<シチリアの晩鐘>
「シチリアの晩鐘」(「シチリアの晩祷」)とは,1282年,シチリア島のパレルモにおいて,フランスのアンジュー伯の支配に対して起こった反乱を指す言葉である。
両シチリア王国
シチリア島は,イタリア半島南部とともに,11世紀からノルマンディー地方出身のノルマン人によって征服されていき,12世紀前半には両地域をあわせた両シチリア王国が成立した。
両シチリア王国は,ノルマン系の王朝が断絶した後,12世紀末にドイツのシュタウフェン家,13世紀後半にはフランスのアンジュー伯へと支配が移った。
「シチリアの晩鐘」
こうして両シチリアを獲得したアンジュー伯は,イタリア半島南部やシチリアに対して搾取を行ったため,現地ではその支配に対する反感が高まっていった。1282年には,アンジュー伯はシチリアを拠点としてビザンツ帝国への遠征を行うことを企画し,シチリアに艦隊を集結させたが,遠征のための物資の徴発は住民の反感をさらに募らせることになった。
そして,同年3月30日の夕方,シチリア島のパレルモで,アンジュー伯軍の兵士たちが現地の女性に手を出したことをきっかけに住民の怒りは爆発し,夕暮れを告げる鐘の音とともに反乱が起こった。この反乱は島全体へと広がっていき,多くのフランス人たちは襲撃され,虐殺された。
この「シチリアの晩鐘」事件によって,フランス人勢力は駆逐され,アンジュー伯のシチリア支配は崩壊することになった。