桜井章一。 | うーみんのブログ

うーみんのブログ

長野スピリチュアル案内人うーみんが日々の思いを綴ります。

壁をブチ破る 最強の言葉より 

ご存じない人のために少々説明させていただくと、私はもう長く麻雀の道場を主宰しています。私の異名「雀鬼」からとって「雀鬼会」といいます。麻雀という勝負事を通じて、若い人たちに少しでも私龍の「よりよい生き方」を伝えられれば、と始めたことです。
「麻雀で何かを伝えられるのか」
という人もいます。しかし、麻雀にも、きれいな麻雀と汚い麻雀があるのです。生き方と同じなのです。きれいな生き方とは何か、汚い生き方とは何か、そんなことが雀鬼流麻雀を通じて見えてくるのです。


世の中の「常識」は、
生きていく上でどれだけ
大切なものなのだろうか?

私が子供のころ、
「平々凡々に生きなさい」
というのが母の口癖でした。
子供のころの私はとんでもないワルでしたから、このままいったらどうなってしまうのかと、きっと母は心配だったのでしょう。
でも私は、
(平々凡々はオレの道じゃないな)
と、そのころから考えていました。
平々凡々。つまり社会の既成の常識に従って静かに静かに生きることなど、私にはできないと思っていましたし、いまもそう思っています。
常識などというものは、誰かの都合のいいようにつくられたもので、その誰かというのは大なり小なりたいてい権力者です。そんな常識に固定されてしまうというのは、怖いことです。みんな同じ、みんな一緒、になってしまうのです。
子供のころでいえば、常識を押しつけてくる代表は学校の先生でした。子供たちを管理するのに都合がいいからです。
いまでも、というか、いまのほうがもっと、先生たちは常識というもので子供たちを固定化させようとしているはずです。
当然、子供たちは本能的にそのことがわかるので、反抗します。反抗して何をするかといえば、もちろん常識ハズレのことをします。それが行き過ぎて犯罪になったりするということです。
鳥でも、象でもライオンでも、ほとんどの動物は、生まれたら一定期間は親に養ってもらわなければなりません。なかでも人間は、養ってもらう期間がほかの動物にくらべて長いのです。そして、それが問題なのです。
その間、養う側の都合のいいように、じっくりと常識の勉強をさせられるのです。
野生の動物には、ほとんどこの期間がありません。すぐにひとり立ちしていかなくてはなりません。あとは、自分ひとりで生きていくのです。
そのとき頼りになるのは、動物としての本能しかないのです。本能に従って、しかも彼らは間違うことがないのです。
動物とくらべるのはおかしい、といわれるかもしれません。でも、彼らの生き方のほうが、人間よりもよっぽど立派だと私は思うのです。騙さない、妬まない、羨まない、彼らの生き方のほうが生き物として理にかなっていると思うのです。
もちろん、世の中のすべての常識がいけないなどといっているわけではありません。
ときには常識も必要です。そして、ときには、
「常識なんかクソくらえ」
と、叫ぶことがあって当然だ、といっているのです。そういう柔軟性が大切だといっているのです。
社会に常識があるように、組織にも常識があります。会社、学校、家庭、いろんなところに常識があって、その組織に属しながらその常識をハズレてやっていこうとするのは、たいへんだと思います。厳しいと思います。
しかし、厳しいけれど、自分の正しい生き方を貫くための厳しさは、楽しさでもあるのです。
少なくとも、常識などという既成の概念に引きずられて生きるより、よっぽど楽しいはずです。