どうなんですかねえ | ライター海江田の 『 シラフでは書けません。 』

どうなんですかねえ

10日、南秀仁と杉本竜士の、FC町田ゼルビアへのレンタル移籍が決まった。
ふたりの現状からすると、いい判断だと思う。
年齢的に、どんどん試合経験を積んだほうがいい。
これは、あくまでプレーヤーの視点に立ってのことだが。

今回の移籍がまとまるにあたって、最初に動きがあったのは選手のエージェントだ。
町田の楠瀬直木監督は「古巣からよく知った選手を引っこ抜くとか思われると、困るなぁ。もちろん、戦力として欲しかったのはあるけど」と、そのへんをだいぶ気にしていた。
現に使われていないのだし、そんなの気にしなくてもいいのだが、誤解のないように一応書いておく。

南の一番いいところは、ゴール前の状況判断だ。冷静さだ。
瞬間的に、ゴールに直結するルートを見つけ、任務を遂行できる。
杉本の一番いいところは、野性味あふれるドリブルだ。
けっして巧い選手ではないが、局面を打開する力がある。
感情量の多さも魅力だ。
ダメなところは、ふたりとも共通していて、ムラがありすぎるところである。
チームよりも、自己が突出しすぎる点だ。
これは使いようによって、武器にもなるのだけど。

長所については、JFLで違いを示せるだけの力は持っている。
とにかく、がんばれ。結果を出せ。
応援している。

これに関連して、そのうちどっかの媒体でまとめるだろう原稿のさわりを少し書いておこう。
今年はマジでヴェルディの原稿を書いていない。
サッカーダイジェストでちょこちょこっと書いているくらい。
なのに、どこかほっとしている自分がおり、よくないなぁと思いつつ、需要がないものはしょうがあるめえと開き直ったりしている。
それが僕の書き手としての力だからだ。

なぜ、東京ヴェルディというクラブが3年前に潰れかけたか。
直接的には資金難だ。
だが、それを引き起こした要因は別にある。
公共的な存在になっていない。
読売グループの私物の域を出なかった。
そのことに集約される。

このウイークポイントを、かなりカバーしてくれたのが多くの選手を輩出してきた育成組織と、女子のベレーザ・メニーナの存在だった。
育成組織のいいところは、地元の子どもたちが集まり(一部越境の子もいるが)、ひとりではなく多くの指導者の手を経ていることだ。
これだけで一定の公共性が担保される。

だから、このクラブにおいて、ユース出身の選手を使い、将来的にチームづくりの軸に考えていくのは、いたって常識的なことなのである。
彼らこそが、最大の弱点を埋めてくれる存在なのだから。
ユース出身者の積極起用を主張する人は、愛着の深さもあるのだろうけど、このことを認識している(無意識にせよ)というのが僕の推測。

要所に練れた選手を配し、チーム力の最高値を高め、かつ下ブレを最小限に抑えつつ、2年後、3年後、生え抜きの選手たちが中軸を担うイメージのチームづくりを行っていく。
公共性なんてお堅い言葉で説明しなくても、それがダイレクトに伝わるチームになっていく。
これしかないと僕は思うのだけど、現実はそこから離れる一方だ。

いまんとこ見えるのは、どうにかしてJ1に上がり、資金を増強したうえ、どうにかしてJ1に生き残る。
二度も、どうにかしなければならない。
難易度の高さはけっこうなものだ。
失敗したら、何が残る?

実際、若い選手を使うのはリスクが大きい。
完成品ではないのだから、当たり前。
ほかのクラブと違い、ヴェルディの場合はそのへんのむつかしさがある。
むつかしいけれど、考えようによっては相当楽しいはずなのだ。
理想では、現場のトップがそのイメージを組み込み、周囲が広く理解し、支え、応援するといったものになる。
まぁ、そう簡単には勝てるチームにならないですよ。
でも、しょうがない。
それがクラブの力であり、器の大きさなのだから。

話は変わって、先日、うちの近所でポスターを貼って歩くヴェルディサポーターと鉢合わせになった。
炎天下のなか、頭が下がる。
今回つらつら書いたことは、そういった地道な活動と両輪なのだと思う。

また、公共性に関していえば、「私」の部分を極力排除するのが最も賢明な姿勢なのだが、こちらも現実はそうなっていない。
そこらも大変気になっている。


●掲載情報
『サッカー批評』 issue63(双葉社) 7月10日発売
「番記者が監督を強く批判できない理由」を寄稿。
まず、書かずにはいられない、という気持ちになりたいっすね。