沢尻エリカが不機嫌だった理由 (映画 クローズドノート) | カフェメトロポリス

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クローズド・ノート/雫井 脩介
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沢尻エリカという若い女優の過剰さが好きだ。過剰さというよりは、その気負いといった方が性格かもしれない。ちょっと時間があいたので、銀座のがらがらの映画館で、クローズドノートを観た。

http://closed-note.com/

沢尻エリカの舞台挨拶での、「無礼な」ふるまいが、芸能新聞の紙面で散々叩かれたあの映画である。

映画を観ていて、沢尻のあの不快感の意味が少しわかった気がした。

この映画は、ある意味でとても面白い映画だ。それは、映画は監督の所有物ではないということがしみじみとわかるという意味においてだ。原作がいいかどうかは未読なのでとりあえず、わからないが、ドラマの構造、登場する俳優と、良い材料には事欠かないが、シェフ(?)に料理の才能がまったくないレストランのような映画だった。監督はだめでも、映画は観られるということだ。

その意味で、素材を楽しみたい客には、それなりの納得感のある映画かもしれない。

伊勢谷友介と竹内結子といえば、塩田和彦の奇跡的な傑作「黄泉がえり」の、死んだサーファーと、蘇ったその恋人という物語が共鳴するし、伊勢谷友介は、名作「金髪の草原」、「ハチミツとクローバー」での蒼井優との共演などの余韻が立ち上ってくる。

映画史的記憶が重層的に共鳴する可能性に満ちていた。そんな素材を、まったく想像力ない、筆致で、凡庸に並べたてた。正直、見ているぼくには、腹がたった。

演技というものに対する思い込みと気負いに満ちた若い女優は、その凡庸な包丁さばきに我慢がならなかったのだと思う。とくに、物語の中心で、その欠落の痛みを最大限煽らなくてはならない、竹内結子と子供たちの場面の漂白された凡庸さが耐えられなかった。

竹内結子というのは、料理の仕方で、その可能性が大きくぶれる、難しい材料である。塩田が見事に使い切った魅力は、行定とかいう凡庸さのなかで、書割のような平凡さのなかで完全に失われていた。おそらく、その件は、映像的な技法で、色彩を与えるべき部分だったのだ。

伊勢谷友介という、魅力的な俳優とのコラボレーションで、一つの演技の幅をしっかりと獲得していた、蒼井優に対する嫉妬が、沢尻エリカの不機嫌さの原因だったような気がする。まあ、単なる妄想といえば、妄想だが。