今日・4月18日は、太平洋戦争当時の日本国民から絶大なる信頼と人気を得た、そして現在も軍人として最もその名を知られている人物・・・
山本 五十六 元帥海軍大将
の命日にあたります。
明治17(1884)年、新潟県長岡市で高野貞吉の六男として生まれた五十六氏。 その名の由来が、当時父親が56歳だったから・・・というのは有名ですネ。
明治34(1901)年に海軍兵学校入学し、3年後に卒業した直後に日露戦争が勃発。 日本海海戦に従軍した際に、左手人差し指と中指を失う重傷を負います。
大正4(1915)年に旧長岡藩家老の家柄である山本家の家督を相続、以後 「山本五十六」 と名乗ることに。
その後ハーバード大学留学や、駐米武官の経験を通じ、アメリカの国力を正確に把握。 また航空機が将来戦闘での主役となることを予想し、戦艦大和の建造や対米開戦反対論者であったことも知られています。
昭和14(1939)年に聯合艦隊司令長官に就任。 その後太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃を成功させたことにより、国民からは英雄として称えられました。
しかしその後は、自らの予言の如く状況は徐々に悪化。 昭和17(1942)年のミッドウェー開戦において聯合艦隊は敗北を喫し、一気に戦局はアメリカ優位に傾きました。
そして昭和18(1943)年4月18日・・・前線視察のため搭乗した飛行機は、日本軍の暗号電文を解読して待ち伏せていたアメリカ軍機にブーゲンビル島上空で撃墜され、歴代聯合艦隊司令長官として唯一となる戦死を遂げたのです。
山本長官の死は、その影響の大きさを憂慮した大本営により1ヶ月以上もの間国民には秘匿され、6月5日に日比谷公園で国葬が執り行われました。
『軍神』 と崇められた山本長官でしたが、その力量を疑問視する意見も一部にあるようです。
しかし、敵国・アメリカ連合艦隊のニミッツ司令長官が、山本長官の前線視察情報を暗号解読により知った時、「ヤマモトより優れた司令長官が登場する恐れはない」 と待ち伏せ作戦を決行したことをみれば、その能力は高く評価されて然るべきでしょう。
博打も非常に強かったという山本元帥、生粋の職業軍人だったのでしょうネ。
あらためて、山本元帥のご冥福をお祈り申し上げます。
ところで・・・山本元帥の言葉は名言録として数多く残されており、現在でも多くの方が座右の銘とされていると思います。
「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は動かじ」
は有名ですょネ。
しかし私には、次の言葉が最も胸に沁みるのです。
苦しいこともあるだろう
言いたいこともあるだろう
不満な事もあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣きたいこともあるだろう
これらをじっとこらえていくのが男の修行である。
・・・嗚呼、まだまだ修行が足りない私。