東日本大震災から7年が経ったのてすね。
あの日、あの時はお友達母から母を亡く
した私を慰める電話をいただいていたな
と。


私達地方も揺れました。
間一髪で娘はギリギリ帰宅していて私と
共に居られたのも心の映像と。



あの時は、すぐに行けない私に代わり姉が
父の様子を見に行ってくれたのでしたっけ。
念の為にストーブを消して電気ストーブに
切り替えて、寒さを凌いでもらってたっけ
な。


夜になってから、父の所に行った際に「怖が
りのお母さんが病院で地震に遭わなくて良
かったのかもね・・・」としんみりと話した事
も全て思い出なのですね。


あの時、居てくれた父も居なくなってから
4年半以上の時が刻まれました。


やはり父を一人暮らしさせなければ良かっ
た。夫が無理と言っていたにせよ父の生命
の終わりの時までという期間限定でも良い
から共に居れば良かった。


全てがタラレバ話しなんですけどね。


父の優しさと強さもあったから、私は通い
介護を通しきれました。時には親子なので
プンプン怒る私も居ましたが。


娘も「おじいちゃんと一緒に暮らしてあげ
れば良かったのにね」と。娘は私の父が大
好きでしたから私以上に思ったかも。


我が家の今現在の姿ですが、ほぼほぼ娘と
私の母子家庭状態かと。夫は義母に呼びだ
される週末が続いています。


義母を大事にする事は良い事と思っていま
すが、義母は認知症でもないし寝たきりで
もありません。身体のどこかが動かしづら
いわけでもありません。家族の約束が入っ
ていても、自分優先をうたいます。

遠出しない限りは断わらない夫です。


夫は、我が家には「食事」「お風呂」「寝る」だけ
のために帰宅していているだけで、娘もそん
な夫をけむたい様子と。


義母は息子である夫には会いたいらしいけど、
孫である娘の事は、どうでも良い的な感じな
のです。それが娘にも感じとれてしまって
「お母さんの方のおじいちゃんとおばあちゃん
が生きていてくれた時は幸せだったな」という
言葉まで出てきてしまいました。

フォローしたいけれど、私の心も疲労困憊中
とありフォローしきれてない感あり。


その想いは・・・私も一緒。


夫には両方をというのは無理なんです。
それならば私と娘を自由にさせて下さい。
私と娘で力を合わせて生きていきたいか
ら。


母が旅立った・・・・あの日と同じく
快晴の朝でした。


娘と支度をして、少し早めに実家に
向かう事に。


お寺さんが来訪するまでに、少しで
も室温を上げておきたく、各部屋の
戸を閉めて対策(笑)



今日、来訪されたお寺さんは多分?
今、在籍する中では一番古くなった
?Tさんでした。


娘が当時小さかった記憶しかなかっ
たTさんは、娘を見て吃驚していま
した。


読経していただき、お布施と寄附金
をお渡し、お茶をお出しして世間話
を。


7年・・・早かったのか?  やっとだった
のか?   ふと7年前を思い出してみた。
歩行困難となったけど父は居た。
駆け付けくれたふたりの叔父と従兄・
従姉夫婦・従姉2人・伯母2人が父方の
親戚だった。

この7年の間に父は旅立ち、2人の叔父
も時をおかずに亡くなってしまった。
伯母の1人も亡くなり、従兄も亡くなっ
てしまった。

来れなかった伯母夫婦も亡くなり、従姉
の一人娘も若くして亡くなった。


そして義兄(姉の夫)も目覚める事なく
亡くなった。


母の通夜の後に撮影した写真を今は見る
事が出来ない。母の旅たちまでは皆が
元気だったのにね。



色んな事を思う祥月命日となりました。
娘と2人でのお参りは。


早いものですね。
時のうつろいは・・・あれから7年が経つの
ですね。


明日は、母の祥月命日です。
お寺さんに来ていただき、学校がたまたま
お休みの娘と2人でお参りします。


今日は、その準備などもあり仕事を休みに
してもらい実家でパタパタと動いておりま
した。


父と母が珍しく2人で夢にあらわれてくれ
ました。少し、母は疲れ気味のような気が
しましたが・・・。



仏壇を見て、少し哀しくなりました。
今日と明日の動きの関係で土日に仕事を
受けていたのですが、主人が私のかわり
にお参りに行って手を合わせていたはず
なのですが・・・仏花は萎れてた状態でした。

これが、母の疲れてた理由なのかな?

主人にしたら私の実家の事なので迷惑な
のかもしれませんね。私は、自分の実家
の事なのできちんとしたい。折り合いが
つかないとしか言いようがないのかも。

色々と考えていくうちに疲れました。
腕と手首の湿布を見ながら虚しさを感じ
ています。


父は、そんな私の事が心配だったのかな。