たとえば弘法大師空海の評伝を読むと、そこには嵯峨天皇との交流が描かれている。橘逸勢とともに「三筆」と呼ばれ、天皇の書も他の二人のものとともに見ることができる。書を好む人にとってはすこぶる身近なものだろう。
空海よりもよく知られる弘法大師というその諡(おくりな)は、醍醐天皇が贈ったものと言われる。


『平家物語』にも武士、僧侶などともに天皇、院、法皇が登場する。後白河院は物語中に登場するだけでなく、物語全巻をまとめたいわゆる出版プロデューサーであったとされている。


言ってしまえば物語中の人物かも知れないが、すぐに思いついて挙げた数少ない天皇の名前から「天皇制」はまったく連想されない。時代が違うと言えばそれまでだが、たとえば英国の王の歴史をたどるとき、これほどの乖離を感じることは少ないはずだ。


これは時代の差、物語か史実かという差ではなく、天皇(古くは大王と呼ばれたにせよ)という存在自体が持つ二重性によるのかもしれない。


いろいろな二重性がある、いや二重性をどう表現するかは複数あるだろうが、生命的次元と社会的次元の二側面というのが、もっとも考えやすい。


生命的次元は宗教的、霊的な側面が強い。簡単な話が、人の誕生や死にまつわる儀式にはなんらかの宗教的形式が付与される。後白河院の「院」は、皇位を退いて隠遁した天皇のいわば諡であって、これは仏式である。そして日本の天皇が関与するのは神式、神道であって、どちらにしても、この宗教的秘儀は、深く生命の更新に関わっている。今上天皇にあっても祭祀に関わる「職務」は少なくないはずである。


われわれの現実的な記憶に新しい天皇は、明治天皇であり、昭和天皇である。しかもその記憶は、圧倒的に社会的次元に関わる姿である。この断絶もいぶかしいと言えばいぶかしい。明治の帝国憲法に規定された近代国家における天皇と、嵯峨天皇を比較するのがそもそも無謀かもしれない。

しかし神に直接する存在としての天皇の歴史の存続を否定することはできないだろう。

これは「天皇制」存続云々の問題とは無関係である。というよりも、「天皇制」が存続をやめたところで天皇的なるものは存在し続けるという意味で、否定できない。


天皇的なるものを言下に否定できるのは、リバタリアンとアナーキストだけだろう。
アナーキストであるためには強靱な精神力と体力(笑)がいる。


口先だけ否定することは簡単である。

先の天皇が崩御された翌年、1990年の座談会で、歴史学者・網野善彦は「それでもなお今日まで、どうして天皇が存在するのか」を問うている。


網野は自身、アナーキストかもしれないと述べている。しかし、天皇、天皇的なるものは生命的次元に根拠を持っているのではないかと予想していたふしがある。口先や力で否定しさることのできないものであることを知っていた。


女性天皇・女系天皇問題は、どちらかというと生命的次元の問題をあらためて浮上させているように思える。「Y染色体」などを持ち出し、自勢力の社会的次元に利用しようとする動きもある。だが、天皇制がたとえ絶えようとも、天皇的なるものは絶えることはないだろう。
何よりも少なくとも一千数百年の時間を乗り越えて存続してきている。


「Y染色体」など天皇的なるものにとっては意味をなさない。

不執政か、立憲君主かそうでないのか、謎のまま、執政側に機能させられてきたとも見える天皇なるものの存在について、十分な論議が行える基盤を根こそぎにされた国であることをまず悲しむべきだろう。


そして、 「それでもなお今日まで、どうして天皇が存続してきたのか」を問うことが急務である。
これは天皇制の是非とは、まずもって無関係な問いである。


世俗武士の末裔、伊藤博文はすでにこう自白している。
「我国ニ在テハ宗教ナルモノ、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ」。
これが擬似立憲君主制を仕立てた張本人の本音である。


(続く)