National Japanese American Memorial to Patriotism

This article is in Japanese only. English speakers may reference the English materials listed at the end.


先週、天皇皇后両陛下がパラオを公式訪問されました。ペリリュー島に日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」と、その後、米軍の慰霊碑も訪ねられて、戦没者の慰霊を行われました。

http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0410.html

戦争の是非は別にして、天皇陛下が国のために戦争で亡くなった人たちの慰霊を行われることは素晴らしいと思いました。同時に、お膝元である靖国神社への参拝が、政治的理由で実現できない現状には、きっと心を痛められておられるだろうと感じました。


今年は戦後70年ということで、いわゆる「安倍談話」がどうなるのか、日本国内のみならず世界的な注目を集めています。


歴史的事実を改変して、恥ずかしげもなく「戦勝国」を自称するトラブルメーカーたちの内政干渉に負けてはいけません。戦後一貫して国際法を遵守し、平和のために貢献してきた、日本らしい「事実に基づく談話」になることを期待しています。


前置きが長くなりましたが、今日の本題です。
「日系アメリカ人の愛国心」を顕彰する記念碑が、米国内に存在することをご存じでしょうか。

0412-01 
http://www.studioequus.com/njam.html

小説や新聞の嘘に騙された人々が建てた、いわゆる「慰安婦像」とは違い、こちらは伝説的な歴史的事実に基づいて建てられた、日米両国民が誇るべき記念碑です。


国際政治学者である石井修博士の文章を抜粋しながら、この記念碑が建てられた背景等を説明します。
(一)______________________
 パールハーバーへの日本軍の「奇襲攻撃」は2,000人余りの兵士と数10名の民間人の命を奪った。そしてそれは何よりも、孤立主義のなかにとじ籠りがちであった米国人を一瞬にして、一致団結させ,英国側に立って参戦させる働きをした。パールハーバーが“不意討ち”“騙し討ち”であっただけに,在米日本人や日系人のなかにスパイが潜んでいるとの猜疑心が強く抱かれた。パニックもあった。日本への憎しみは「敵性」である日系人に向けられた。
 1942年2月19日の大統領命令によって、「軍事上の必要性」、「戦時の必要性」を理由にして、米国西海岸の12万人の日系人が強制立ち退きを命じられ、内陸部の10か所の収容所に閉じ込められた。うち3分の2は米国市民だった。残りの3分の1は当時、市民権を取ることが認められなかった1世たちであった。米国連邦憲法修正第5条と第14条の明白な違反であった。
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公文書や政府高官の証言によれば、パールハーバーへの攻撃が「不意打ち」「騙し討ち」だったというのは、ルーズベルト政権による国内・国外向けのプロパガンダでした。愛国心の強い米国人であっても、事実は事実として冷静に受け止めるべきだと私は考えています。


ただし、戦争中は国民の士気を上げて一致団結する必要があるので、このようなプロパガンダを後世の人間が一方的に非難しても意味がありません。どこの国でもやることです。いずれにしても当時の米国世論は、上に書かれたような状況でした。


ちなみに西海岸3州よりも東には、日系人および日本人が少なかったので、収容所送りはありませんでした。逆にハワイでは日系人の比率が高すぎて強制収容は不可能でしたし、仮にそうした場合、ハワイ経済は壊滅する恐れがありました。逆に、カナダのバンクーバーと中南米の日系人は強制収容されました。


亡くなった、私の妻の母親は当時小学生でしたが、それまで普通に一緒に遊んでいた日系人の女の子の友人が、突然ユタ州にあった強制収容所に送られたことを「よく理解できなかった」と、最後まで言ってました。


引用を続けます。
(二)______________________
 収容所に入れられた2世やハワイの2世などの大多数は、自分が米国人であると信じており、国家への忠誠心を示す最善の方法は、兵士となって戦場へ行くことであると考えた。結局3万人を越える数の日系の若者が志願兵となった。かれらの武勇は伝説的となった。かれらは最初第100大隊に編成され、1944年初め,イタリアのアンジオに上陸し、カッシーノの戦闘で活躍した。このあとかれらは新しく組織された、かの有名な第442連隊戦闘チームに編入された。このときまでに1,300人のうち900人の死傷者を出していた。
 442部隊はイタリア戦線から、フランスの国境を越えて,敵軍の後方のヴォシジ山中に取り残されたテキサス州の大隊を救い出した。このとき,211人を救い出すのに800人の死傷者を出している。442部隊は大戦中1,222人の死傷者(うち700人以上の戦死者)を出した。同じく日系の第522野砲大隊はダッハウ収容所のユダヤ人を救出した。日系人兵士は米軍中最多の勲章を受けた。トルーマン大統領は1946年7月15日にホワイトハウスの庭に442部隊の元兵士を招き顕彰式を行った。「君たちは敵と戦っただけでなく偏見とも戦った――そして君たちは勝ったのだ」とトルーマンは述べた。
 日系人部隊の足跡は、通りの名前や、像として、ヨーロッパの戦場跡に残っている。1944年10月に解放されたフランスのブルイエールの町には「442通り」がある。イタリアの小都市ピエトラサンタでは、この町を解放した戦功を記念して、サダオ・ムネモリ上等兵の銅像が地元市民の資金で建立された(2000年)。
 しかし、米国内の現実は日系人にとってそう甘いものではなかった。まだパールハーバーの記憶は生々しかった。床屋に「ジャップの散髪お断り」の張り紙が貼られるのは普通だった。ハワイ出身のイノウエ大尉(Daniel Inouye―のちの上院議員)は、戦闘で右腕を失って帰還した。サンフランシスコで床屋に入ろうとしたら、「ジャップの散髪はしない」と追い出された。
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0412-03 
http://bougakudai.com/LPOP/trvl/03bry/442RC.HTM


0412-04 
https://twitter.com/yukikoyanagida/status/339576148608552960

442部隊の日系人兵士は、あくまでも米軍部隊の兵隊であり、米国人として戦ったわけです。それでも彼らは、旧日本軍の日本人兵士と同様、祖国(=米国)への忠誠を誓って勇敢に、そして徹底的に戦いました。「公(おおやけ)のためなら、命を投げ出す覚悟がある」というのが、日本民族のDNAなのでしょうか。


最後の引用です。
(三)______________________
 ところは米国の首都ワシントンD.C.。白堊の連邦議事堂を後にして、広いルイジアナ・アヴェニューをユニオン駅へ向かって歩く。ちょうど中間地点に達したところに左手のニュージャージー・アヴェニューと交差するあたりである。よく見るとそこに三角形の小さな公園がある。公園には桜の木が植えられ、周りには、日系米人が強制収容された10か所の地名や,著名な日系人の碑文、それに第二次大戦で戦死した800人の日系人の名前の刻まれた碑もある。ほぼ中央にはブロンズの彫像が聳えている。見上げると、2羽の鶴が鉄条から身を解き放って、自由の空へ舞おうともがいている。
 この一角は「日系アメリカ人国立愛国記念碑」(the National Japanese-American
Memorial to Patriotism)と名付けられている。入口付近に「1988年市民的自由法(the Civil Liberties Act of 1988)」の文字が目を惹く。以下にみるように、1942年初めに強制収容を強いられた日系人たちの運動の結果,連邦議会が動き、1988年に謝罪や補償を盛り込んだ法律が成立した。この小さな公園には,第二次大戦で戦った日本人兵士を讚えると同時に、日系人(および市民権を持っていなかった1世たち)に対してなされた国家の過ちに対して償う意味が込められている。そして、過去に米国政府が行った過ちと日系人の受難を後世に伝えようとするものである。「過去に行った過ち(不正)を正す」ことと「記憶にとどめ、想い起こし、後世に伝える」意味合いを持つ。
 市民権法は、1988年8月10日にレーガン大統領が署名して成立した。レーガン大統領は若い頃、意外なところで日系人問題と関係していた。日系2世のカズオ・マスダは442部隊の軍曹だったが、1944年にイタリア戦線で戦死した。1945年マスダ一家はロスアンジェルスの南にあるサンタアナに強制収容から戻って再出発をしようとしたが、地域住民から脅迫を受けた。カズオの遺体を埋葬することも出来なかった。ここで米陸軍は動いた。スティルウェル将軍(Joseph Stilwell)の計らいで、将校のグループが派遣され、マスダの遺族に対して正式に勲章を手渡した。このとき、ステートメントを読んだのは、レーガン大尉だった。『アメリカは世界の中でもユニークな存在です。人種から成り立っているのではなく、生活様式(a way)――理念(an ideal)から成り立っている唯一の国です…』とステートメントは住民に訴えかけたのである。レーガン大統領が市民的自由法の署名に際して、読み上げたステートメントには、この1945年の場面や言葉が盛り込まれていた。
ワシントンの日系人記念公園は2001年6月に完成した。日系人を主体とした2万人の寄付によって造られた。さまざまな記念碑の集まるナショナル・モールからさほど離れていない場所に、小さいながら政府から土地を与えられ、国立公園局の管理下に入ったのは、甚だ幸運であった。第二次大戦での日系人兵士の活躍と市民的自由法の成立(『過去に行った過ち(不正)を正す』運動の成果)とを人びとに思い起こさせるものである。
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0412-02 
http://www.popville.com/2012/03/memorial-to-japanese-american-patriotism-in-world-war-ii/

人間は誰でも間違いを犯します。国や会社などの組織も、結局は人間の集合体なので、間違いを犯すことは必ずあります。重要なのは間違いに気付いた時、それを素直に認めて反省することだと思います。余計な言い訳をせず、以後は改めれば良いのです。


自分の間違いを認められない人ほど、端から見ていて見苦しい人はいません。すでに高齢になっていた場合は「老害」と言われ、死後は「晩節を汚した」と嘲笑の対象にされます。それを国単位で行った場合、いちばん不幸なのは国民です。


米国にはこの一件のように、過去の過ちを素直に認められる国であり続けて欲しいと願っています。そして日本には、やってもいない過ちまでリップサービスで認めるという悪しき習慣を、そろそろ改めて欲しいです。


私自身はまだワシントンに行ったことがないので、今後行く機会があったら、是非この場所も訪問したいと思っています。


石井修博士が書かれた全文はこちらからどうぞ。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~cls/kiyo/85/85ishii.pdf


English speakers may wish to reference the following materials:
http://www.washingtonpost.com/gog/museums/national-japanese-american-memorial,1028488.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Memorial_to_Japanese-American_Patriotism_in_World_War_II