★2014年6月10日・・・人生最悪の1日。
髄液検査の結果、やはり癌性髄膜炎になってる事が分かった。
父のいない別室で、先生と看護師長さん、そして母と私で話し合いになった。
先生の患者さんの中でも、小細胞肺癌で癌性髄膜炎というのは、初めてとの事。
関節の痛みや、頭痛などが出始めてたら、時間が経ってしまってる事もあり、無治療だと間違いなく1~2週間、治療をしても1ヶ月ぐらいだろうと言われた。
今後の事について話す。
介護申請を受けて、自宅で看病するのか、それとも病院で入院して、治療をやっていくのか、それとも緩和病棟に行くのか・・・。
私は正直、もう苦しんで我慢して、治療を続ける父を見るのは嫌だった。
緩和で楽にさせてあげたい。
気持ちも楽にさせてあげたい。
これが私のその時の、正直な気持ちだった。
母は父が治療を頑張ってくれるなら、母自身も精一杯支えるから、なんとしてでも生きて欲しい!
これが母の正直な気持ち。
人それぞれに色々な選択があり、色々な考え方や意見がある。
だからこそ、すぐには答えは出せない。
でも今の私達には、時間がない!!
たとえ急いで答えを出したとしても、どの答えにも正解はないのだ。
父の性格からしてどんな状況でも、治療法は?って事になって、きっと治療法があれば、必ずやってくれと言うだろうと、先生は分かってた。
予想通り個室に戻り、先生が今回の病気の事を話すと父は、
『先生!治療法はどういったのがありますか?』
と言った。
『放射線は体の負担を考えて出来ないので、抗がん剤のみになります。でもこれも効き目がなくなってしまったら、これ以上の手立てはありません。』
と話し合いの時に先生は、今回の病気については、ある程度きちんと話しておきましょうって事になり、この言葉になった。
父は治療を続けたいと言った。
そして先生から
『○○さんはいつも我慢をするので、痛いときは痛いって我慢しないで、必ず言って下さいね約束ですよ』
先生と指切りをした父。
先生が出て行った後に、父は私と母に言う。
『俺の最期の自分のご褒美として、治療を頑張るわ』
こんなに苦しい思いをして、こんなに辛くて痛い思いをしてるのに・・・ご褒美って
それでも頑張ると言う言葉は、父がどれだけの決心で、どれだけの覚悟をしての選択だったんだろうか・・・
考えるだけで胸が苦しくなった。
★2014年6月11日・・・この日ぐらいから、どんどん言葉がうまく伝わらなかったり、言ってないことを言ったと、少し様子がおかしくなる。
★2014年6月12日・・・今回から抗がん剤の種類が変わる。
今までのシスプラチン+エトポシドから
トポテシン(塩酸イリノテカン)というものだ。
そして背中から、髄液を抜いた分の量を、抗がん剤注入するという
この注入が、とてつもない痛みだという。
私は父の痛みが分からない・・・分かってあげられないのが辛い。
そして父の体力は持つであろうか・・・それだけが心配。
痛み止めとして、医療麻薬を使用してるせいなのか、それとも一気に悪化してるのか・・・
話してる途中で、急にいびきをかいて寝たり、上を見てボーッとしたり、目線もどこを見てるか分からない時もあったり、変な事を言い出したり、いつもの様子とは明らかに違った。
話し方もおっとりし過ぎてて、ろれつが回らないような感じで、父ではない父の姿を見るのが怖かった。
~9へ続く~
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