~これまでの経緯など~8 | ★小細胞肺癌の父と家族の物語★

★小細胞肺癌の父と家族の物語★

2013年5月に小細胞肺癌(Ⅲb)と診断され、その後脳転移、そして2014年6月には、骨転移と癌性髄膜炎にもなり、同年8月7日父自身の誕生日が命日となりました。最悪な状況の中でも、最期まで前向きに諦めなかった父と、その家族の日々の出来事などを綴っていきます。

★2014年6月10日・・・人生最悪の1日。


髄液検査の結果、やはり癌性髄膜炎になってる事が分かった。


父のいない別室で、先生と看護師長さん、そして母と私で話し合いになった。

先生の患者さんの中でも、小細胞肺癌癌性髄膜炎というのは、初めとの事。


関節の痛みや、頭痛などが出始めてたら、時間が経ってしまってる事もあり、無治療だと間違いなく1~2週間、治療をしても1ヶ月ぐらいだろうと言われた。


今後の事について話す。

介護申請を受けて、自宅で看病するのか、それとも病院で入院して、治療をやっていくのか、それとも緩和病棟に行くのか・・・



私は正直、もう苦しんで我慢して、治療を続ける父を見るのは嫌だった。

緩和で楽にさせてあげたい。

気持ちも楽にさせてあげたい。

これが私のその時の、正直な気持ちだった。


母は父が治療を頑張ってくれるなら、母自身も精一杯支えるから、なんとしてでも生きて欲しい!

これが母の正直な気持ち。



人それぞれに色々な選択があり、色々な考え方や意見がある。

 だからこそ、すぐには答えは出せない。

 でも今の私達には、時間がない!! 

たとえ急いで答えを出したとしても、どの答えにも正解はないのだ。



父の性格からしてどんな状況でも、治療法は?って事になって、きっと治療法があれば、必ずやってくれと言うだろうと、先生は分かってた。


予想通り個室に戻り、先生が今回の病気の事を話すと父は、

『先生!治療法はどういったのがありますか?』

と言った。



『放射線は体の負担を考えて出来ないので、抗がん剤のみになります。でもこれも効き目がなくなってしまったら、これ以上の手立てはありません。』


と話し合いの時に先生は、今回の病気については、ある程度きちんと話しておきましょうって事になり、この言葉になった。



父は治療を続けたいと言った。


そして先生から

『○○さんはいつも我慢をするので、痛いときは痛いって我慢しないで、必ず言って下さいね!!約束ですよ』

先生と指切りをした父。


先生が出て行った後に、父は私と母に言う。


『俺の最期の自分のご褒美として、治療を頑張るわビックリマーク


こんなに苦しい思いをして、こんなに辛くて痛い思いをしてるのに・・・ご褒美ってしょぼん


それでも頑張ると言う言葉は、父がどれだけの決心で、どれだけの覚悟をしての選択だったんだろうか・・・

考えるだけで胸が苦しくなった。



★2014年6月11日・・・この日ぐらいから、どんどん言葉がうまく伝わらなかったり、言ってないことを言ったと、少し様子がおかしくなる。



★2014年6月12日・・・今回から抗がん剤の種類が変わる。

今までのシスプラチン+エトポシドから


トポテシン(塩酸イリノテカン)というものだ。


そして背中から、髄液を抜いた分の量を、抗がん剤注入するというあせる


この注入が、とてつもない痛みだという。

 

私は父の痛みが分からない・・・分かってあげられないのが辛い。

そして父の体力は持つであろうか・・・それだけが心配。


痛み止めとして、医療麻薬を使用してるせいなのか、それとも一気に悪化してるのか・・・


話してる途中で、急にいびきをかいて寝たり、上を見てボーッとしたり、目線もどこを見てるか分からない時もあったり、変な事を言い出したり、いつもの様子とは明らかに違った。


話し方もおっとりし過ぎてて、ろれつが回らないような感じで、父ではない父の姿を見るのが怖かった。



~9へ続く~




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