大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

このブログは,営業ではなく個人的な活動として行っています。(※指導・添削のサービスにご関心をお持ちの方は,「世界史の指導・添削サービスについての情報」をご覧ください。)

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アンリ4世

<アンリ4世>


アンリ4世(1553~1610年)は,16世紀末から17世紀初めに在位した,フランス・ブルボン朝の初代国王である。


アンリは,ヴァロワ朝後期の1553年,フランス南西部の都市ポーにおいて,親王家であるブルボン家の当主の子として誕生した。熱心なユグノー(カルヴァン派プロテスタント)であった母の影響でプロテスタントの信仰を持つようになり,父を継いでブルボン家の当主になるとユグノーの代表格となった。

フランスでは1562年からユグノー戦争が始まり,国王・カトリック・ユグノーの3勢力の間で戦いと駆け引きが展開されていくが,そのなかでアンリはユグノー陣営の中心として奮闘する。1572年には国王側との妥協の過程で王の妹との結婚が決まったが,その婚礼の際にサンバルテルミの虐殺事件が起こり,彼自身も捕えられた。彼はかろうじて生き延びると,1576年に脱出してユグノー陣営へと帰還し,その後,奇しくも同じ名前を持つ,ヴァロワ王家の国王アンリ3世,カトリックの中心であるギーズ公アンリとの間で,三つどもえの抗争を繰り広げて勇敢に渡り合った。

1589年に国王アンリ3世が過激派のカトリックによって暗殺されたことでヴァロワ朝が絶えると,血統により王位継承者となっていた彼は国王アンリ4世として即位を宣言し,ここにブルボン朝が開始された。ところが,プロテスタントであった彼はカトリック勢力からは王位を認められず,また内戦も依然として続行されていた。


サンバルテルミの虐殺

<サンバルテルミの虐殺>


この困難な状況において,アンリ4世はその抜群の政治的感性を発揮して,王位の確保,そして内戦の収束のために,大胆かつ巧妙な手を打っていく。1593年,彼はカトリックに改宗するという重大な決定を行い,これによってカトリック勢力の支持をとりつけることに成功,翌94年には首都パリへの入城を果たして戴冠式を挙行した。その一方で彼はユグノーへの配慮も怠らず,1598年にはナントの王令を発して信仰の自由を保障するという英断を下した。これによって長きにわたって続いたユグノー戦争に終止符を打った。

内戦を収拾したアンリ4世は,つづいて,戦乱によって分裂し荒廃した国家の統一と再建に乗り出していく。彼はシュリー公などの有能な臣下を起用して中央集権化や経済発展を推進し,行政面ではブルジョワジーを官吏に起用して貴族を抑え,経済面では東インド会社を設立するなど産業や貿易の振興に取り組んだ。


パリに入城するアンリ4世

<パリに入城するアンリ4世>


このようにアンリ4世は国家の再建と発展を順調に進め,国民も陽気で親しみやすい彼のことを好み,フランスには平和と安定が取り戻された。ところが,1610年,彼が56歳のとき,病気のシュリー公の見舞いのためにパリ市内を馬車で移動していた際,突然,狂信的なカトリックの信者によって襲われ,命を失った。

こうしてアンリ4世はこの世を去ったが,その絶妙な政治感覚と愛される人柄によって,悲惨な内戦を終わらせて国家の統一と再建を果たした。彼によってフランスではブルボン朝が創始されるとともに,強力な絶対主義国家の礎が築かれた。

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イヴァン4世

<イヴァン4世>


イヴァン4世(1530~1584年)は,16世紀のロシアのツァーリ(皇帝)である。


イヴァン4世は,1530年,ロシアの首都モスクワで君主の長男として生まれた。子どもの頃から優れた聡明さを見せる一方で,激しやすく乱暴な面を示すこともあった。

父が早く死んだためにわずか3歳で即位したが,少年時代は貴族たちが政治の実権を握って権力闘争や専横を行っており,彼はそのような貴族たちに対して強い不信と反感を抱くとともに強力で絶対的な君主権を希求するようになった。

1547年,成長した彼はツァーリ(皇帝)として正式な戴冠を挙行し,満を持して自らの手による政治を開始した。


こうして親政を開始したイヴァン4世は,1540年代末から1550年代にかけて,国家と君主権の強化に精力的に取り組んでいった。

まず,ツァーリを中心とする政治体制を築き,中央ならびに地方の行政機構を整備するなど,行政改革を断行した。また,兵士を増員し各種部隊を編成するなど,軍事力の強化も行った。

対外的にも積極策をとり,東方のモンゴル系国家であるカザン・ハン国アストラハン・ハン国を征服してヴォルガ川流域を支配下に入れ,シベリア進出への道を開いた。西方ではバルト海沿岸への進出を試み,ポーランドやスウェーデンと戦った。


しかし,1550年代半ば以降,自身が大病を患ったことにくわえて,長男と妻の死や対外戦争の苦境も影響して,もともと不安定だった彼の精神状態は悪化していく。そして,1564年には首都モスクワを一時退去して貴族たちを公開で糾弾するという事件を起こしたが,これを端緒として以後は極端で過激な恐怖政治を展開するようになった。

彼は皇帝に楯突く勢力を排除するために,オプリーチニナ(皇室特別領)という制度を創設して領地の没収を実施するとともに,敵と見なした者にはオプリーチニキという特別親衛隊を使って暴力による粛清を繰り広げ,このために多数の人々が犠牲になった。

そのような政策と並行して,彼は数々の奇行を行ったことでも知られる。あるときには,モンゴル人に君主の地位を譲ったかと思えば,翌年には復位するという不可解な行動をとった。また,自身は再婚して妻を持っているのに,イギリスのエリザベス女王に求婚するという出来事もあった。そして,自分の子である皇太子を激高した際に撲殺してしまうという信じがたい事件も起こしている。

イヴァン4世とオプリーチニキたち

<イヴァン4世とオプリーチニキたち>


殺した息子を抱くイヴァン4世

<殺した息子を抱くイヴァン4世>


治世の晩年には,彼の政策の破綻が明らかになり,ポーランドやスウェーデンとの戦争も失敗に終わって,ロシアは政治も社会も荒廃の極みに陥っていた。そのような状況のなかで,1584年にイヴァン4世は死去した。

イヴァン4世の時代は,専制体制が築かれ,領土が拡大されて,ロシア帝国の発展のうえで大きな画期となった。しかし,その過程では暴政や戦乱によってロシアはひどく傷んで荒廃した。イヴァン4世は,その過激で苛烈な性格から,雷帝(グロズヌイ)と呼ばれるようになったが,その名の通りロシアに激しい衝撃と傷跡を残して去っていった。

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リオデジャネイロ 地図

リオデジャネイロは,ブラジル南東部,大西洋沿岸の都市である。

起源

リオデジャネイロの歴史は,16世紀初めにポルトガル人が到来したときから始まる。大航海時代の開幕後,1500年にカブラルが南米のブラジルの地に到達したのを端緒としてポルトガル人がブラジルに来航するようになったが,1502年の1月にはポルトガル人の探検家たちが現在のリオデジャネイロの地にやってきて,ここに面する湾を発見した。

彼らは,その湾を河口であると誤解し,また1月に発見したことから,「1月」(ジャネイロ)の「川」(リオ)を意味するリオ・デ・ジャネイロと名づけた。そして,後にこの湾の沿岸に都市が形成されると,リオデジャネイロの名は都市の名として転用されることになった。

植民地時代

16世紀からポルトガルはブラジルを植民地として支配するようになったが,そのなかで16世紀後半にはリオデジャネイロの地に都市が築かれて,ポルトガルのブラジル植民地における交易拠点の一つとなった。

そして,17世紀末から18世紀にかけて,金の発見によってブラジル南東部に経済の中心が移ると,リオは金の輸出や奴隷の輸入によって飛躍的に発展し,このような経済的重要性の高まりを背景に1763年にはブラジル植民地の首都になった。

独立から20世紀半ばまで

19世紀の初め,ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の際にフランスのナポレオンがポルトガルに侵攻すると,ポルトガル王室はこれを避けて1808年にブラジルに渡り,まもなくリオデジャネイロをポルトガル・ブラジル連合王国の首都として定めた。こうして王国の首都とされたことでリオは急速な発展を見せ,人口が大幅に増加し,多くの施設が建設されていった。

そして,1822年にブラジルがポルトガルからの独立を果たすと,リオはそのまま新国家の首都とされ,国の中心として成長を続けた。19世紀後半からはコーヒーブームによる好景気もあっていちだんと発展し,20世紀初めには都市改造が行われて市街の整理と美化が進んだ。


19世紀前半のリオデジャネイロ

<19世紀前半のリオデジャネイロ>


20世紀初めのリオデジャネイロ

<20世紀初めのリオデジャネイロ>

その後

1960年,ブラジルの首都は内陸部のブラジリアへと移され,これによってリオは建国以来の首都の座を失うことになった。

しかし,現在でも,リオデジャネイロは商工業や観光業がさかんで経済的に発達しており,文化やスポーツなども活発で,貧富の差や治安などの問題を抱えながらも活気にあふれたブラジルの中心都市となっている。

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