開封(汴州) | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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開封 地図

開封汴州)は,中国の河南省北部に位置し,五代や北宋の時代に都が置かれた都市である。


開封は,華北平原の中心部,黄河中流の南岸にあり,中国文明の中心地域,交通の要衝に位置している。

この開封の都市としての歴史は,春秋時代の初めに鄭の国の君主によって城や町が築かれたことによって始まる。つづいて戦国時代には魏の国の都が置かれて大梁と名づけられ,当時の商業や学問の一大拠点となった。

しかし,この後はいったん衰え,秦・漢・魏晋南北朝の時代には重要性が下がり,しばらく歴史の表舞台には現れない状況が続いた。


ところが,隋代になると,大運河が建設を機に,再び開封に光が当たるようになった。開封は黄河と大運河の結節点に位置しており,このために物資の集積地となり,商業の重要な拠点となったのである。

さらに,唐の滅亡後の五代の時代には,後梁の都が置かれたのを初めとして後唐以外の4つの王朝で首都となって発展した。特に五代最後の後周の時代には,第2代皇帝の世宗によって積極的な開発がなされたことで飛躍的に発展した。

そして,五代につづく宋の時代にも都が置かれたが,この宋の前期,北宋の時代に開封は全盛期を迎えることになった。


北宋の時代,開封はその首都として中国の政治および経済の最大の中心となり,空前の繁栄を見せた。

開封は皇城・内城・外城の三重の城の構造でできており,城内には多数の官庁や家屋が築かれ,運河が城内にも連結されるなど,高度に整備されていた。

人口は少なくとも50万以上で,都市内には商店・飲食店・演芸場などが立ち並び,多くの人々が行きかい,さかんに取引や娯楽が行われて賑わった。

このような開封の繁栄ぶりは孟元老による『東京夢華録』によって詳細に記されており,また張択庵による「清明上河図」も開封を描いたものと考えられている。


清明上河図

<開封を描いたと見られる「清明上河図」>


その後,女真人の金の征服によって北宋が滅びて南宋の時代になると衰え,そして元末には黄河の大洪水による被害などもあって都市はすっかり荒廃し衰退した。

しかし,明の時代にはいちおうの復興を果たし,明と清においては河南省の州都となるなど,その力を少しずつ取り戻していった。そして,現在でも河南省の主要都市の一つとなっている。