奈良から24号線を北向きに走行、木津川を渡ってすぐに右折、東向きに4キロくらい行ったところに、恭仁宮跡があります。木津川市立恭仁小学校のとなりに広がる一帯です。
まだ山々の緑が濃く、紅葉が少しおくれている感じがしました。それでも休耕地に植えられたコスモスが満開で、秋晴れの青空に映えておりました。




この史跡・恭仁(くに)宮について現地に設置されている市教委の説明文に、以下のようにあります。

恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世上不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平十二年(七四〇)に現在の加茂町瓶原(みかのはら)の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平十六年(七四四)にわずか四年あまりで廃都されてしまいます。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用されることになります。山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北三町(約三三〇m)、東西二町半(約二七五m)の広大な寺域をもつ寺でした。山城国分寺跡(恭仁旧跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されます。(木津川市教育委員会)



現場にはその七重塔の模型と、大極殿を模した背景画が掲げられ、その前に舞台が設置されてました。そこで、雅楽が奏でられる中、恭仁京遷都行列を迎え記念式典が催されました。猪熊兼勝・京大名誉教授の主旨や演目の説明があり、大歌・五節舞が奏舞されました。そして、その前の広場で古式に則って蹴鞠が行われ、あわせて雅楽が奏されました。


五節舞の装束は、チラシにあった柳花苑のものでした。十二単で舞われるものと期待していた方も多かったのでは…。ちょっと残念でした。









隣接の臨時駐車場では、地元の食材をフルに使った豚汁、新鮮な野菜、衣服や植木、花など、かなりの数の直売店が出店されていました。わたしも焼きたての餅がはいった具だくさんの豚汁に舌鼓を打ちました。



10月末だというのに、まだまだ太陽の光は強烈で、背広にネクタイ姿のわたしなどは、汗をかくほどの暑さで、終わりのころには、ちょっと疲労感があったくらいです。