マルコムグラッドウェルがクリスアンダーソンのFREEの書評を書いていた その1 | カフェメトロポリス

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電脳世界と現実世界をいきあたりばったり散歩する。

ロングテールの著者クリス・アンダーソンが、Freeという新しい本を出版したというニュースがツイッターや、そこここで語られ始めた。洋書を置いている本屋に行ってみようかなと思った。

最近、洋書をすんなりと、アマゾンで買わなくなり、必ず、本屋で自分の手にとって眺めて、読み終わる確率を、一度考えてから買うことにしている。読書速度が落ちてきたこともあるが、英文をPCで大量に読み続けるようになってから、unwiredな状況では、できるだけ、一番大好きな端末である書物で、もっとも得意で楽な日本語で書かれたコンテンツを読みたいと思うようになったからだ。PCでも英文を読み、それ以外でも、英文を読んでいると、なんとなく、疲労感というか、消耗感が激しくなるような気がする。

そんなこともあって、書物を手にとって、その活字が、すんなりと身体の中に入ってくる本しか、洋書の場合は、買わないようにしているのだ。(置場という物理的な問題も心のどこかを占めている。)

アマゾンで洋書を買う人が増えたせいなのだろうと思うが、東京の洋書を置いている書店の品揃えもかなり危うくなってきている。そんな中で、最近、気に入っているのは、東京駅の近くのオアゾの4階にある、丸善丸の内本店の洋書部だ。

たまに訪れると、平積みの棚に、買いたくなる本が置いてあることが多い。神保町の東京書店の平積みの棚のところとちょっと似た感じだ。

週末、ふらりと、丸善に行って見たが、まだFreeは入荷されていなかった。相変わらず、金融危機ものは多いのだが、Freeで取り上げている現象に比べれば、今回の金融危機など、この世の終わりでもなんでもなく、日本人が少しばかり前に体験し、米国人が忘却の彼方に追いやっていた、大きなバブルの崩壊にすぎない。だから、つまらなくて、手に取る気もしない。80年代、90年代には、ウォールストリートものばかり読んでいた、自分にしてそうなのだ。

仕方がないので、ソフトウェアのセクションや、文庫のセクションを冷やかすだけで、帰ることにした。

デジタル時代には、すべてのコンテンツは無料になってしまう。だから、既存プレイヤーも四の五の恨み節をいっている暇があるならば、さっさと、その現実を受け入れて、生き延びる術を見つけるべきだというような内容のようだ。他人の要約を真に受けて、ああだこうだ言っても仕方がないので、入荷を待つことにしようかと、極めて非デジタル的な判断をした。

しかし、気持だけはデジタルに加速しているので、グーグルで、ちょっと検索していたら、大好きなニューヨーカーのサイトに、Malcolm Gladwellが、「情報の販売コスト」(Priced to sell)という書評が載っていた。クリス・アンダーソンの近著での「デジタルの世界では、すべての情報は無料になろうとするので、それに逆らっても仕方がない」という主張への反論を試みている。Gladwellはニューヨーカーの常連寄稿者で、最近はOutlierが最近大人気の勝間さんの翻訳で出版されている。

入荷前に、批判のレビューを紹介するものどうかと思ったのだが、映画のネタバレよりはましかということで、ちょっと拾い読みしてみた。

http://www.newyorker.com/arts/critics/books/2009/07/06/090706crbo_books_gladwell?printable=true

5月のワシントンでの公聴会で、ダラスモーニングニュースという地方紙の編集長が、アマゾンとの取引概要を説明した。具体的には、アマゾンの新しい電子書籍端末であるキンドルへの、自社の記事のライセンスをめぐる交渉で、いかに彼が憤慨したかが縷々説明されたという。問題はそれぞれの取り分だった。アマゾンは購読料の7割と、他の携帯端末への再出版権を要求したのだ。

アマゾンはコンテンツを時間と金をかけて作り出す新聞社の貢献をまったく評価していないと、このジャーナリストは憤るのである。

草の根ジャーナリムが拡大した、ハフィントンポストのアリアンナ・ハフィントンも、同じ公聴会の証人だったが、もはや四面楚歌といえる新聞産業にとっては、キンドルの提案も悪くないはずだと主張している。ここに新旧ジャーナリズムの見解の相違が明らかになった。

ダラスモーニングニュースの編集長は、多分、クリス・アンダーソンの「フリー:過激な価格の未来」という新著を読んでいないのだろう。Wiredの編集長で、2006年にベストセラー「ロングテール」を書いた、アンダーソンは、新著で、Stewart Brandの「information wants to be free(情報はタダになりたがる)」という有名な発言をさらに拡大し、精緻化した。これを読んでいたら、彼も、アマゾンの提案にこれほど驚くことはなかったかもしれない。

アンダーソンの考え方はというと、デジタル時代には、アイディアからできたあらゆる商品、サービスの価格は容赦のない値下げ圧力にさらされ続けるというものである。しかも、これは一過性のトレンドではなく、デジタル時代の鉄則になると考えているのだ。法律などで、このフリーに向かう現象を回避しようといくら努力しても、最後には、この経済的重力が支配する。

著作権侵害に不満の声をあげるミュージシャンに対しても、著者は遠慮しない。不正利用だろうがなんだろうが、新しいメディア環境で高まった認知度の高まりを、ツアーやマーチャンダイズを通じて利用する方に、そろそろ頭を切り替えた方がいいというのが彼のアドバイスだ。

ダラスの地方紙にも、同じことを言うのだろう。新聞記事の価値は、彼らが望むようなレベルには絶対に戻らない。だからその環境を前提に新しいビジネスを創造するしかないじゃないか。大量失業のあとに、プロのジャーナリストの新しい役割が生まれるはずだと予測している。どうも、万人がジャーナリストというような現代において、彼らのプロのジャーナリストとしての経験が、そういうアマチュアたちに対する編集者、コーチのような新しい役割を生み出すはずだ。金銭的対価以外のために、書きたいと思う人を束ねて、指導することで、生計をたてるという道も開けるはずだと彼は主張している。

アンダーソンは簡潔で巧みな筆致で、明日はどっちかが見えなくなっている、既存のコンテンツプロバイダーたちに絶妙のタイミングで、新しい見識を提示している。

ただ、よく考えると、「他の人々に書かせることでお金が稼げるのならば、なぜ書くことでお金が稼げないのか」などと半畳を入れたくもなってくる。

金銭的対価以外のために書く人が大多数になるというのは、ニューヨークタイムスもボランティア記者で経営しろということなんだろうか。

だいたい、デジタル時代の鉄則とアンダーソンは言うが、なぜそれが法則だといえるのだろうか。フリー(無料)というのは一つの価格にすぎない。価格は市場の個別の参加者よって設定され、特定時点における需要と供給の総計値に従って決定される。

「生命が繁殖し、水が高いところから低いところへ流れるように、情報は無料になりたがる」とアンダーソンは言うが、情報が、何かをしたいなんて思うだろうか。

アマゾンが新聞記事をタダ同然にしたいと考えるのは、それが鉄則だからではなく、彼らのお金の儲け方だからなのだ。それを鉄則など奉る必要などない。

アンダーソンは、技術的トレンドから、自分の議論を開始する。電子的活動の基本要素である、ストレージ、処理、帯域のコストは下落しつづけ、今や0に近づいたというのが、彼の現状認識である。

トランジスタ1個の価格の以下の推移がすべてを物語っている。

1961  10ドル

1963  5ドル

1968  1ドル

今日 0.000055セント

次に、彼は、価格が0になると想像を絶することが起こると議論を展開する。

アンダーソンは、MITの行動経済学者のDan ArielyPredictably Irrationalの著者)が行った実験を使ってこのことを説明している。実験では、対象グループに2種類のチョコレートを選ばせた。価格が1セントのハーシーズのキスチョコか15セントのLindtTrufflesを選ばせるという実験だ。対象の4分の3が、Truffleを選んだ。

次に両方のチョコレートを1セントずつ値下げして実験をした。キスチョコはタダになった。何が起こっただろう。

選択は逆転し、69%がキスチョコを選んだ。二つのチョコの価格差は全く同じなのだが、無料という魔法の言葉には、消費者を殺到させる力があるのだ。

アマゾンが25ドルを超える注文の配送コストをタダにしたときにも同じことが起こった。1冊目が25ドル以下のときに、2冊目の本を買うインセンティブを与えるだろうという考えに基づいてのことだった。(20セント相当の水準にこのポイントを間違って設定したフランスではこの試みはうまくいかなかった。)

安いことと、無料ということには大きな違いがあるのだ。無料配布となった瞬間に市場を爆発する。でも1セントでも代金を支払わせると、まったく別の話になってしまう。つまり、0とその他の価格は別の市場を形成しているというのが筆者の主張である。(その2に続く)