マルコムグラッドウェルがFREEの書評を書いていた その2 | カフェメトロポリス

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電脳世界と現実世界をいきあたりばったり散歩する。

グーグルが検索とEメールを無料で使わせて、広告でお金をたんまりと稼いでいるように、フリーという世界には巨大な事業機会が存在するとアンダーソンは主張する。だいたい、デジタル技術のコスト下落で、コンテンツの製作コストが0に近づいているんだから、できない話じゃないだろう。

この考えの前提には、希少性(scarcity)の世界から豊富さ(affluence)の世界への移行という現状認識がある。何かをフリーで与えるというのは、多くの浪費が生じるのだが、製作コストが0に近い、デジタルの世界では浪費的でも問題はないと話は続いていく。

既存のマスメディアのコンテンツのクオリティを精緻にチェックする、メカニズムはこういう希少性の時代の産物だ。紙面割り、放送時間の割当などに頭を悩ませなければならなかったのは、そういう資源が希少だったからだ。

デジタル時代の豊富さという環境の中では、こんな必要はない。グーグルが所有する、ユーチューブを見ればいい。

ユーチューブは誰にでも、そのウェブサイトに無料でビデオを投稿させている。そして投稿されるビデオの質についての判断する必要もない。「投稿ビデオが希少なスペースを占めるだけの価値があるかどうかなどもはや誰も判断しないのだ。なぜならスペースがもはや希少ではないからだ。」と彼は書く。

流通コストも、今や、丸めて考えればタダ同然だ。一人のユーザーに1時間のビデオをストリーミングするコストは約25セントだ。次の年には、これは15セントになり、さらに翌年は10セント以下になるだろうと筆者は考える。

ユーチューブの創業者はこういう想定に基づいて、サービスの無料提供を決定したのだ。結果は、テレビ業界の専門家たちの大方の予想に反して同業界に無視できない混乱を引き起こした。しかしこれが豊富さという環境が必要とし、要求することなのだ。

アンダーソンの議論を整理してみよう。

技術的論点 デジタルインフラは実質的にタダである。

心理的論点 消費者はタダが大好きである。

手続的論点 タダのものは、判断をする必要がない。

ビジネス的論点 技術的タダと心理的タダが作った市場でも大儲けが可能だ。

ただアンダーソンの主張の中には唯一問題があると、Gladwellは論じる。それは、デジタル時代のビジネスモデルの典型と筆者が考えている、ユーチューブがいまのところ、グーグルに対してまったく利益貢献していないという事実だ。

アンダーソンの主張する、フリーという鉄則の故に、こういった結果が生じているのだ。

消費者は、無料ということに多いに反応した。結果、ユーチューブ上で今年、年間750億件のビデオが提供された。

フリーという現象の、技術面での魔法は、個々のビデオを運用するコストが丸めると0に近づくということなのだが、丸めて無料に近いといっても、それに750億件という凄まじい件数をかけると、やはり巨大な数字になってしまうのだ。

金融機関のクレディスイスが発表した最近のレポートによると、ユーチューブの2009年の帯域コストは36000万ドルだ。ユーチューブの場合には、技術面でのフリーという現象と心理面でのフリーという現象が、企業業績に対してプラスとはいえない動きをしているのだ。

どうやったらユーチューブは収入を生み出すことができるのか。ビデオと一緒に広告販売を行うという手段もあるだろう。問題は、心理面でのフリーが魅力を感じるビデオ(海賊版、猫のビデオ、他のユーザー作成コンテンツ)は広告主が、広告を載せたいと感じるような代物ではないという現実だ。広告を販売するためには、ユーチューブはテレビ番組や映画のような、プロが作ったコンテンツの権利を買わなければならないのだ。

クレディスイスのレポートによると、2009年の外部コンテンツに対する支払ライセンス料は約26000万ドルだ。

アンダーソンの3番目の手続論点という観点からすると、ユーチューブは、無料の場合、審美的判断の必要がないという原則を証明する最適の例だ。クズでもなんでも、見る人が決めるという考えだ。しかし、広告という形で、お金を儲けるためには、ユーチューブはクズじゃないプログラムにお金を払わなければならなくなると、Gladwellは主張する。

クレディスイスによると、今年のユーチューブの損失は5億ドル近いという。筆者に意に反して、ユーチューブフリーな技術が、最終的にタダとはいかないことの絶好の例になっているというのが彼の主張である。

電力コストも昔は、いつか無料になると予測された時代があった。しかし、その時代の人々が、見過ごしていたのが、電力コストのほとんどの部分を占めている、送電線や発電所などのインフラコストだったという。

これは技術的なユートピア主義者たちが一様におちいる間違いだとGladwellは主張する。

Wiredのもう一人のビジョナリーのKevin Kelly1998年に同じような不合理な推論をオ行った。

「多くの製品が、モノからではなくアイディアから作られるようになると、その価格の下落速度は加速する。」とKellyは書いている。「しかもこれはデジタル製品に限ったことではない。」と主張している。

Kellyは、その例として、製薬産業を取り上げた。遺伝子工学によって、新薬開発がデジタル世界と同じ学習曲線に従い価格が下落する中で効能が増加すると主張している。

しかし、過去の電力コスト無料予測同様に、彼は、発電所や送電線の必要性のことを忘れていた。製薬プロセスのかなりの部分は、研究所で起こるわけではない。本当の製薬プロセスは、研究所を出たところから始まるのであり、臨床検査のように、何年もの時間と数億ドルの資金がかかるプロセスが、制約会社を待ち構えているのだ。

製薬の世界においては、さらに重要なことに、新しい技術に対する企業戦略がシリコンバレーとは全く異なっているのだ。製薬会社は、より小さな市場をターゲットにしようとする傾向がある。すなわち特定の患者や、特定の疾病用の薬品を開発しようとするのだ。市場規模が小さいということは、すなわち高い薬品価格を意味する。バイオテクノロジー企業の資産も知的所有権という名前の情報である。ただ、この情報は無料になろうとしていない。逆に、高く、高くなろうとしている。

情報の世界でも、アンダーソンの言うような鉄則に従った動きをしない情報も多い。

ニューヨークタイムスはウェブサイトでコンテンツを無料で提供している。しかしウォールストリートジャーナルは、オンライン購読のために支払うのを厭わない100万人以上の購読者を見つけた。

地上波テレビは実は世界で最初にこのフリーという現象から収益を生み出すビジネスモデルを発明したのだがいまや苦闘している。しかし専門コンテンツに高い月額料金を課金するケーブル放送はうまくやっているようだ。アップルの、iPhoneのダウンロード売上(アイディア)からの利益がiPhone端末(モノ)の売上からの利益を追い抜く日も遠くないような気がする。

アップルはいつか、ダウンロード事業を拡大するために、iPhone端末をタダにするかもしれない。その逆に、iPhoneの売上を拡大するために、ダウンロードをタダにするかもしれない。あるいは今のまま両方とも有料のままかもしれない。これは誰にもわからないことだ。

唯一デジタル時代の鉄則といえるのは、商品が作られ販売される売られるやり方を刻々と変化し、それには鉄則など存在しないということである。これは1冊の本を書くまでもなく自明なことのように思われる。(以上)

テクノロジーユートピア論には、必ず、こういった現実論の応酬が行われる。なんとなく、90年代後半から2000年前半にかけての通信バブルでのギルダーの論調を、Gladwellが敷衍するアンダーソンの主張の中に感じて、懐かしくなった。

この種の論争は、やはり反復するのだ。

ユーチューブのくだりを読んでると、最近、西村博之さんのロジックの影響もあって、現実的になっているぼくは、Gladwellに乗っかりがちだ。批判する側が敷衍する対象像に乗っかって、対象を批判的に片付ける愚だけは冒さないようにしよう。簡単に片付けるにはもったいない重要な領域だと思う。やっぱり、Freeをアマゾンで注文しようかな。