ものみの塔組織のクリスチャンの一致は
他の宗教組織の比ではない、ということは
常々JW各自が耳にタコが出来るくらい
組織側から聞かされています。

例えば、目ざめよ誌2003年5月8日号26ページには
以下ような記述があります。

一致してはいても,画一的ではない

パウロは別の手紙の中で,「理性」をもって神に仕えるよう
クリスチャンに強く勧めました。(ローマ 12:1)
ですから,確かにパウロはコリント会衆の人たちを,
何も考えない自動人形のようにしたいと
思っていたわけではありません。(中略)

パウロがコリントの人たちに望んでいたのは,
後にエフェソスのクリスチャンに訓戒したのと同じく,
「結合のきずなである平和のうちに霊の一致を守る」
ことでした。(エフェソス 4:3)
パウロは兄弟たちに,分裂したグループや派に
分かれるのではなく,一致してイエス・キリストに従うよう勧めました。そうするなら,目的において結ばれた平和な関係を
楽しむことができます。(ヨハネ 17:22)

ですからパウロの助言は,コリントの人たちが
考え方を調整し,画一性ではなく,一致を促進する助けに
なりました。
―コリント第二 13:9,11。


※赤字は管理人

このように、理性的な奉仕をするJW各自は
何でもかんでも組織の指示どおりに動いて、
まるで金太郎飴みたいな存在になることを
組織は望んでいないことを理解できます。


ところが、ある時長老団への手紙において
この原則を理解していないというか、
原則に抵触するような指示が出されました。


会衆の長老団宛への2007年8月4日付の手紙
「会衆の集会でコンピューター情報を映写することについて」

時おり長老たちから、会衆の集会において
"PowerPoint"(パワーポイント)などで
コンピューター情報を映写して提供しても良いか、
という問い合わせを受けます。
以下の指針をお伝えします。

「神権宣教学校の教育から益を得る」の第47課には、
視覚に訴えるものを使用する事に関して、平衡の取れた見方がはっきり示されています。その種のものは控えめに用いるべきです。(校249ページ5節)
中には、コンピューターによる視覚教材を会衆の集会で
用いることには利点があり、教えの効果を高め、聴衆の注意や記憶を助けることができると考える人もいますが、
視覚教材の目新しい用い方は、実際には、神の言葉から、
また「忠実で思慮深い奴隷」が会衆の集会を通して
供給している霊的食物から注意をそらせてしまうことが
あります。(マタ24:45。詩119:105)

長老と奉仕の僕たちは、演壇から話をする際、
従来どおりの方法で教えるように勧められています。
偉大な教え手が用いた方法、つまり熱意をこめ、質問し、
例えを活用して、「教えの術」を発揮することです。
(テト1:9。マタ19:16)

特に演壇から教える時には、聖書に注意が
向けられるべきです。(ヨハ17:17)皆さんがこの指針に従うとき、すべての会衆は、会衆の集会の形に関しても一つに結ばれることになります。-コリ一1:10。


とまあ、細かい指示が出されていますね。



さて、ここで忘れてはいけないことがあります。

それは、JW組織自身が王国宣教を拡大するため、
時代にあわせて最先端の科学技術を
活用してきたことを自画自賛しているという事実
です。

例えば「ふれ告げる」P.422では、
映画とスライドを組み合わせた「創造の写真劇」に
ついてのコメントがあるんですよね。
それはサイレント映画全盛だった当時としては画期的な
ものだったんです。

「異邦人の時の終わりまであと1年足らずという1914年1月,
さらに別の徹底的な証言が始まりました。それは,地に対する神の目的を斬新な仕方で強調する「創造の写真劇」でした。この写真劇は,音声と同調した美しい手描きのカラースライドと映画という方法を用いて神の目的を強調しました。」

と出ています。

さらに、「ふれ告げる」P.60では
「1914年の終わりまでに,「写真劇」は北アメリカ,ヨーロッパ,ニュージーランド,オーストラリアの非常に大勢の人々の前で上映されました。「写真劇」は確かに,比較的短期間で大勢の人に真理を伝える効果的な手段となりました。」
とも書いてあります。

それで、JW組織自らが信者に対する模範として、
人々を教えるため、各々の時代に合わせて
最先端の技術や器具、方法を活用してきたことは
紛れもない事実ですよね。

しかし、なぜか信者が同様の方法で教えることには
慎重なんです。
というかこの方法は実質的に「禁止」されています(>◇< )

『偉大な教え手が用いた方法、つまり熱意をこめ、質問し、
例えを活用して、「教えの術」を発揮することです。
(テト1:9。マタ19:16)特に演壇から教える時には、
聖書に注意が向けられるべきです。(ヨハ17:17)』

というのは聖書を教える場合の本質的な考え方のことを言っているのであって、
用いる道具や手段のことを言っているのでない
ことを
理解していないようです。


そして、ご丁寧にも
『皆さんがこの指針に従うとき、すべての会衆は、
会衆の集会の形に関しても一つに結ばれることになります。』

と付け加えることで、信者自身の柔軟な創意工夫による一致よりも「奴隷級のやり方によって画一性を維持する」ことの方が大事であることを、信者自身の意識に強制していると思いますね。

人間の知恵と経験の結晶である科学技術を上手に用いることは、決してマイナスに働くことではありません。

マイナスに働くのは「忠実で思慮深い奴隷」だけが
唯一の正しい霊的食物を信者に提供している、
という驕った考え方だと思いますよ(苦笑)