式子内親王 桐の葉も | わたる風よりにほふマルボロ

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百首歌奉りし時、秋歌

桐の葉もふみ分けがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど

式子内親王
新古今和歌集秋下534


 
 
【現代語訳】

深まる秋の道に、桐の葉も
踏み分けがたく積もったものだなあ。
訪ねて来る人もいないから、
どれほど落ち葉が積もり
我が家の前の道を隠そうと
構わないのだが。
ええ、
特に差し障りもないのだが……。

(訳:梶間和歌)


【本歌、参考歌、本説、語釈】

わが宿は道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせしまに
僧正遍照 古今和歌集恋五、770

あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし
詠み人知らず 古今和歌集秋下287

山ざとは蝉のもろごゑ秋かけてそともの桐の下葉落(おつ)なり
藤原定家 拾遺愚草員外142 一句百首 藤原定家全歌集2933

秋庭不掃攜藤杖 閑蹋梧桐黄葉行
白居易 白氏文集巻十三 晩秋閑居

なりにけり:なったのだなあ、
 なってしまったのだなあ。
 「けり」は気づきの助動詞で、
 それゆえ詠嘆のニュアンスも持つ。
 完了、確述の助動詞「ぬ(に)」が
 添えられることで
 「……てしまった」の
 ニュアンスが加わる。

必ず:下に打ち消しを伴う場合は
 「必ずしも」の意。

待つとなけれど:
 待つということはないけれど


 

正治二年(1200年)後鳥羽院主催
「正治初度百首」、
式子内親王が人生の最後に詠んだ
百首歌中の一首です。

この約半年後の正治三年
1月25日、式子は亡くなります。

(建仁元年没とよく言われますが、
 建仁への改元は二月なので
 正治三年と表すべき。
 西暦ではどちらも1201年です)


 
「正治初度百首」では結句
「待つとなけれど」、
『新古今集』の写本では
「待つとなけれど」「待つとならねど」
どちらもあるようです。

「待つとなけれど」
のほうが広く知られていますね。
私もこちらで記憶していますし、
こちらのほうが音が美しい。

「待つとなけれど」は
「待つとなし」に「ど」が接続した形、

「待つとならねど」は
「待つとならず」に「ど」が
接続した形。


「待つ人がいるわけではない、
 誰かを待っているわけでは
 ないのだが」

結句の反転した言いさしの
さりげなさ、たゆたいが
なんともいえないですね。
 

 
 
同時代というか、
式子より少し下の世代にあたる
俊成卿女は、

翌建仁元年(1201年)詠進、
建仁三年(1203年)成立の
「千五百番歌合」にて
とふ人もあらし吹きそふ秋は来て木の葉に埋(うづ)む宿の道しば
を詠み、

のちに『新古今集』(秋下515)
採られました。

先行する式子の「桐の葉も」から
学んだのかしら。


俊成卿女の夫である源通具も
建保二年(1214年)
順徳天皇の「内裏歌合」にて
人は来ずはらはぬ庭の桐の葉に音なふ雨のおとのさびしさ
と詠んでいます。
 


 
秋を飽きに掛け
恋人の訪れの絶えた女の嘆きを
詠むのは、和歌の常識。

とはいえ、ここでは
「ということは恋の歌だ」と読むより、

「そういう雰囲気を背後に漂わせた
 秋の歌」
ぐらいに読んだほうがよいかと。

歌にはっきりと
「秋」と詠み込まれているわけでも
ありませんしね。

本歌を知っていれば、
またこの時代の
季節の歌の詠み方を知っていれば、

「桐の葉も」の歌の背景に
恋が配置されていることは
言うまでもない、となります。




桐の葉は一枚ずつ落ちるもの、
つまり
「ふみ分けがたく」なるまでに
時間の掛かるもの。

それほど長い期間
人は訪うて来なかった、
ということを暗示します。

作中主体にとっての特定の人、
恋人、かつての恋人、
などと読むより
漠然と「人」と読んだほうが
情緒深いかな、と。

「誰も問わなかった。
 そういえばあの人も」
と、言っているか言っていないか、
のギリギリ。
 
 
元の百首歌でも『新古今集』でも
「秋部」に入集している、
ということもあります。

恋人の夜離(よが)れを詠ったもの
と決め付けると
狭い読みになるかもしれません。

「恋部」への入集であれば
そう読んで構わないですが。




季節の歌、人生の歌の裏側に
恋や政治のニュアンスを
忍ばせることは、
新古今時代には珍しくないこと。

例えば、新古今時代を
牽引した後鳥羽院は、

式子内親王の和歌から
多くを摂取し、
彼女の死後もその歌を
評価し続けました。

その後鳥羽院の歌にも、
そうした重層構造のある歌が
少なくありません。
 

後鳥羽院といえば、
庭の雪もふみ分けがたくなりぬなりさらでも人をまつとなけれど
などは初学のころの詠だとか。

本歌取りというには
あまりに本歌に近いので、
成功している本歌取りとは
いえませんが。

ここまで極端な事をしてでも
「桐の葉も」とその作者から
学ぼうとした院の姿勢が、
うかがわれます。




後鳥羽院の摂取(というかパクリ)
仕方はともかく(笑)、

この時代の歌人同士の相互影響は
なかなかです。


「本歌、参考歌」に引いた
定家の「山ざとは」は、
時代も近すぎますし、本歌ではなく
参考歌に当たるでしょうが、

和歌で「桐」を詠んだ最初の例だ
と言われています。

「山ざとは」は
建久元年(1190年)ですね。
「桐の葉も」は、先にも書いたように
正治二年(1200年)


「桐」は和歌ではなく
漢詩的な素材なので、案外歌に
詠まれずにきたようです。

定家の父である俊成は
式子の和歌の師ですので、

師の息子である定家と
式子の和歌上での影響関係も
かなり見られます。

(そうした影響関係の痕跡を
 ふたりの濃厚な恋愛関係の根拠
 として見ようとするのは
 大変偏ったものの見方です。
 勉強不足を晒して
 恥をかくことになりますので、
 いますぐやめましょう)



「桐の葉も」に限らず、
式子内親王の和歌、
特に最後の百首歌である
「正治初度百首」の歌には

彼女の豊富な漢詩の素養が
よくよく見て取れます。


特に「正治初度百首」には、
わかりやすく
「この漢詩を本説に取りました」
というような歌より、

当然の知識として
この漢詩が背景にあり、
本説取りと言うまでもない
さりげなく自然な形で
歌の骨格を支えている、

そんな歌が多いですね。


死の半年前、
式子の和歌の集大成とも呼ぶべき
百首歌ですものね。

それは、そうなるよなあ。


桐の葉もふみ分けがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど


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