ムダな言葉のなかでも、
よく目にするのが「という」です。


私の仕事は家族を守るということだ。

私の仕事は家族を守ることだ。

よく「学生さんですか?」ということを質問される。

よく「学生さんですか?」と質問される。

走るということに飽きてしまった。

走ることに飽きてしまった。

タモリというのは、お昼の顔だ。

タモリは、お昼の顔だ。

あの失敗のせいで、人を信じるということができなくなった。

あの失敗のせいで、人を信じることができなくなった。

挨拶をしないという人が信じられない。

挨拶をしない人が信じられない。

「という」には、
事柄を強調する意味があります。

したがって、いずれの原文も、
誤りではありません。

しかし、「という」を付けて
強調する必要が本当にあるのか?
そこは、よく見定めたほうがいいでしょう。

無自覚に使う「という」は、
ときに文章を冗長にするからです。


削っても意味に変化がなく、
なおかつ、すっきりと読めるようなら
削ったほうが賢明です。