大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

東大・一橋・外語大・早慶など難関校を中心とする大学受験の世界史の対策・学習を支援するためのサイトです。

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このブログについて

この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

このブログは,営業ではなく個人的な活動として行っています。(※指導・添削のサービスにご関心をお持ちの方は,「世界史の指導・添削サービスについての情報」をご覧ください。)

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東京大学2016年第3問(3)の過去問題と,東大世界史講師(管理人)が作成した解答解説です。

- 解く際の注意 -

問題を解く前に解答が目に入るのを防ぐために,問題と解答の間に空白を大きくとってあります。解き終わったら,下へスクロールして解答を見て答え合わせを行い,また解説を読んで知識を補充してください。

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不必要に問題の全文を掲載することは避けて,解答するのに直接的に必要な範囲でのみ問題文を引用しています。全文を確認したい人は,WEB上に公開されている各大学の入試問題データや市販の過去問題集などで確認してください。

問題

古代ローマにおいて,紀元後80年に完成し,剣闘士競技などが行われた,ローマ市最大の競技施設の名を答えなさい。












解答

コロッセウム

解説

コロッセウムは,古代ローマの帝政期にローマ市内に建設された,円形の闘技場である。

古代ローマでは,有力者が民衆に対して食料や娯楽などの恩恵を授与し,民衆はそれに応じて有力者を支持するという関係が形成されていたが,このような有力者が民衆に提供する恩恵は「パンと見世物」(「パンとサーカス」)と呼ばれる。このため,貴族や富裕者など有力者は,積極的に食料の配給や見せ物の開催を行った。

ローマが帝政期に入ると,帝国の繁栄のなかで富や物資が流入してくるのを背景に,皇帝を中心にさかんに食料や娯楽の提供が行われるようになった。そして,1世紀後半には,フラウィウス朝の皇帝ウェスパニアヌスによって巨大な闘技場の建設が開始され,その次の皇帝ティトゥスの時代に完成した。これがコロッセウムである。

このコロッセウムは,約5万人もの収容人数を誇る,古代ローマ最大の闘技場で,剣闘士競技などの多くの興行が実施された。現在でもその威容をとどめており,ローマの代表的な観光名所となっている。

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ヒッティーンの戦い

<ヒッティーンの戦い>

パレスティナ 地図

<パレスティナの地図>

ヒッティーンの戦いは,1187年,パレスティナ北部のヒッティーンの丘において,サラディン率いるイスラーム軍とイェルサレム王国などの十字軍との間で行われた戦いである。

十字軍とイスラーム

シリア・パレスティナの地は7世紀以来イスラーム勢力の支配下にあったが,11世紀末からは西ヨーロッパのキリスト教勢力による十字軍が展開され,その結果,イェルサレムなどがキリスト教勢力によって征服されてイェルサレム王国などの十字軍国家が建設された。

これに対して,当時のイスラーム側では,ファーティマ朝やセルジューク朝などの多くの王朝が分立して相互に対立していたこともあり,有効な対応ができなかった。しかし,12世紀後半にサラディンサラーフ・アッディーン)がエジプトでアイユーブ朝を建国し,さらにシリアでも支配領域を拡大すると,彼を核として十字軍に対する反撃の体制が整っていった。

ヒッティーンの戦い

1187年,サラディンはイスラーム世界に向けて十字軍に対するジハードに立ち上がることを訴え,これに呼応して西アジア各地からイスラームの戦士たちが彼のもとに結集してきた。一方,イェルサレム王国の王となったギー・ド・リュジニャンは十字軍の戦力をかき集めて,イスラーム勢力に立ち向かうことをはかった。

そして1187年7月,パレスティナ北部,ティベリアス湖の西方のヒッティーンの丘の付近で,両軍が衝突した。この戦いでは,サラディンが巧みな戦術によって敵を追い込んで十字軍勢力は包囲され,イスラーム側の大勝利に終わった。

この勝利の余勢を駆って,サラディンは主要な都市を次々と奪回していき,イェルサレムをも回復する。こうして,ヒッティーンの戦いを契機として,イスラーム勢力が巻き返しに成功し,逆に十字軍は危機に陥ることになった。

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マラーズギルドの戦い

<マラーズギルドの戦い>

アルプ・アルスラーンとロマノス4世

<アルプ・アルスラーン(上)とロマノス4世(下)>

マラーズギルドの戦いマンツィケルトの戦い)は,1071年,アナトリア東部のマラーズギルドにおいて,ビザンツ帝国とセルジューク朝の間で行われた戦いである。

アナトリアへのセルジューク朝の進出

アジア最西端にあたるアナトリア(小アジア)の地は,ローマ帝国の分裂以後,その東半を継承したビザンツ帝国の領土となっており,7世紀からイスラーム勢力による地中海方面への進出が始まった後も依然としてビザンツ帝国が維持しつづけていた。

ところが,11世紀に中央アジアからイランに進出して建国したトルコ系のセルジューク朝は,イランやイラクを支配下に置くと,つづいて西方のシリアに進出し,さらにアナトリアへの侵入を行うようになり,これによってビザンツ帝国の東部の国境は脅かされるようになった。

マラーズギルドの戦い

このようなセルジューク朝による度重なる侵入を受けて,1071年,ビザンツ皇帝ロマノス4世は,大軍を率いてアナトリアへの遠征を実施する。これに対し,セルジューク朝の第2代スルタン,アルプ・アルスラーンもシリアから軍を率いて北上してアナトリアへと向かった。

そして,1071年8月,両軍はアナトリア東部のマラーズギルドにおいて対峙した。セルジューク朝のスルタンが和平の打診を行うもビザンツの皇帝はこれを一蹴し,戦闘が開始された。この戦いでは,ビザンツ帝国軍は兵の数でははるかに上回っていたものの内紛のために崩壊状態になる一方,セルジューク朝軍は士気が高くマムルークを中心に奮闘した。その結果,セルジューク朝が大勝し,ビザンツ帝国は惨敗して皇帝自身まで捕虜になる有り様であった。

このマラーズギルドの戦いの結果,ビザンツ帝国の東方の防衛線は決壊し,以後,アナトリアにはトルコ系民族・イスラーム勢力が急速に流入していく。こうして,この戦いはアナトリアがトルコ化・イスラーム化していくうえで歴史的な契機となった。

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