先 駆 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

以前シドニー五輪の女子マラソンで優勝し、女子陸上選手として初めて金メダルを獲得した高橋尚子選手が国民栄誉賞を授与されましたが、もし遡って故人にも授与できるならこの方にも是非差し上げたい・・・という女性アスリートがいます。 その人の名は


 人見 絹枝 選手

今日は、日本人女性として初めてオリンピックでメダルを獲得したこの陸上選手の命日にあたります。


しかしその栄光の影には、現代では考えられない女性差別との苦闘があったことはあまり知られていません。


人見選手は、1907(明治40)年に現在の岡山市に生まれました。


子供の頃から魚獲りが大好きだったという活発な女の子で、岡山県立高等女学校ではテニス部に所属しましたが、持ち前の跳躍力に注目され出場した県の中等学校陸上競技大会の走り幅跳びでいきなり日本新記録をマーク。


これがキッカケとなって、現在の日本女子体育大学である二階堂体操塾に進学し本格的に陸上に取り組んだ彼女は、1924年に開催された岡山県女子体育大会の三段跳びで10m33の世界新記録をマーク。


1926(大正15)年に大阪毎日新聞社に入社すると、国内の大会で50m・100m走や走り幅跳びで優勝したばかりか、砲丸投げでも日本新をマークするマルチな活躍。


その彼女を国際大会に出場させるために急遽日本女子スポーツ連盟が設立され、それを受けて同年8月にスウェーデンのイエテボリで開催された第2回国際女子競技大会に日本人として唯1人出場すると、走り幅跳び・立ち幅跳びで優勝、円盤投げで2位、100ヤード走3位、60m走5位、250m走6位で個人得点15点をマークし、国際女子スポーツ連盟から名誉賞を授与されました。


現在でいうところの、十種競技チャンピオン・・・つまりは〝陸上競技の女王〟の称号を与えられる活躍だった、といえましょう。

彼女の大車輪の活躍によって大会が成功したことをバックに、同連盟のミリア会長が国際オリンピック委員会に女性の参加を熱心に申し入れた結果、次のアムステルダム大会から100m・800m・400mリレー、走り高跳び・円盤投げの5種目に参加が認められます。


(※しかし人見選手が世界記録を持っていた走り幅跳びは、何故か不認可。 これも欧米人による東洋蔑視の影響?)


国際大会参加で知った、当時としては珍しい専属トレーニングコーチをつけるなどの近代的なトレーニングをいち早く導入した彼女は、1928年5月には100mで12秒2、走り幅跳びで5m98の2つ世界新記録をマークし、絶好調で同年8月に開催された第9回アムステルダム五輪に出場。


しかし当時はアムステルダムまではシベリア鉄道での長旅・・・調整不足からか、本命と目されていた100m準決勝でまさかの4位となり決勝に進出できず。


このままでは日本に帰れない・・・悲壮な決意で彼女はそれまで未経験だった800mへのエントリーを周囲の反対を押し切って決断。


そして壮絶なデットヒートの末、2分17秒6で2着。

優勝したラトケ選手(独)との差はわずか2mという大接戦でした。


(※ゴール直後2人とも失神・・・女性にはあまりに過酷な種目ということで、その後しばらく800m競技は男子のみになったといいます。)


          ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

             <人見選手(左)とラトケ選手>


現代だったら、その活躍に日本中が湧きかえりそうなものですが、当時は男尊女卑の時代・・・称賛されるどころか、「ブルマーから足を露わにしてはしたない」 という批判や、中には「彼女は男ではないか」 などという中傷までされたというんですから、あまりに可哀想。


それでも彼女はその後も競技を続けたばかりか、次の目標を1930(昭和5)年9月にチェコスロバキアのプラハで開催される第3回世界女子競技大会に日本女子選手団を参加させることと定めた彼女は、後進の指導育成や遠征資金獲得のために募金活動や講演にと、まさに八面六臂の活躍。


まさにプレーイング・マネージャーとして一人何役もこなしたのです。


そして念願のプラハ大会に自分を含め6人の選手を率いて出場すると、走り幅跳びで優勝するなど個人総合で2位、団体でも日本チームは参加18ヶ国中4位の戦績を収めました。


しかし前回大会より成績が落ちたことで日本国内の反応は冷たかったそうで、彼女は大きく落胆・・・更にその後半月間に5つの国際大会に出場するという超ハードスケジュールをこなしたことで、彼女は体調を崩します。


それでも帰国後、新聞社の仕事や募金に対するお礼などで休みなく動き回った彼女はとうとう扁桃腺炎を発症、更に翌1931(昭和6)年4月には結核に侵されてしまいます。


それまでの疲労の蓄積が祟ったのか、闘病も虚しく彼女は4か月後の8月2日・・・奇しくも3年前にオリンピックで銀メダルを獲得した同じ日に、弱冠24歳という若さで天に召されてしまいました。


もし彼女の存在なかりせば、日本における女性のスポーツ進出は大幅に遅れたことでしょう。


そういう意味において、彼女こそ国民栄誉賞を授与されるに相応しいアスリートだった・・・と私は思うのです。


黎明期の日本女子スポーツ界を切り開いた先駆者・人見選手の冥福を、心よりお祈り致します。笑3



               ペタしてね