月曜日は彩蹊会のオープニングパーティーでした。
今年も王冠&コスチュームアーティストのオカさんを主軸に、楽しいテーブルを作り
みんなで囲むことができましたヽ(*'ー')ノ
出品者の半数以上は参加できたでしょうか。
お互いの作品を前にしての歓談は、思わぬ収穫を生むこともあります。
私の今年の作品は例年からすると明るいらしく、何人かの人に驚かれています。
そしてその事に自分が驚いています。
今年の絵はそんなに明るいのか。
その前に、今までの絵はそこまで暗く見られていたのか(;ΦωΦ)
「あの暗い画面の底から、よくここまで脱する事ができたわって思うのよ。」
と画廊の方にも言われましたが
残念ながら脱したわけではないのであります(´・ω・)
むしろ、暗い底に閉じ込められていたわけではなくてですね
ただの趣味なんです(`・ω・)
また暗い絵を描きますよ!
そしてもっと、大きくて凶暴な絵が描きたいですヽ(*'ー')ノシ
それかどこまでも静かに、深く、暗い絵・・?
これからどんな数ヶ月を過ごすかにもよりそうですね。
法事の当たり年でもあるし、今年は色々ありそうですから
来年何を描いているかは自分自身が楽しみです。
もしも悲しいことがあったら、壮絶な絵を描くんでしょうか。
案外明るい絵になるでしょうか。
「本人は口を割らないが、SF作家には苦しんだ過去を持つ者が多い」
という様なことを星新一が言っていたのを思い出しました。
が、絵は作者の思わぬ気持ちを反映します。
ですからやはり楽しみですね。
さて、チャーチル会に私を誘ってくれた河盛さんも
もちろん彩蹊会の方にも出品されておりまする。
会場内での絵の配置は、「描いた人が誰か」よりも
絵の感じを見て決められているのでありますが
今年は偶然、河盛さんと私の絵が並びました。
河盛さんは地面に映った木の陰を描いていて、私は空の絵です。
いずれも、何を描きたかったかが非常に分かりやすい作品でありますね。
しかし私の絵の方が構図的に極端らしいです。
下の数パーセント残して、あと全部が空なのは
絵画のお約束を無視していて面白いらしいです。
でも、空の雲の配置の中で構図を取っているのは、見れば分かるので
大丈夫らしいです。
よく分からんですが(;'д')ノ
(*'д')しかし河盛さんも地面ばっかではありませんか。
「わしは一応、7対3を守っておる。」
言われて見ればなるほど、地面の上(陰の主である樹木)の描写が
画面の上部3割を占めている様です。
他の何人かの人にも構図を面白がられました。
自分では常に、伝統的な絵画タイプだと思い込んでいたので
これも言われてびっくりでありました。
伝統的な絵画の人は彩蹊会は事欠きません。
今年はさすがといいますか、やはり東京駅の復元に反応された方がいました。
前会長の近藤さんです。
東京駅の歴史を知る世代の人たちが近藤さんの絵の前に集まって
ひとしきり記憶のすりあわせをされておったです。
空襲で屋根がドーンと落ちてしまって
その後「東京駅」が無い事にはハナシにならんと直すのですが、物資が足りず
形を変え(曲線をショートカットして直線にしたり)
階数も減らした省エネモードで作られたらしいです。
思い出話にふけり、また別の方について「あなたの絵はどちら」と移動(((*'ー')
そしてそのスキに横に居た河盛さんに、訊いてみたかったことを訊きました。
( ΦωΦ)空襲の時、河盛さんはどちらにいらしたんですか。
昭和2年生まれの河盛さんは、終戦直前といえば18歳。
以前うかがったお話しでは元気全開の「甲種合格」で召集を待つばかり
だったけれども、その前に戦争が終わったのでありました。
多くの話で聞く様に、理系の人なので最後まで残されていたのでしょう。
さてその銃後でどこにいらしたのかです。
関西に帰ってらしたのか、それとも空襲の街に残ってらしたのか。
「わしは武蔵野市の消防署におった。」
( ΦωΦ)消防署に・・?
「うん召集されてな。火を消しとった。」
空襲というとすさまじい火のイメージがあり、とても消せるものとは思えませんが
勝手に消えるわけでなしやはり消す人が居たのです。
とにかく逃げるものとだけ考えていました。
( ΦωΦ)しかし消えるものですか?!
「消したよ。ひとつ、あれは楽しかったな。」
( ΦωΦ)たの・・?!
「正田飛行機の工場が燃えたんで消しに行った。」
( ΦωΦ)ほう?
「建物を壊してしまうのよ。」
「もう窓からなにから、バンバン叩き壊してな。消えたよ。」
( ΦωΦ)おおお
「それからな、球場に向かった。」
( ΦωΦ)球場?!神宮?
「いやすぐそこの。当時幾つか球場があった。」
(;ΦωΦ)にしてもかなり歩い・・いや走って?!
「いやまさか。消防車。」
( ΦωΦ)あっそうか車、走ってたんですな。
空襲=徒歩しかないと何故か思い込んでおりました。
都内だけでなく近隣の県からも、たくさんの消防車が駆けつけたそうです。
さて球場に到着した河盛さんたちですが・・
「火はもう全部消えておった。」
( ΦωΦ)あらっ
「前に来た連中がな、消しとった。」
( ΦωΦ)おお~
「みな死んでしもうたがな。」
( ΦωΦ)えっ
( ΦωΦ)火は・・消えて、でも、死んでしまった?
「そう。消した。積まれてたよ。」
( ΦωΦ)つまれ?
「死んだ彼らがな。」
「当時の人間は、引くという事をしなかったからな。」
( ΦωΦ)そうすると、河盛さんも危なかったじゃありませんか。
着く順番が違っていたら、今ここに居なかったかも知れないのです。
「河盛さんか?河盛さんはな、大丈夫だ。」
( ΦωΦ)ほう・・?
「河盛さんは逃げ足が速いからっ(笑)」
( ΦωΦ)フハッ(笑)
そのあたりで、だいたい別の絵の前にたどり着いてしまったですが
ふともう一つ質問を。
( ΦωΦ)関西と関東で、人間性の違いって感じますか?
(河盛さんは堺生まれで、旧制高校から東京なのです。)
「いやあ、さほど感じんな。」
( ΦωΦ)ま、変わりませんか。
「そう変わらん。ただ」
( ΦωΦ)ただ?
「関東の人の方が、‘人がいい’のが多いな(笑)」
( ΦωΦ)かも知れませんな、なんとなく(笑)
そうこう、なごやかに締め括られましたが
河盛さんが自分の話を一人称でなく、「河盛さん」を主語にして説明したのは
これが初めてでありました。
戦争の話を残す事の難しさをあらためて思いました。
どんなに強い人とはいえ、触れるべきでない事はありましょう。
しかし逃げ足の速い河盛さんは、心の逃げ足も速そうである。
忘れてしまうってことでは無いし
どのような事もないがしろにはされていないでしょうが。
生きていくための心の有り様をどうするか、という意味でです。
こころ痛んで、いたむあまりに何も成せないでは
生きてゆくのに虚しいではありませんか。
河盛さんはその後よく学び、働き、美味しいお酒や純粋なアルコールを造り
残った部分からすら野菜の肥料を生み出したそうな。
よく駆ける心はかくも強い。
そしてそういう心の持ち主は、生きているだけで誰かのためにもなってしまうという
一つの代表例たる河盛さんなのでありました。