悲 愴 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

私は今、交響曲 『悲愴』 を聴きながらこの記事を書いています。


中学生の頃、長野市民会館で生まれて初めて聴いた海外オーケストラ(確かレニングラード・フィル?)の演奏が、この曲でした。


物悲しく、それでいて甘美なメロディーが子供の耳にも心地よく残り、私にとっては大変思い出深い作品なのですが・・・今日は、この名曲を作った


 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー

    (Peter Ilyich Tchaikovsky


の命日にあたります。


私が大好きな作曲家の1人である彼が生まれたのは、1840年。 

場所はモスクワから約700km離れたヴォトキンスクという町でした。


父親が鉱山技師であったため、5歳の頃からピアノを弾くなど幼少時から音楽の才能を見せていたにもかかわらず、両親はわが子を音楽家にするつもりは全くなかったようで、彼が10歳の時に法律学校へ寄宿させます。


そんな彼にとって幸いだったのは、この法律学校が超エリート校だったこと。


生徒たちはいずれも貴族など上流階級の子弟であり、彼らとの交流から在学中にドイツ人ピアニストからピアノを習う機会に恵まれ、また校内の合唱団で独唱や指揮などの音楽活動も行うことができました。


在学中に母親をコレラで亡くす不幸に見舞われながら、19歳の時に優秀な成績で卒業し、すぐさま法務省に勤務することに。


しかし音楽への想いが絶ち難いチャイコフスキーに、大きな幸運・運命の転機が訪れます。


当時ロシアで高名だった作曲家でありピアニストであったアントン・ルービンシュタインがロシア音楽協会を設立し、プロの音楽家を育成するべくペテルブルク音楽院を1862年に設立・・・チャイコフスキーはその第一期生として入学することができたのです。


在学中に法務省を退職し音楽に専念することを決心した彼は、3年後に優秀な成績で音楽院を卒業。 アントンの弟ニコライ・ルービンシュタインが創立したモスクワ音楽院の講師として招かれ、以後モスクワを拠点とした音楽活動を展開。


              ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-Tchaikovsky


一方、彼の私生活(女性関係)は派手というか、複雑なものでした。

(ちなみに、彼自身は同性愛者であったことが定説となっています。)


5歳年上のオペラ歌手との熱愛、婚約までしながら周囲の反対により破局。

次に9歳年下の女性からの熱烈な求愛に応えて結婚式を挙げたものの、その僅か2ヵ月半後に彼は自殺未遂事件を引き起こし・・・結局彼女とは死ぬまで離婚できず仕舞。


しかし彼は、富豪であったメック未亡人から14年間に渡り経済支援を受けてもいます。 彼女とは一度も会ったことはなく、千通を越す文通をしただけだったのに・・・。


母親の死、破局、結婚の失敗・・・これらの苦悩が、後期作品の何ともいえぬほの暗い作風に通じるかもしれませんが、音階を巧みに利用した情緒溢れる旋律は、聴く者の心を捉えて離しません。


そして私が不思議であり、かつ驚嘆する事実・・・それは彼の有名な作品が、悉く当初は不評であったこと。


冒頭の印象的な和音は誰もが聴いた事があるであろうピアノ協奏曲第1番は、ニコライ・ルービンシュタインに 「演奏不可能」 と突き放され、また有名なヴァイオリン協奏曲も最初に演奏を打診した名演奏家レオポルド・アウアーに、これまた 「演奏不可能」 と初演を拒絶され、別の演奏家によってなされた初演も大不評を買ったそうな。


いずれの曲もその後評価は高まったわけですが、初演を拒否されながらも自信喪失せずに作曲活動を続けたチャイコフスキーの不屈の精神には、頭が下がります。


部屋に流れている 『悲愴』 は、つい先程から第4楽章に入りました。


そういえば、この曲も初演後の評価は芳しくなかったとか。 

それは通常華やかにフィナーレを迎える最終第4楽章が、暗い雰囲気で終わることが大きな要因だったようです。


しかしいずれの大曲も現在では高い評価を受けていることを考えれば、彼の作品は時代を先取りしたものであったとも言えましょう。


『悲愴』 の初演から僅か9日後の1893年10月25日、チャイコフスキーは53歳で突如この世を去ってしまいます。


死因はコレラと肺水腫の併発とされていますが、一部では自殺説も語られてはいます。


自身の死を暗示したかの如き交響曲第6番の静かなフィナーレと共に、〝悲愴なる作曲家〟の冥福を祈りたいと思います。笑3


皆さんは、チャイコフスキーの作品・・・何がお好きですか?



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