 
まだまだ先は長そうですが・・・地味に地道に丁寧に。
 
いく時は一気に!!!
 
という感じで。
 
そのときがくるまで、変わらず探究の日々を続けたいと思います。
 
 
 
 
最後に、いくつかトレーニング動画を紹介します。
 
本当に基本的なことしかやっていませんので、そんなびっくりたまげるプレーとかは出てこないので、期待値は高くしないで下さいね(笑)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
では、また!
 
 
 
 
YUKI