大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

東大・一橋・外語大・早慶など難関校を中心とする大学受験の世界史の対策・学習を支援するためのサイトです。

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このブログについて

この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

このブログは,営業ではなく個人的な活動として行っています。(※指導・添削のサービスにご関心をお持ちの方は,「世界史の指導・添削サービスについての情報」をご覧ください。)

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康有為

<康有為>


康有為(1858~1927年)は,中国の清朝末期から中華民国初期の思想家・政治家である。


清朝末期の19世紀半ば以降,中国は西洋列強の衝撃による激動を経験していくが,康有為は中国のそのような時代に広東省で官僚の家に生まれた。幼少の頃から聡明で,熱心に勉強し文章もつくったという。

彼はまず儒学を修めたが,それだけでは満足せずに道教や仏教をも学び,また20歳過ぎに香港や上海を訪れて西洋の情報に触れてヨーロッパの思想や制度に強い関心を抱くようになった。30歳の頃には,政治的な実践を重んじる公羊学を信奉するようになる。そして,1895年,清朝が日清戦争に敗れて下関条約を結んだ年に,彼は科挙に合格して官吏の道に入った。


康有為は,西洋列強の進出を受けて清朝が動揺していくなかで,強い危機感を抱くとともに政治改革の必要性を痛感し,そこで立憲君主制への体制変革を目指す変法運動を展開した。

彼は儒学の開祖である孔子は社会改革者であったとする斬新な儒学の解釈を打ち出し,これを理論的根拠として変法を提唱した。彼は北京や上海などで勉強会を創立し,梁啓超ら同志とともに雑誌や新聞を発行するなど,変法の宣伝活動を精力的に行った。

また,有為はすでに科挙受験の頃から皇帝への改革を請願する上申を繰り返し行っていたが,1898年,ついに皇帝側近の仲介もあって光緒帝に対して政見を直接説明する機会を与えられた。ここで彼の説得は光緒帝の心を動かし,皇帝によって戊戌の変法と呼ばれる画期的な政治改革が開始されることになった。


ところがこのような改革は西太后ら保守派の反発を招き,まもなく戊戌の政変が起こって光緒帝は幽閉され,変法派は逮捕され,変法運動はあえなく挫折する。康有為は危うく難を逃れて亡命し,その後も海外で清朝の維持を前提とした立憲君主政の樹立を目指して活動を続行するが,しだいに清朝を打倒して共和国を樹立することを狙う革命派の勢力が強くなっていった。1911年からの辛亥革命によって清朝が滅んで中華民国が成立すると彼は帰国し,なおも清朝の復活を訴えて運動を続けたもののもはや人々の支持を得られず,政治の表舞台から姿を消したまま1927年に死去した。

彼は独自の思想と魅力的な政策を打ち立ててそれを信じて活動を続けたが,初めは急進的であるとして受け入れられず,後には時代遅れとして顧みられなかった。こうして康有為は激動の時代のなかで時機を得られずに挫折することになったが,しかし,中国の将来についての一つの有力な可能性を力強く提示して歴史と記憶に残る政治家となった。

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今日から3日間,11月25日(金)・26日(土)・27日(日)には,東大の学園祭・駒場祭が駒場キャンパスで行われます。


駒場祭には自分も在学中に積極的に参加して活動したので思い出がたくさんありますが,1~2年生中心に運営される活気のある学園祭です。

駒場キャンパスは入試の際の文系の試験会場でもありますね。


イベントや出店などをする大学生の人はがんばってください!

東大に興味のある高校生や受験生の人は行ってみるといいと思います!


自分も日曜の午後だけかろうじて予定が空けられそうなので行くかもしれません。

運営する人も見に行く人も楽しみましょう!

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ホセ・リサール

<ホセ・リサール>


ホセ・リサール(1861~1896年)は,19世紀後半のフィリピンの作家・民族主義運動家である。


ホセ・リサールは,フィリピンがスペインの植民地支配下にあった時代の1861年,フィリピン北部ルソン島のマニラ近郊で,裕福な中国系フィリピン人の家系に生まれた。幼少期から非凡な才能を示し,初等教育と中等教育をきわめて優れた成績で終えた後,マニラの名門大学に入学して医学を学んだ。このように順調で恵まれたように見える少年時代を送ったが,その一方で自身や家族に対するスペイン系白人からのさまざまな差別を経験して,その記憶は心に深く刻まれた。

21歳のとき,彼は国を出てヨーロッパへと旅立つことを決め,宗主国スペインをはじめとして,つづいてフランス・ドイツに留学し,ヨーロッパの大学で医学のほか哲学や文学を学んだ。こうして海外で過ごす間,西洋の学問を学ぶとともに,同胞であるフィリピン人の留学生や亡命者と交流し,そのなかで彼はフィリピン人としての民族意識に目覚めていき,民族主義の運動に身を捧げるようになった。


リサールは,フィリピンの民族主義運動の旗手となって,スペインの植民地支配の不当性を訴えるとともに,フィリピン人の意識やフィリピンの社会を改革することを目指して運動を展開した。

彼は1887年に小説『ノリ・メ・タンヘレ』(『私に触るな』)を,1891年には続編の『エル・フィリブステリスモ』(『反乱』)を発表して,フィリピン植民地政府の圧政やカトリック教会の腐敗を告発し,強く糾弾した。この著作はフィリピンの内外において大きな反響を呼び,知識人層を中心にフィリピン人の民族意識を呼び起こすことに大きく寄与することになった。

さらに,1892年にフィリピンに帰国すると,言論だけでなくより積極的な行動を行うことを試みて,フィリピン人の相互の協力やフィリピン社会の改革を目指すフィリピン同盟を結成した。


小説『ノリ・メ・タンヘレ』

<小説『ノリ・メ・タンヘレ』>


このような活動によってリサールの影響力はきわめて大きいものになったが,同時にフィリピンの植民地政府やカトリック教会からは危険人物と見なされて警戒されるようになった。1892年に帰国してまもなく,彼は逮捕されてフィリピン南部ミンダナオ島へと追放され,その後,1896年にフィリピン革命が発生すると,リサール自身は時期尚早の武力革命には反対していたにもかかわらず首謀者と見なされて死刑の判決が下された。リサールは最後に祖国への愛をうたった詩を残して,同年12月30日,マニラで銃殺刑によって処刑された。

リサールは民族主義の先駆者となってフィリピンに大きな影響を与え,フィリピン人の民族意識を覚醒させることに貢献し,その死後もフィリピン人の民族運動を支えることになった。現在でもフィリピン最大の国民的英雄として,人々から厚く尊敬されている。

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