バリ、夢の景色 | Yuri's blog; Sa-dou, Piano, Opera, Investment, Southeast Asia, Mideast,

バリ、夢の景色

坂野徳隆著「バリ、夢景色 ヴァルター・シュピース伝」の読後記です。



Yuri's blog; Sa-dou, Piano, Opera, Investment, Southeast Asia, Mideast,-夢の景色


ヴァルター・シュピース (Walter Spies, 1895-1942) は、1930年代にバリ芸術を欧米に紹介した人として有名で、地元芸術家からは「バリの恩人」をして慕われてきた人です。彼の仕事としては、バリの風景画、写真集、伝統舞踊ケチャの観光向けアレンジと新しいケチャを入れた映画の作成、それからオランダ植民地政府によるバリ博物館の初代館長などがあります。


本著は、シュピースの生誕百年から十年近くをかけて書いた伝記で、五百ページ近くの分量にたぶん二百以上の絵や写真を収めた大作。定価も5,800円 (本体) と安くはないので、シュピースや著者個人を全く知らない人が、気軽に買う雰囲気ではないでしょう。


私はブログですでに紹介させていただいているとおり、芸術の森ウブドに魅かれていて、これからも訪れてみたいと思っているので、バリ芸術の最大のプロデューサーであるシュピースをもっと理解したいと思い読んでみました。そして、本書はその目的を満たしてくれました。


まずシュピースの子ども時代の恵まれた芸術環境には目を見張るものがありました。ロシア貴族社会の中で、音楽ではスクリャービンをわが師として、絵画、演劇に親しんで過ごしてきた。成長してからは、当時のサイレント映画の巨匠ムルナウの若い恋人となり、最新の映像技術を学んだ。


それらの豊かな素養から、ロシア・ドイツでオペラや演劇の舞台デザイン (1917-19年)、サイレント映画の作成参加 (1920-23年)、オランダでの絵画個展 (1923年)、ジョグジャカルタ王宮の宮廷楽長 (1924-27年)、ガムラン音楽の採譜とピアノへの編曲、などの仕事をおこない、1930年代にはバリに腰を落ち着かせて一連のバリ芸術運動の振興とその外部への紹介をおこなったのでした。


シュピースは十代、二十代と、時代の先端をゆく一流の芸術家たちと交流しながら、なぜ夢の景色をもとめてバリに落ち着いたのか。著者は、第一次世界大戦中にシュピースはウラル山脈のステルリタマク収容所に抑留された時間 (1915-17年) に着目します。ここでシュピースは現地タタール人の原始的な伝統音楽と舞踊に魅せられて、ヨーロッパの芸術世界の中にとどまるのをよしとしなくなったと分析しています。


シュピースの絵については、以前から私はパリの景色の特徴をとらえているけれども上手ではない、という感想を持っていました。嫌いなところは、線の出し方が正直すぎて下手なところ。好きなところは、ヨーロッパの画家なのにバリの森が深く神秘的に描けているところでした。


本を読んで、私が嫌いなところはシュピースも嫌いだったとわかりおもしろかったです。
「お父さん、僕のイマジネーションは、この呪われた正確さによって壁の向こうに閉じ込められてきたのです!」 (シュピース24才の時の書簡より)

ただし彼の機械的に正確な描写は一生変えず、幻想的な風景を描くために、絵の中の遠近を意図的に壊したり、複数の水平線を入れるなどの技巧を身につけたのでした。


そして、バリ滞在の時間が経るにつれて、シュピースは黒い青と黒い緑により、より幻想的な森を描いていく。シュピースが1939年にオランダ植民地政府により逮捕され、強制的にこの楽園から追い出される直前の二作品は、この点でもっとも優れています。



Yuri's blog; Sa-dou, Piano, Opera, Investment, Southeast Asia, Mideast,-朝日のイッサー
                朝日の中のイッサー




Yuri's blog; Sa-dou, Piano, Opera, Investment, Southeast Asia, Mideast,-子どもと牛の風景

                   風景とその子どもたち

 (実は子どもと牛の組み合わせが画中に5対あります。わかりますか?)




著者はバリ芸術にシュピースが遺した功績としてバリ風細密画の普及をあげていますが、率直にこれはどうなのかなと思いました。


この本では、シュピースがペルシャの細密画への造詣が深く、その証拠として、恋人のムルナウの書斎の壁に無邪気にペルシャ風細密画を描いている写真がありました。ただシュピース登場以前のパリの絵画との比較をしているわけではありません。


ペルシャやオスマン朝トルコの細密画は(そしてたぶんバリも)、王家への貢物として作ったものであり、作者は王家への僕であり、したがって匿名なのです。シュピースはバリに来て、その細密画の裏に作者の名前を入れることを勧めたので、細密画が貢物から市場に出回る役をしたのは確かでしょう。


私は、シュピースはやはり時代の寵児で、バリがマジャパヒット王国の残党が逃げ込んできてから数百年の封建時代を経て国際観光の舞台となるときに、必要なプロデューサーだったと思います。バリはバリの伝統の舞踊、音楽、絵画を脈々と続けているけれども、バリを心底愛するシュピースはその光の当て方、紹介の仕方が上手かったので、バリの芸術家から「恩人」と慕われたのでしょう。