大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

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アメンホテプ4世

<アメンホテプ4世>


アメンホテプ4世イクナートン)(前14世紀)は,古代エジプト新王国時代第18王朝の王である。


アメンホテプ4世は,前14世紀前半頃,古代エジプト王国新王国時代の第18王朝において,王(ファラオ)の子として誕生した。

前16世紀に第18王朝が始まって以降,王国は順調な発展を遂げ,北はシリア・パレスティナ,南はヌビアへと支配領域を拡大したが,そのような発展の結果として,王権が強まる一方で,首都テーベの神であったアモンアメン)神の権威が高まり,その神官たちの勢力も伸長した。このため,王権の強化を進める王にとってテーベの神官たちは厄介な存在になり,両者の間には軋轢が生じるようになってきた。

アメンホテプはこのような情勢のなかで王子として成長したが,そのなかで太陽神アトンアテン)の信仰を身につけ育んでいった。


前1364年頃,アメンホテプ4世は王として即位する。以後,彼は神官団との対立を背景に,絶対的王権の実現を目指して,アマルナ改革とも称される一連の大胆な改革を展開していった。

彼は,それまでのアモン神やその他のエジプトの伝統的な神々にかえて,太陽神アトンの信仰を打ち出した。しだいに政策は急進化し,アトンは唯一絶対の神とされてその信仰が強制され,アモンなど他の神々の信仰は禁止されるようになった。

また,アトン神の信仰の拠点となる新たな都をつくることを企図して,テーベとメンフィスの中間あたりに位置するアマルナテル・エル・アマルナ)に新都を建設してアケトアテン(アトンの地平線)と命名し,まもなくここに遷都した。この頃には,自己の名をアモンに由来するアメンホテプからアトンの名を含むイクナートンへと改名することも行っている。

そのほか,彼は文化の指導にも熱心で新たな方向性の文化を創出を試み,そのなかで美術においては従来の理想主義的な様式にかわって写実主義風のアマルナ美術が生まれた。


アメンホテプ4世とその家族

<アトンを信仰するアメンホテプ4世とその家族>


これらの改革は神官勢力を抑えることには一応の効果を上げ,また新たな信仰は他民族にも開かれた普遍的な宗教となる可能性を秘めていた。しかし,強引で現実を見ない政策は,神官のみならず,伝統的な神々に慣れ親しんできた民衆からの反発を受け,また対外的にはシリア・パレスティナに対する消極的姿勢のために現地の勢力が離反し,ヒッタイトが影響力を拡大していった。結局,内外の動揺を前に改革は後退を余儀なくさせられ,失意のなかで王は1347年頃に死去した。そして,死後まもなく,従来の信仰への復帰とアマルナからメンフィスへの再遷都が決定され,アトンの信仰は廃止されてアメンホテプは王名表からも抹消された。

こうして,エジプト史上未曾有の興味深く画期的な改革は無残な挫折に終わった。アメンホテプ4世は,きわめて稀有な,強烈な個性と思想をもつ王であった。彼とその改革は記録から消されたが,エジプト人の心に忘れがたい記憶を刻むことになった。

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ヨーゼフ2世

<ヨーゼフ2世>


ヨーゼフ2世(1741~1790年)は,18世紀後半のオーストリア・ハプスブルク帝国の君主である。


ヨーゼフ2世は,1741年,オーストリア・ハプスブルク帝国の首都ウィーンで,君主マリア・テレジアとその夫フランツの長男として生まれた。オーストリアおよび諸領邦から構成される帝国の後継ぎとして期待をかけられ,英才教育を施された。理想家で勝気な性格だが才気にあふれ,新しい学問や思想に強い関心を示し,特に当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想に強い影響を受けた。

1765年,父フランツの死を受けて神聖ローマ皇帝の地位につき,母マリア・テレジアとの共同統治を開始したが,依然として実権は母が握っており,彼が担当するのは外交の分野のみに限られていた。そして1780年に母が死去すると,彼は満を持して単独統治を開始し,自身の理想の実現へと乗り出した。


ヨーゼフは,国家の発展と人民の幸福を目指し,絶対的な君主権を通じて啓蒙思想にもとづく近代化を推進する啓蒙専制主義に立って,大胆かつ抜本的な改革を精力的に実行していった。

まず,マリア・テレジア以来の帝国の中央集権化をいっそう推進し,行政・司法・軍事などの統合や合理化を行い,その一環で帝国全体でドイツ語を公用語とすることも決定した。

そして,宗教と農民の問題では,古い体制に切り込んで劇的な改革を断行する。1781年,宗教寛容令を制定し,プロテスタントやギリシア正教徒などの非カトリックの信仰の自由を認め,同時に教会や修道院の財産を没収して国家の財源に組み込んだ。また同年,農奴解放令を発表し,農奴制を廃止して農民に自由を付与するとともに,貴族の特権や経済基盤を切り崩した。

この他にも,ヨーゼフは,経済・社会・文化など多方面にわたって改革を矢継ぎ早に実施していった。対外的には,ポーランド分割に参加したほか,バイエルンへの侵攻を試みるなど,積極的な領土拡大政策をとった。


宗教寛容令

<宗教寛容令>


このようなヨーゼフの改革は画期的なもので国家の近代化に資した反面,強引で伝統や実情を無視した政策は教会・貴族や領邦の激しい反発を呼び,修正や撤回を余儀なくされるものも多かった。それでも彼は強い信念をもって改革を進めたが,1788年に開始したオスマン帝国との戦争で親征を行った際に肺病を悪化させて病床に伏せるようになり,1790年に息を引き取った。墓は王の意向できわめて簡素なものにされ,墓碑には「善き意志をもちながらも,何事もなしえなかった王,ここに眠る」という彼自身の選んだ言葉が刻まれた。

ヨーゼフ2世は,その急進的な改革のために,「民衆王」や「革命家皇帝」とも呼ばれる。彼の改革は過激で現実にそぐわないものが多く軋轢や混乱も生んだが,帝国の発展や社会の近代化のうえで確実な意義をもった。そして,その改革精神はヨーゼフ主義と呼ばれ,彼の強い個性についての記憶とともに後世に引き継がれていった。

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エリザベス1世

<エリザベス1世>


エリザベス1世(1533~1603年)は,イギリス・テューダー朝の女王である。


エリザベスは,1533年,イギリス・テューダー朝の国王ヘンリ8世と第二妃アン・ブーリンとの間に生まれた。王女として生まれたものの,母は不貞の疑いで処刑され,父からは疎外されて,寂しい子ども時代を送った。教育に関しては,宮廷の人文主義者らの指導を受けて教養を学び,早くから聡明さを示した。

父の死後はまず異母弟のエドワード6世が,ついで異母姉のメアリ1世が王位を継承したが,メアリの時代にはエリザベスは敵視され,一時はロンドン塔に幽閉されるなどの苦難を経験した。このような時期を経て,1558年,メアリが後継ぎを残さずに死去したために,25歳のエリザベスは国王として即位することになった。


当時は国内では宗教改革をめぐる混迷が続き,国際的にはスペインとフランスの覇権争いが繰り広げられるなど内外ともに不安定な状況にあったが,こうした情勢を前にエリザベスは廷臣たちを用いながら的確でバランスのとれた政治を行った。

まず,宗教問題については,1559年,首長法を再び発布するとともに統一法を制定してイギリス国教会を国家の宗教として定めたが,その内容を穏健で中道的なものにして広い国民が受容できるように配慮した。これによって新旧両派の間で激しく振れ動いてきたイギリスの宗教は国教会でいちおう確定された。

対外的には,外国の抗争に巻き込まれるのを極力避けるように慎重な姿勢をとったが,戦略的な判断からプロテスタント勢力の支援を行うこともあった。オランダ独立戦争でオランダ側を支援したこともあって,1588年にはスペインの無敵艦隊アルマダ)による侵攻を受けたが,女王はこれに勇敢に立ち向かい,ドレークホーキンズらの活躍もあって撃退することに成功した。

このように厄介な問題を収拾し,未曾有の国難を乗り切ったことで,国内では明るい気分があふれた。また,この頃にはイギリスでルネサンスが興り,シェイクスピアらの優れた文芸が時代に花を添えた。こうして,この時期のイギリス人は繁栄を謳歌し,エリザベスはその象徴として讃えられた。


アルマダの海戦

<アルマダの海戦>


治世の晩年になると,そのような雰囲気にも陰りが見えてくるようになった。経済は深刻な不況に陥り,また議会との軋轢が目立ってきた。それでも,彼女は社会政策などを実施して対策に取り組み,議員たちには誠意をもって話し合いを行うことで理解につとめた。そして,1603年,女王はその長い治世を終えた。彼女は生涯を通じて独身を守ったために子をもたず,その死とともにテューダー朝は断絶することになった。

エリザベスは,不遇な少女時代を通じて調和のとれた判断力を身につけ,困難な時局に対応してイギリスを守り導いた。彼女は国家と国民を愛したが,国民もまた彼女のことを愛し,その治世はイギリスの人々から繁栄の時代として記憶されることになった。

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