早稲田アイスホッケー BLOG
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『引退ブログ Vol.8 主将 #28 鎌田悠希』(駒澤大学付属苫小牧高等学校出身)

皆さんこんにちは鎌田です

今回のテーマは引退ということで、早稲田の一員としての最後のブログとなりました。
思い返せばいろいろなことがあった4年間だったと思います。4年間の振り返りや思い出話などは同期のみんなが詳しくしてくれたと思いますので割愛させていただきます。あえて一つ思い出を挙げるとしたら「松下剛バックチェック事件」ですね。詳細が知りたい方は本人に聞いてみてください。
 とうとう自分の番が来たかといった感じですが、正直どんなことを書いてよいかわからず先延ばしにしていたところ、担当の沼田君に、はよ書けと怒られてしまいました。ごめんなさい。 
 というわけで4年間の想いや今の心境を熱く、あつーく語っていきたいと思います。まず今一番思うことは朝3時に起きなくてもいいという安心感です。ここだけは本当によく頑張ったと自分をほめたい部分でもあります。冷静に考えて人間の起きる時間ではありません。3時起き生活が始まると決まって昼寝時に大量の寝汗をかくなと何かしらの異常をきたしていました。みんなで起きて眠い目をこすりながら練習に行って、終わって楽しくご飯を食べるのも楽しいんですけどね。そんな寮生活についてですが、毎日のように笑いが絶えず、部屋を出れば誰かにあうという生活はとても楽しかったです。最初は他人と暮らすことへの不安や、あまりの部屋の汚さと狭さに絶望感を抱いていたのですが、いざ退寮してみると少しだけさみしく、あの日々は幸せだったなと感じています。
 続いて、学業面では正直コロナ禍に助けられたというところはあります。キャンパスライフを送れなかったのは残念ですが、1年目はフルオンデマンドで学校に行くことなく単位を取得できたので、ずいぶん楽でした。(おかげで所沢キャンパスに1度も足を踏み入れなかった者もいるとか…)僕はと言えば教員免許を取得したので通常よりも多くの授業を取得しました。辞めてやろうと何度も思うほどつらかったですが今では達成感が大きいです。特に大きな問題もなく、留年者が出ることもなく全員が卒業できて本当に安心しました。
 そしてアイスホッケーです。学生生活のほとんどを費やしましたが、本当に楽しかったです。3年生からAマークをつけさせてもらい、4年ではキャプテンを務めるなど、貴重な経験をさせてもらい、なにより自分たちのことを支えてくれた人たちや、応援してくれる人たちがいたというのは本当に幸せでした。だからこそ、結果で少しでも恩返しができればと思ってやってきましたが、残念ながら4年間でタイトルを獲得することはできませんでしたし、インカレベスト8を突破することはできませんでした。キャプテンとしても、プレーヤーとしても力不足だったと悔しい思いでいっぱいです。しかし、心残りはありません。尊敬できる先輩たちに出会い、かわいい後輩たちが入学して来てくれて、その後輩がまた先輩になり、というサイクルは学生スポーツの最大の魅力だと思います。そのなかでも、全国から人が集まり、決して選手層は厚くなくとも強豪校に全員で立ち向かい、勝つ。そんな集団はどこを探しても早稲田だけなのです。その一員として戦うことができたことを本当に誇りに思っています。
後輩たち
 キャプテンらしくチームを勝たせてあげることができず、申し訳なかったと思っています。でも、僕をキャプテンと呼び、最後まで一緒に戦ってくれてありがとう。なかなか思うようにいかず、大変なこともたくさんあるだろうけど、皆は自分たちが思っている以上に力を持っています。自分を信じて前に進み続けてください。みんなならきっと僕らが突破できなかったインカレベスト8の壁を突破してくれると思いますので、この想いを託します。
 またみんなとアイスホッケーができる日が来ることを楽しみにしています。仲良く頑張ってね。応援してます。

同期
 4年間ありがとう。個性的なメンバーばかりで正直心配の回数のほうが多いかもしれません。僕自身も、ずいぶんみんなに心配をかけたと思います。すみません。でもだからこそ支え合い、楽しいことも苦しいことも分かち合いながら、一人も欠けることなく全員でここまでこれたんだと思います。早稲田でみんなと出会えたこと、お互い励まし合いながら前に進めたこと、これは一生ものの宝です。また全員で旅行でも行きましょう。その時はりゅーや、えじ、ほーよの誕生日を祝ってあげようかな。

両親 
 本当は言葉で伝えなければならないことはわかっていますが、やはり照れくさいのと、完全にタイミングを逃したのでこの場を借りさせてください。22年間育ててくれてありがとう。僕の人生は決して順風満帆とは言えないものだったと思います。勝負弱くて、貧乏くじ引いて、たくさん心配かけました。それでも、負けたり、試合に出れないときは僕より悔しそうで、勝ったり点数を決めれば誰よりも喜んでくれる。そんな存在がいたからこそここまで続けてこれました。早稲田大学に進学させてもらって、アイスホッケーを続けさせてくれて、胸を張れと言ってくれてありがとう。もっと誇らしいと思える息子になれるように頑張ります。

ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
4年間、自分の知らないところでも多くの人が早稲田大学を応援して、支えていただいたと思います。だからこそスケート部は100周年を迎えることができました。本当にありがとうございました。
これからも、早稲田大学スケート部ホッケー部門への変わらぬご声援をよろしくお願いいたします。



『引退ブログ Vol.7 副将 #14 金井真』(苫小牧東高等学校出身)

ブログをご覧の皆様こんにちは!
本年度、副将を務めた金井真です。

ついこの間入学したかと思えば、もう卒業ブログを書かなければならないのかと、時の流れの早さに驚いています。

思い返せば、私のアイスホッケー人生は「人」に本当に恵まれていました。
という事で、多くの人に感謝を伝える卒業ブログを書こうと思います。
私は、16年前に栃木県の宇都宮で知り合いに誘われ、兄(令和4年度卒金井和)と共に、アイスホッケーを始めました。思い返せば、幼少期から常に自分の先を走っていた兄が身近にいたことは、私のホッケー人生においてとても大きかったと思います。和ありがとう。

小学生の時には、当時のコーチの方々が本当にやさしい方たちで、アイスホッケーの楽しさ、チームメイトと力を合わせ勝利を勝ち取ることの楽しさを学ぶことが出来ました。本当にありがとうございます。
小学6年生の時に、アイスホッケーを本気でやることを決め、地元の強豪である日光東中学校に進学することを決めました。思えば、これが私のアイスホッケー人生の最初の分岐点だったのかもしれません。

中学に上がり、上手な先輩方に驚かされ憧れを抱くと同時に、とてもとても厳しい陸上トレーニングで心がバキバキに折られました。また、怪我にも苦しみ、正直アイスホッケーが嫌いになった瞬間もありました。ですが、今でも仲の良い最高の同期たちと共に、励まし、笑い合いながらなんとか乗り越えることが出来ました。ありがとう。(これからもよろしく)
また、恩師である山中さんの熱い指導のおかげでアイスホッケーの技術も人間としての心の強さも身に着けることができると同時に本気でアイスホッケーに取り組むことの面白さも学ぶことが出来ました。本当にありがとうございます。
また、3年次には弟とも一緒にプレーすることが出来て本当に楽しかったです。ありがとう。

高校は勉学とアイスホッケーを両立したいと考え、地元を出て北海道の苫小牧東高等学校に進学することを選択しました。この選択により、勉学に長けた友人に囲まれ、自身の人生の基盤が形成されたと思っています。過去に戻って当時の自分を褒めてあげたいです。
部活動の方でも、学校にスケートリンクがあるとても良い環境下で、向上心の高い同期たちに囲まれ、恩師の田中先生の指導の元アイスホッケーに打ち込めたあの時間はとても幸せでした。本当にありがとうございます。

そんな高校生活を過ごす中で、当時の自分は大学でアイスホッケーを続けるか、勉学に専念するかどうか迷っていました。ですが、アイスホッケー人生の最後に兄ともう一度プレーしたいと思い、大学でもアイスホッケーを続けることを決めました。そこから多くのサポートを受け、憧れでもあり、兄が所属していた早稲田大学に進学することが出来ました。本当にありがとうございます。

大学での1年目は、コロナウイルスの影響を受け、公式戦を1試合もすることなく終了してしまい。不完全燃焼なシーズンでした。当時の先輩方とプレー出来なかったのはとても残念だったことを覚えています。

大学2年目のシーズンは、コロナも落ち着き、公式戦や憧れであった早慶戦など、たくさん新しい経験をすることが出来ました。ですが同時に大学アイスホッケーのレベルの高さから思うようなプレーが出来ず、葛藤したシーズンでもありました。ですが、先輩方や同期、後輩に支えられ、コロナの事も相まって人の温かさを知ったシーズンでもありました。

大学3年目のシーズンは当時の4年生が少ないこともあり、主力として活動するシーズンでした。その中で早稲田大学で主力でプレーすることのプレッシャーの大きさを感じ、歴代の先輩方の偉大さを感じると共に、自身の力の無さを思い知ったシーズンでもありました。また、兄を含めた4人の大好きな4年生とプレーできる最後のシーズンという事もあり、強い思いをもって臨んだシーズンでもありました。望んでいたような結果は得られなかったものの、4人の4年生には、何事(遊ぶことも含む)にも全力で取り組み、努力する姿勢の大切さを背中で教えてくれました。本当にありがとうございます。

大学4年目のシーズンは最高学年となり、副将を務め、今まで以上に責任がある中で活動する年となりました。当初は下級生をまとめられるかどうか不安な部分もありましたが、主将の鎌田や学年リーダーである千葉♡をはじめとする優秀な同期と、素直で可愛い後輩たちのおかげで何とかチームをまとめることができました。しかし、春リーグ、夏の大会、秋リーグ、インカレと一つもタイトルを取ることなく終了してしまいました。ですが、秋リーグでは東洋大学に勝利、インカレでは明治大学に善戦するなど努力が少しは結果として出てくれたので悔いのないシーズンとなりました。チームメイトの皆ありがとう。

大学での4年間を思い返すとホッケーの思い出ももちろん多いのですが、それ以上にホッケー部の皆と過ごしたかけがえのない楽しい思い出が多かったように感じます。本当に悔いのない、「人」に恵まれたアイスホッケー人生でした。

最後にメッセージを残してブログを締めくくりたいと思います。
後輩たちへ
正直言いたいことは口頭で伝えたので手短にいきたいと思います。
まずはこんな副将についてきてくれてありがとう。
後輩たちからはよく「4年生が抜けたらやばい」というのを聞いていましたが僕はそうは思いません。今シーズンも後輩たちに助けられてばかりのシーズンでしたし、君たちは自分が思っている以上に実力も人間性も伴っている本当に優秀な人たちばかりだと思います。なので、自分たちを信じて、来年こそは新4年生を中心にタイトルを取れるように頑張ってください。僕も出来る限り応援に行くのでその時は、勝ってまた祝勝会しましょう🍺期待しています。

同期へ
本当に個性的な人ばかりであまり集団行動が得意ではない学年でした(笑)が、お互いが思っている事を伝えられてぶつかり合え、辛い時には支え合える環境が僕にとってはとても居心地がよく、楽しい4年間を過ごすことが出来ました。卒業後は本当にバラバラの進路に進むことになるけど、たまには芽室か八戸で飲み会しましょう。本当にありがとう。



両親へ
幼少期から今まで育ててくれてそしてアイスホッケーを続けさせてくれてありがとうございます。中学で日光に行くことを決断した時も、高校で北海道に行くことを選択した時も二人とも「真が選んだ道なら」と快諾してくれたおかげで悔いのないアイスホッケー人生を歩むことが出来ました。また、アイスホッケーという金銭面でも送り迎えなどの労力でも大きな負担がかかる競技をしていたのに、二人とも嫌な顔一つせずサポートしてくれてありがとう。
母は子供が4人いる中で、家事をして送り迎えをしてと普通ならば苛立ちが出てもおかしくない状況で、いつも穏やかで優しくしてくれたことが僕にとって大きな精神的支えとなっていました。本当にありがとう。
父は、仕事が忙しく大変な中、家に帰っても仕事の愚痴一つこぼさずいつも笑顔でいてくれました。小さい時はわからなかったけど、今ならその凄さが少しはわかる気がします。そうした佇まいから漢としての生き方を教わった気がします。また、単身赴任中も毎週末送り迎えをしてくれたり、応援に来てくれてありがとう。
二人の子供で本当に良かったです。本当にありがとうございます。
これからは出来るだけ迷惑かけないように精一杯頑張ろうと思います。

早稲田で4年間過ごした経験や思い出を胸に次のステージでも活躍できるように頑張ります!
長くなりましたが、これにて卒業ブログを終えさせていただきます!
ありがとうございました!

『引退ブログ Vol.6 #29 大塚鵬蓉』(埼玉栄高等学校出身)

みなさんこんにちは。早稲田大学スケート部ホッケー部門をこのたび引退しました背番号29番FW大塚鵬蓉でございます。退寮してからまだ半月程度しか経っておりませんが、この前寮に少しお邪魔して、後輩たちと一緒にゲームをしたのですが、それがとても楽しくて、早速寮が恋しくなっています。そんなことはさておき引退ブログを書いていきたいと思います。
私には2年前にこの早稲田大学ホッケー部を卒業した兄がいるのですが、その兄の引退ブログを読んでからもう2年が経ち、今度は自分の番になっていることに非常に驚いております。
私は小学1年生の頃からこの競技を始めており、早稲田大学アイスホッケー部引退と同時に16年間という僕の人生の大部分を占めてきた「アイスホッケー」に一度区切りをつけ競技を引退するので、この引退ブログで自分の今までのアイスホッケー人生を振り返っていこうと思います。長々と自分のことを話すだけになってしまいますが、ぜひ最後までお付き合いください。

まず、小学生の時、競技を始めたきっかけとなったのは、学校の友達に誘われたことです。現在の実家(長野県軽井沢町)には、私が幼稚園から小学校に上がるタイミングで引っ越してきたため、小学校に行っても最初は友達がいませんでした。周りは幼稚園から友達同士の子たちが多く、とても緊張しながら学校に通っていたのを今でも覚えています。そんな僕にも徐々に友達ができてきて、アイスホッケーをしている友達から一緒にアイスホッケーをやってみないかと誘われ、練習を試しに親と観にいきました。すると、いつも学校で会ってる友達がかっこいい防具をつけ、かっこいいヘルメットをつけて、氷の上をスイスイ滑っている姿に驚き、自分もやってみたいと思い、アイスホッケーをやり始めることとなりました。そして、軽井沢には小学生のアイスホッケーチームが2チームあり、どちらのチームの子からも誘われましたが、悩みに悩んだ末、軽井沢バッファローズに入りました。私の実家は小学校から6キロほど離れており、家の近所には同じ学校に通うような子供はいなく、なかなか学校終わりに友達と遊ぶことなどができていなく、寂しい思いをしていました。しかし、学校の同級生にはアイスホッケーをやっている子が7、8人おり、アイスホッケーを始めてからは、学校が終わった後にアイスホッケーの練習で再び友達と会うことができるようになりました。この頃はアイスホッケーが楽しいというより友達と学校終わっても遊べるのが嬉しくてアイスホッケーをやっていました。
私はそんな気持ちでアイスホッケーをやっていたため、アイスホッケーをするのは好きでしたが、自主練習などめんどくさいことは嫌いでした。スケートリンクが家から車で5分とたまたま近くにあったこともあり、よく私は父に嫌がっているにもかかわらず無理やり自主練習しにスケートリンクに連れて行かされていました。
父はスケートの経験はないながらも他のスポーツの体の動かし方などを参考にして、色々スケートの滑り方やシュートの強い打ち方、フェイントの仕方など試行錯誤をしながらアドバイスをしてくれていました。
兄も私と同じタイミングで一緒にアイスホッケーを始めており、兄はDFだったこともあり、ひたすらFWの私と一緒に1対1の練習をしていました。
また、父がお手製のゴールネットを家の駐車場に設置し、家でもシュート練習をするようになり、よく手にタコができていました。
書き忘れていることもありそうですが、こんな幼少期を過ごしていました。

小学校を卒業すると軽井沢中学校に入り、アイスホッケー部に所属しました。小学生では上下関係もなくのびのびと競技をしていましたが、中学では怖い先輩がいたりと、今までとは違う環境に戸惑いながらプレーしていました。また、プレー面では、小賢しさを覚え、シュミレーション(反則がないにも関わらず自ら転ぶことによって相手選手の反則に見せかける行為)というスポーツマンシップのかけらもないようなプレーをするようになってしまいました。私は記憶がなかったのですが、早稲田大学ホッケー部の同期の松下くんと中学時代に対戦した際に、松下くんに対して自分からぶつかりわざとこけるという悪質なプレーをしている証拠の動画を松下くんが持っており、言い逃れできず、とても恥ずかしかったです。



中学を卒業した後は埼玉栄高校に入り、アイスホッケー部に所属し、高校からは寮生活を送りました。中学以上に厳しい上下関係、初めての集団生活、怖い顧問の先生、携帯電話禁止など突然厳しい環境に身を置くこととなり、今の大塚鵬蓉が一番形成された時代だなと思います。特にきつかったのは、今までやってこなかった陸トレでした。中学時代も一応放課後の部活動の時間に集まって活動はしていましたが、他の部活が一生懸命練習をやっている中、アイスホッケー部は鬼ごっこなどして遊んでいただけでした。そんな中学を過ごしたため、まともに体力がなく、さらに元から走るのが苦手だったため、一年生の頃は、毎日ヘトヘトで体中筋肉痛で地獄の日々でした。今も同じですが、この頃は特に陸トレが嫌で嫌で、きつい陸トレのメニューの前日は本当に憂鬱でした。
兄が早稲田大学アイスホッケー部に所属していて、どんな大学でどんな部活動なのかなど、兄から聞くうちに早稲田大学に興味を持ち、大学受験では、早稲田大学に絞って受験勉強していました。私はスポーツ科学部のスポーツ自己推薦で早稲田大学に入ることができましたが、アイスホッケー部にスポーツ自己推薦で入れた先輩が近年では居らず、試験の出来もあまり良くなく、手応えがなかったため(小論文では制限時間ぎりぎりで時間が足りず、最後の方は時間のプレッシャーと 緊張で腕が震えまくり、まともに読める字ではない。面接では、受け答え中に癖で指の関節をパキッと鳴らしてしまい、静かな面接会場に音が響き渡ったなど)受かると思っていませんでした。そんな状況だったこともあり、合格を知ったときはもちろん嬉しかったのですが、それ以上に母に合格を伝えた時に、泣いて喜んでくれたのがとても嬉しかったです。




大学に入ると、コロナ禍という大変な時期に入ってしまい、あまり集まって練習をすることができなくなったり、大会などが全部中止になったりと物足りない一年生を過ごしました。また、数少ないアイスホッケーの機会では、ありがたいことに1セット目で使ってくださることがあり、その時に一緒に生江太樹さんと澤出仁さん(私が1年時の4年生で生江さんはフリーブレイズ、澤出さんはダイナックス)とセットを組んだのがとても印象的でした。2人ともめちゃくちゃアイスホッケーが上手で、スピードがとてつもなく早い2人に必死についていくのがやっとだったのを今でも覚えています。また、少しでも2人の足を引っ張らないようにと「もっとこうした方がいいとこありますか?」と2人に聞くと、毎回「ほーよーは今のままで、好きにやっていいよ」と言われました。自分がダメなとこがありすぎるのをわかっていたが故に、四年生の器の大きさと同時にセットに貢献できていない感がより一層感じてしまい、人生で始めてあんなに寂しく思いながらアイスホッケーをやっていました。
私が一年の頃、同じホッケー部に兄が3年生にいたので、兄の話題をきっかけに先輩達などが話しかけてくれたのがとても懐かしいです。
2年になると後輩ができ、プレーにもすこし余裕ができてきて、この頃は一番好き勝手にアイスホッケーをやらしてもらっていました。2年時には、兄が4年生になり、兄と一緒のチームで初めてちゃんとプレーできた1年間でした(3歳差で小学校低学年高学年中学高校すべて入れ違いで、大学では兄が一浪しているため2年間被ったが1年目は前述したようにコロナであまりプレーできず)。兄はDFでしたが、 よくDF目線のアドバイスをしてくれていました。インカレでベスト8で負けてしまったときに、兄が悔し涙を浮かべていて、不覚にも私もうるっときてしまったのを覚えています。
3年の時は木綿さんとずっとセットを組んでいました。木綿さんはプレー中自分が何をしたいとか、こう考えているなどと対等な関係で話し合ってくれていました。当時はそんな木綿さんのありがたみなんてわからず、わがままばっかり言っていましたが、今ではあんなちゃらんぽらんな木綿さんがとても偉大だったんだなと思ってしまいます。
4年になると、4年間で初めての韓国遠征がありました。国際問題に発展しかけたり、オフの日に観光したり、韓国の選手とお酒を飲んだりと4年間で一番内容の濃い夏合宿でした。
4年目の後半はずっとまーくん(背番号1番3年平林)と響平(背番号213年上山)と一緒にセットを組んでいました。まーくんとは地元が長野県で一緒で、小学生の頃から長野県選抜などで一緒にプレーしていたため、大学に入っても親しく話すことができていました。しかし、響平とは同じセットになるまで、あまりちゃんと話すことがなく、何を考えてるかわからない不思議な子のイメージでした。そんな3人で3セット目のFWを任されましたが、最初は不安しかなかったです。私自身今まで1、2セット目で起用されることがありがたいことに多かったのですが、最上級生では3セット目になったことで、複雑な心境でした。また、まーくんとは、「何をやりたい」とか「何を考えている」とかワンプレー毎に話すことができていましたが、響平とはあまりプレーについて話すことができていませんでした。当初は響平は天才肌で、こちらのやりたいことを共有するよりも、やりたいように自由にやらせてあげた方がいいのかなと思い、あまりプレーについて話すことをしていませんでした。しかし、3セット目を任されているうえで、「リスクを犯してでも点を取ってくる」というよりも「堅実に安定したプレー」をセットとしてやっていかなけらばならないと思い、そのためにもセット間のコミュニケーションを重要視していき、まーくんだけでなく響平ともプレーについて話し合うようにしていきました。本人が気づいているか分かりませんが、まだ親しく話せない響平との間をまーくんは取り持ってくれており、ありがたかったです。響平とまーくんと話しているうちに3人のプレーへ対する考え方がまとまっていき、どんどん3セット目としてのプレーがよくなっていったように思えます。2人は試合中疲れているにも関わらず、1プレー毎にあまり重要性の高くない、どうでもいいプレーについてまで一緒に話し合ってくれていました。セットの中で1人最上級生であるため、私が引っ張っていかないとと自分なりに思い、コミュニケーションを重要視した私に、2人も面倒臭がらず、積極的に話し合いをしてくれたことに本当に感謝しています。コミュニケーションに重きを置いたのが正しかったのかは分かりませんが、どのチームのセットよりも私は3セット目が一番コミュニケーションを取って、まとまっていたと思いますし、長いホッケー歴の中でこのセットでプレーしている期間が一番楽しかったです。さらにアイスホッケー選手としても一番成長できた期間であったなと思っています。
インカレの明治戦の最後の得点では、今までずっと話し合ってきた形でもあり、3人全員がやるべきことをしっかりとやって取ることができた得点でありました。(まーくんは、ずっと練習していたフェイスオフで正確に私のスティックに引き、響平はシュートブロックをする相手の進路を体を張って塞ぎ、私が打つという3セット目の集大成が詰まった得点であったと思います。)普段プレーであまり感情を表さない響平がガッツポーズをしているのを見てうるっとしてしまいました。




こんなアイスホッケー人生を経験してきましたが、アイスホッケーを通してたくさん学ぶことがあり、アイスホッケーを今まで継続してやってこれたことが自分の人生にとって本当に価値のあることであったと思います。
両親には、部費、学費、用具費などお金のかかるスポーツ、私立の高校、大学などにも関わらず、競技を継続してやらせてくれて、学校にも通わせてくれて感謝しています。また、経済面だけでなく、どんな時間帯でも試合があれば見にきてくれたり、遅くに家に帰ってもご飯を用意してくれたりと、兄を含めた子供達のアイスホッケーを中心とした生活にも関わらず、何から何まで、嫌な顔一つせず、サポートし続けてくれて、本当に感謝でいっぱいです。両親がこのブログを読んでいるか分かりませんが、今まで本当にありがとうございました。また、両親だけでなく、おばあちゃんなど試合があれば応援しにきてくれていた人達にも改めてありがたいことであったなと思います。




今後私はまだ就職せず、勉強する道を選びましたので、まだ両親には面倒をかけてしまいますがこれからもよろしくお願いします。
振り返ってきましたが、今まで多くの人と関わり、支えられながら過ごしてきたアイスホッケー人生でした。
今までこんな適当な私と関わってくださった皆様本当にありがとうございます。
同期への感謝も一人一人書こうと思っていましたが、入れる部分がなかったので割愛させていただきます。4年間みんなと苦楽を共にできて本当に楽しかったです。ありがとう!!!
同期とはこれから疎遠になってしまいますが、一年に一回はみんなで集まってお酒でも飲めたらなと思います。
ふざけることなく、ただつらつらと自分の過去を書いただけですが、皆さん最後まで読んでくれましたでしょうか。
このような形で私の早稲田大学アイスホッケー部としての活動を締め括らせていただきます。
他のどこの大学でもなく早稲田大学でアイスホッケーをすることができて本当に良かったです!
それでは皆さん、またどこかでお会いしましょう!さようなら!!
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