【CP27:井川ダム 8月12日(6日目)00:34】

煌々と灯りの灯る井川ダムを通過して、富士見峠を目指した。


大井川を渡ってトンネルを抜けると、道は登り基調に変わる。

富士見峠への登りの始まりだ。

富士見峠を越えてしまえば、後は海まで下るだけなので、ここが最後の頑張りどころになる。

自然と、踏み出す足に力がこもった。


走り始めると意外と傾斜が緩く感じられて、快調に走ることが出来た。

全部走ると脚が終わってしまうので、ところどころ歩きを入れながら走り続ける。


ペースは悪くない。

変化の乏しい真っ暗な峠道は、普通に走ったら退屈で、眠くてたまらないだろうけど、ここさえ越えれば殆どゴールくらいのモチベーションで臨んでいた私は、眠気を忘れて走り続けることが出来た。


ゆったりとグネり続ける峠道の途中で、登山道に入った。

富士見峠の手前には大きくショートカットできる破線ルートがあり、それは紺野さんに絶対に使った方が良いと勧められていたルートだった。

これで、また一気にゴールが近づく。


ほくほくとして登山道を登り始めたものの、途中で道が分からなくなった。

踏み跡は殆どなくて、月明かりも射さない真っ暗闇の樹林帯の中は、殆ど迷路だった。


悩んだ。


地形を注意深く観察し、コンパスを見ながら進めば問題ないと思う。

でも、殆ど完走が見えてきた今、たとえ僅かなリスクであっても、それを負うという判断にはなかなか踏み切れなかった。


悩んだ末、大人しく引き返してロードを走ることにした。

一度試走していれば、夜間であっても迷わず進めたと思う。

準備不足だったことを痛感して、後悔した。



来た道を引き返し、ロードに戻ってまた走り出した。


長かった。

「ショートカットを行けてれば、もうとっくに富士見峠に着いているのに」

そんなことを考え始めると、思考が一気にネガティブな方に傾いて、それと同時に思い出したように疲労と眠気が襲ってきた。


走るペースが落ち、先ほどまでは快調に走れた傾斜でも歩くようになった。

歩きが増えると、眠気が一層強くなる。


ああ、眠い。


座って30秒の瞑想で眠気を誤魔化しながら進んだけれど、それも段々と効果が薄れ、何をするのも億劫になってきて、ただダラダラ、フラフラと前に進んだ。


深夜にも関わらず、時折通る車から応援してくれる人がいた。

声を掛けてもらうと一瞬だけ目が覚めたけど、すぐに電池が切れたみたいに思考が停止した。


前方に、ぼんやりと光が見える。

灯りに群がる虫のように、その光に吸い寄せられるようにして進んだ。


光の正体は、峠にある食堂、じんきちの自販機だった。

自販機の前には、木のテーブルが置いてある。

しんと寝静まったじんきちにペコリと一礼して、テーブルの上にゴロリと横になり、腕時計のタイマーを15分に設定して眠りに落ちた。



ブルブルと震える腕時計のアラームで目が覚めた。


身体が重い。

眠気もそれほど消えていない。

でも、とにかく前に進むことにした。

自販機でアイスコーヒーとアップルジュースを購入し、カロリーメイトをぼそぼそと食べて出発した。


脚の痛みは相変わらずだし、疲労感でずっしりと身体が重い。

それでも幾分眠気が薄れるとそれなりに走ることが出来て、すぐに富士見峠に到着した。




【CP28:富士見峠 8月12日(6日目)03:06】

富士見峠は無人のチェックポイントで、誰もいない。

別段何も無い場所だけど、ここが富士見峠かーとキョロキョロしながら走っていると、道路脇の茂みの中から獣の唸り声が聞こえて来た。


「ガルルルルー、、、ブフォッ、ブフォッ!」

明らかに威嚇している。


姿は見えないけれど熊だろう。

ここで熊にやられて完走できず、なんてことになったらシャレにならない。

そーっと気配を殺して先へ進み、ある程度距離を開けると一気にペースアップして逃げ切った。



富士見峠を越えると下りが続く。

だらだらと同じ景色が続く真っ暗な林道は、とにかく退屈でたまらない。

暫くチェックするのを忘れていた静岡駅までの距離表示が一気に減っていることに気付くと嬉しくなったけれど、再びそれを意識しながら走るとやっぱりなかなか減らなくてじりじりした。


熊のおかげで一度は完全に吹き飛んだ眠気が、また襲ってきた。


眠い。


でも、もう暫く我慢すれば夜が明ける。

完全に陽が昇ってしまったら暑くなるので、その前に出来るだけ距離を稼ぎたい。

明るくなれば眠気も和らぐだろうし、今は眠くても頑張ろうと思った。


集中力で強引に眠気を押さえ込み、走り続けた。



黙々と走っていると、背後に気配を感じた。

誰だろう、と思って振り返ると、少し後ろを一台の車が減速して追ってきている。

テレビの撮影隊らしい。


気にせず走り続けると、ぶーんと私を追い抜いて前方に停止し、車から人が出て来てカメラを構えた。


パッと眩しいライトをガンメンに浴びせられ、目が眩む。


「足下が見えねーだろ、バカ!」

目を細めながら無言で訴え、カメラの前を駆け抜けた。


追ってきた。

間近でカメラを構え、顔を覗き込むようにして並走して来る。

鬱陶しい。

ついて来れるもんならついて来いよ、ってつもりでペースを上げた。


すぐに振り切り、再び単独走になってホッとしたのも束の間、すぐにぶいーんと車で追い抜かれ、また前方で待ち構えられた。



また並走されて、再びペースを上げた。


無表情で走る私に、カメラマンも喰らいついてくる。

そのまま、我慢比べの様に並走を続けた。


絶対に振り切ってやる。

そして、絶対に苦しい表情なんて見せてやらないんだ。

そう思った。



並走するカメラマンの、苦しそうな呼吸が聞こえる。

私が少しずつペースを上げる度、その呼吸は益々荒く、苦しそうになっていく。


なんだか、急に申し訳なくなった。


そんなに邪険にすることないじゃん。

仕事で頑張っているんだし、こんな夜遅くまでカメラ持って選手を追っかけて、そんな大変な思いをしてるのに選手に疎まれたりしたら可哀そうじゃないか。


でも、やっぱり私は自分のレースに集中したくて、撮影の為に何かをしてあげようなんて気持ちにはなれなくて、そのままカメラを振り切った。

撮影隊も諦めたらしく、もうそれ以上は追ってこなかった。



再びしんとした静寂の中、独りで淡々と走った。

カメラから逃れてホッとしたけれど、それと同時に集中力が少し緩んだのか、あるいはペースアップした分の疲労が出たのか、強烈に眠くなった。


眠くて、頭が重い。

空は少しずつ白々と明け始め、鳥の囀りも聞こえる。

もうすぐ朝だ。

でも、強烈に眠かった。


平衡感覚が麻痺して足下がふらつき、全ての音が遠くから聞こえるような、それでいて耳の奥から聞こえるような、変な感じがする。

視界はぼやけて輪郭が曖昧になり、まるでプールの底に沈んでいるような気分だった。



鳥の囀りに雑じって、微かに歌声が聞こえる。

凄く綺麗で、透明な、のびのある声だった。

建物一つないこんな山奥で、誰が歌っているんだろう。

ああ、これって噂の幻聴ってやつなんだろうな、と思いながら進んでいたけれど、その声は徐々にはっきりと聞こえるようになり、良く聞くとそれは記憶の奥深くにある何かを刺激する、聞いたことのあるメロディだった。


記憶を辿りながら、その歌声に導かれるようにフラフラと走る。

歌声はますますクリアになり、メロディもはっきり聞き取れるようになった。


ドリカムだ。

別段ファンじゃない私には曲名までは分からなかったけれど、聞き覚えのあるメロディとその歌声は、間違いなくドリカムだった。


幻聴ではない。

でも、どこから?誰が?


不思議に思いながら駆けて行くと、突然一軒のロッジが現れた。

Casso横沢だ。

音楽の発信源はCasso横沢で、スピーカーから流れ出る音楽は、お店の前まで来るとライブ会場並みに大音量で響き渡っていた。


Casso横沢は横沢のバス停の数km手前にあるカフェで、パンや軽食をやっている。

この辺りは自販機もお店もずっとないから、TJARの選手にとっては貴重な補給場所だ。

当然その存在は知っていたけれど、私の計画では営業時間外に通過する予定だったし、下見は車で素通りだったので、その存在をすっかり忘れていた。

立ち寄るのは、これが初めてだ。


改めて実物を見ると、とてもオシャレで落ち着いた雰囲気のお店だった。

軒下には丸いテーブルとイス、お店に隣接する駐車スペースには小さな手洗い場がある。

それら全てが木造で、その一つ一つに木が持つ独特の温かみを感じられるその空間は、全てひっくるめて一つの作品の様に見えた。


ホッとすると同時に、とてもお腹が空いた。

行動食は食べていたけれど、パサパサの味気ない行動食ばかりでは力が出ない。

お店には明かりがついていて、仕込み作業中と思われる人の姿も見えたけど、時間は4時前で迷惑になるだろうから、戸を叩かずに諦めた。


とぼとぼと歩いて、駐車スペースにある手洗い場に向かう。

豊富に流れ出る水をすくい上げ、顔と手を洗い、むくみと熱でパンパンになった脚をアイシングした。



眠い。


少しだけ、仮眠させてもらうことにした。


手洗い場のそばには木材が沢山積まれていて、何かを建てている途中のように見える。

腰を下ろし、積まれた木材を背もたれにして目を瞑ると、流れていた曲が変わった。

聞いたことがある曲。

未来予想図Ⅱだ。


聞いたことはあるけれど、歌詞は殆ど知らない。

思考力の低下した頭では歌詞を聞きとどめることが出来なくて、やっぱりどんな歌詞なのかは分からなかったけれど、そののびやかな歌声は意識の奥深くまで心地良く響いた。


「ああ、良い曲だな」


そう思うと、不意に涙がこぼれた。