【長編】私がIT会社を辞めて、「わじまの海塩」の会社を起業した理由 | 橋本三奈子のSalt Revolution(わじまの塩に魅せられて)

【長編】私がIT会社を辞めて、「わじまの海塩」の会社を起業した理由

私がなぜ、大手IT企業を辞めて、塩の会社を起業したのか、その理由を2010年5月13日から5月31日にかけて19回に分けて連載していました。


連載中には、読者の皆様から、温かいコメントをいただきました。


弊社顧問の瀬川昌威は、私のブログを読んでいないのですが、この記事は目を通してもらっておいた方がいいなと思い、印刷したところ、17ページになりました。


それを渡して読んでいただいたところ、これはわかりやすい、と、コピーして、あちこちに配ってくれています。


先日は、東日本料理学校協会の事務局長・新居文樹先生(日本で最初に「医食同源」という言葉を公式発表したという医師・新居裕久先生の弟さん)から、訪問してきたお客様を応接室にお通しして、「まず15分これを読んでください」と渡しています、と言われました。


・・・他にも皆さんから、熱い言葉をいただいています。なんだか、気恥ずかしいぐらいです。


ちっとも簡潔には書けていませんが、「わじまの海塩」の説明と、私の自己紹介になっている内容です。


新しくこのブログを訪問してくださった方にも、読んでいただきたい内容なのですが、連載形式だと、後から読むには、とても不便。


そこで、かなり長編になるのですが、以下に一気にまとめたものを載せます。今後、リンクを貼っておくにも便利ですし。


一度、読んでいただいた方や、お忙しい方は、飛ばしてくださいね。


さて、長い物語ですが、はじまり、はじまり・・・。


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先日、パン教室のママ友のところに行ったときに、「どうして、橋本さんは、富士通で管理職にまでなっていたのに、会社を辞めて、塩の会社を?」と聞かれました。


「あれ、話していなかったっけ?」ときっかけについて話をしたのですが、このブログでも、きちんと書いていなかったので、一度、書いておこうと思います。


長くなりますので、連載で。よろしくお願いします。


まず、亡き父のことを話さなければなりません。


私は、就職して2年目で結婚し、仕事を続け、翌年、長女を出産しました。24年前のことです。(歳がばれますね)


そのとき父は65才。膀胱癌になりました。膀胱は転移が少ない場所ということで、そっくり膀胱を切除してしまえば大丈夫でしょう、といわれ、切除し、人工膀胱をつけました。本人にはガンの告知はしませんでした。


病院からは、手術後、念のための抗がん剤を勧められました。「抗がん剤を受ければ、あと5年、70歳までは生きられるでしょう、受けなければ、余命はわかりません」と言われました。


ところが、同じ病室には、抗がん剤を受けている方がいたのですが、みなさん、抗がん剤の副作用で苦しみ、父の入院中にも、抗がん剤を受けながら、病室で亡くなっていく方が何人もいました。(24年前の抗がん剤のことです)


父は、そういうところを見ていたので、自分はガンだと思っていなかったこともあり、抗がん剤を受けるのは恐いから嫌だといい、退院してしまいました。


結果として、父は、その後約20年、結局84歳まで生きたんです。


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父は膀胱癌の手術の際、輸血を受けました。その輸血で、肝炎にかかってしまいました。それが、当時はまだ発見・認知されていなかったC型肝炎だとわかったのは後のことでした。


肝炎のため、その後、2回入院はしましたが、肝臓の薬を飲みながら、家で過ごし、近所に住む孫(私の娘達)の保育園の送り迎えをしたり、母と買い物やバス旅行に行ったり、晩酌もしたりして、老後の生活を暮らしていました。


膀胱癌の手術から18年後、定期健診で肝臓にガンが見つかったと言われました。開腹手術ではなく、太ももから内視鏡を入れる方法で手術をしました。1週間ほどの簡単な入院でした。


その後、父の体はずいぶん弱り、ほとんど寝てテレビを見ているというような生活になってしまいました。そんな手術をもう1回しました。


私は、仕事がとても忙しく、父については、母に任せきりで、父の病気の状態について、ネットで調べたり本を読んだりすることもせず、民間療法なども知らず、病院に通っていれば大丈夫だろう、というぐらいな具合でした。


4年前、その2度目の手術の半年後、父の具合が急変しました。知らせを聞いて、病院にかけつけたときには、父の顔は、すっかり変わってしまっていて、これが「死相」というものか、というような顔になっていました。でも、意識はあり、言葉も通じました。


1か月前の定期検診では、肝臓の値は正常だったということなのですが、検査の結果、肝硬変の末期と言われました。


肝臓は沈黙の臓器と呼ばれるほど強い臓器で、4分の3がダメになっても、まだ働き続け、急変したときには、もう手遅れ、というものなのだそうです。


入院して数日、テレビを見ながら会話ができるほど回復しましたが、医者には、「尿が出なくなったら毒素が体に回ってしまい終わりです」と言われていました。


そこで、毎日、母と私と姉と長女が交代で、病室に入れてもらったソファーに泊まりこみました。


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私が泊まり込みだった日に、もらったまま、読んでいなかった本を2冊持っていきました。


1冊が「病気にならない生き方」(新谷弘美・2005年・サンマーク出版)と、もう1冊が「食品の裏側―みんな大好きな食品添加物」(安部司・2005年・東洋経済新報社)」でした。


それまで、私は、健康のことも、食品のことも、ほとんど考えたことがなかったような人間だったのです。こういう系統の本を読んだことは初めてでした。ストーリーを追うようなものより、気軽に読めるかな、というぐらいな感じで選びました。


「病気にならない生き方」は、30万例以上の胃腸を見てきた胃腸内視鏡外科医が書いた本です。


この本には、酵素の重要性が書かれていました。抗がん剤は、酵素を浪費し、人間の体には猛毒になること、新谷食事健康法で免疫力を高めてガン再発率0%ということが書かれていました。


「食品の裏側」は食品添加物の元トップセールスマンの書いた暴露本ともいえるものです。この本は衝撃でした。お読みになった方、いらっしゃいますか?


スーパーで売られているミートボール。これは廃棄寸前のクズ肉を30種類の「白い粉」で、おいしいミートボールにしてしまうという話。


著者は、これを自分の子供にだけは食べさせたくないと思い、食品添加物の会社をやめたということでした。


商品名は出ていませんでしたが、スーパーで売られているミートボール・・・・、ケチャップ味で、柔らかく、娘たちが好きで、温めるだけで済むものなので、私は、娘たちのお弁当にしょっちゅう入れていたのです。


廃棄寸前のクズ肉を使った食品添加物の塊だったとは・・・。背筋が寒くなりました。


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でも、うちの娘たちは、おかげさまで健康で、アトピーやぜんそくも花粉症もありません。


なんでだろう、と考えたとき、それは、なりより、母体の私が健康だったからだろう、と思い至りました。


結婚するまで私は実家にいて、母の手料理を食べていて、結婚してすぐに長女を授かりました。長女が生まれたあとは、仕事を続けるために、実家のそばに引っ越して、平日は母の手料理を食べさせてもらいました。そこで授かったのが次女。


母は昔ながらの人間だし、サラリーマン家庭で、食費の節約もしなければならなかったので、冷凍食品はもちろん、レトルトパックや、なんとかのタレというのもほとんど使っていませんでした。


母は、肉は肉屋さんで、魚は魚屋さんで、野菜は八百屋さんで買っていました。だから、私は、ある意味、ごく普通で、きっと健康的なものを食べていたのです。


そして、ほとんど風邪もひかないような健康な私の母体から、健康な娘たちが生まれたのだろう、と思いました。


そして、私の食事担当は、お弁当と土日の食事。朝、お弁当の支度をするのは大変で、お肉を焼いたり、緑の野菜を入れたりはしましたが、味付けは、何種類も揃えていたナントカのタレで。そして、品数を揃えるため、冷凍食品やレトルトパックに、とても、とても、お世話になっていました。レトルトのミートボールもその一つです。


そう考えたとき、娘たちが、子供を生むとき、その子が健康かどうかは、母である私の責任だ、と思いました。


そう考えたら、自分が娘たちに食べさせてきたものが、恐ろしくて、背筋が冷たくなりました。


暗い病室、唸る父のそばで、私は、食品について、食事について、いい加減にしていてはいけないな、と真剣に思ったのです。


父は入院して2週間で亡くなりました。84歳。膀胱癌の手術をした年に生まれた長女が20歳。でも、もし、あの時、抗がん剤を受けていたら、ここまで長く生きられなかったかもしれない、長生きできてよかったね、という思いがありました。


でも、肝臓については、民間療法とも言われる食事療法などを、もっと早くにいろいろ調べていれば、西洋医学の薬ではない方法で、もしかしたら直すこともできたかもしれない、という悔いも残りました。


父の死をきっかけに、西洋医学の薬では治せない病気を食事で直せることもあること。そして、私は、娘の未来の子供たちへの責任を負っているのだということを強く強く感じました。

これが、IT業界から食の業界に転身することになった、大きな大きな精神的なきっかけとなったわけなんです。


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さて、この「病気にならない生き方」と「食品の裏側」という本をくれたのが、父が入院する4か月前に出会った方、

今、顧問をしてもらっている瀬川昌威(当時64歳)でした。


瀬川は、中・高・大とサッカーをしていて、慶應大学ソッカー部時代の同級生が、日本クラブユースサッカー連盟の会長の佐藤修氏。1つ下の後輩に、日本サッカー協会会長の犬飼基昭氏がいます。


会社の後輩が瀬川と知り合い、私は、次女が小学校2年生からサッカーをしているので、「高校1年の娘がサッカー留学したいって言っているんですけど・・・」というようなサッカーのご縁で紹介してもらいました。


そのときに、昭和電工時代の脱水シート「ピチット」の開発物語、定年の挨拶回りに能登で出会った輪島の塩の話などを伺い、お土産にお塩をいくつかいただきました。(輪島の塩士・中道肇の作っている塩でしたが、当時は、違う銘柄でした。)


その後、瀬川からは、塩化ナトリウムだけの塩に由来する様々な問題を聞きました。当時、カルシウムや鉄や亜鉛というミネラルについては、よくテレビで特集も組まれていたりしましたので、微量ミネラルの大切さは、すぐに理解できました。


また、瀬川の属していた昭和電工が1980年代後半に、化学の力で製造した必須アミノ酸の健康食品「トリプトファン」が、アメリカで大規模な健康被害事件を引き起こした話も聞きました。ピチットは、そのときの反省から生まれた商品であることも聞きました。


瀬川の持論は、「人間が工場で作られるようにならないうちは、人間が食べる食品を化学工場で作ってはいけない」というものでした。


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カルシウムや鉄分や亜鉛やマグネシウム・・・、その人間にとって必須のミネラルをまったく無視した結果、血液や細胞のバランスが崩れ、高血圧になったり、ガンになったり・・・。


また、ナトリウムで、交感神経ばかりが刺激されてイライラしたり、自律神経の失調になったり、活力がなくなったり・・・。


いろいろな本を読み、情報を仕入れ、微量ミネラルが、体だけでなく精神にも影響していることを知りました。


そして、そういう背景で、日本は、サプリメント全盛になってしまったことを理解しました。


当時、現代日本人に、癌や花粉症やアトピー、キレる大人たち、自律神経失調症と思われる何となく具合の悪い人達が増えていることを、不思議に思っていました。

原因だと言われる、公害、スモッグ、化学調味料、外食生活、ITストレス・・・、でも、そういうものは世界中にあります。なぜ日本だけに顕著にみられる現象なのだろう、と。


それが、昭和47年からの30年間、日本に特有の塩化ナトリウムだけの塩によってもたらされたものである、と考えると、なるほどそうか、と納得できるものがありました。


そして、私は、私は、輪島の塩の1ファンとして、家の塩を全部、輪島の塩に切り替えました。


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当時、高校生の次女のお弁当に、果物を入れていました。よくリンゴを入れていました。リンゴは皮をむくとすぐ変色しますが、塩水につけておくと時間がたっても変色しません、主婦の常識ですね。


当然、塩は輪島の塩を使っている私も、塩水を作って、リンゴを入れてから、お弁当に入れました。


ある日、娘が係活動があって昼休みに時間がなく、お弁当をそっくり残してきたことがありました。夜、お弁当箱を開けてみると、リンゴの色が少し茶色くなっていました。


あれと思い、瀬川に、「どうして色が変わるんでしょう?馴染みがいいからでしょうかね~?」と伝えると、20種類ぐらいの塩を渡されて、「これで実験してみて」と頼まれました。


精製塩、モンゴルの岩塩、沖縄の塩、大島の塩、能登・珠洲の塩、ゲランドのフルールドセル、ゲランドの灰色の塩、などなど。


それで、私は、深夜、正確に、塩の量を測り、水の量を測り、塩水を作って、同じ大きさにリンゴを切って、実験をしました。


①水道水150gに各塩10gを溶かす。
②リンゴ(早生ふじ)をカットしたものを各塩水に20分浸す。
③5時間放置する。


その結果・・・。


a)塩水に浸さなかったリンゴ → 茶色く変色(褐変)した。
b)「食塩」「モンゴルの塩」 → ほとんど変色しなかった。
c)「沖縄の塩」→茶色くなった。
d)「大島の塩」「能登・珠洲の塩」 → 全体が黄色っぽくなった。
e)「輪島の塩」「ゲランドの塩」 → 全体がやや黄色くなり、透明感を帯びた。
となりました。透明感というのは、いわゆるリンゴの蜜の色です。


「塩水につけるとリンゴの変色を抑える」というのは、調理事典などにも書かれています。でも、塩によってその減少が違う、常識と思っていたことが常識ではなかった、ということがわかったんです。


ここから、私は、塩にハマッてしまいました。


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色の違いは何から来るのか、それぞれの塩の裏ラベルやホームページに書いてあったミネラル成分とグラム数をエクセルの表に入力してみました。その絶対値をいくら見てもわかりません。


塩がリンゴの変色を抑える理由を調べました。「塩が酵素の一種・リンゴポリフェノールの働きを抑制するため」だからでした。(「病気にならない生き方」には、食物酵素は大事なものと書かれていました。その働きを抑制する、ということです)


いろいろ調べるうちに、漬け物向けの塩は、マグネシウムを添加していることもわかりました。


それで、ナトリウムが変色を抑え、マグネシウムが発酵・熟成を促すのだろうと思い、その微妙なバランスで、リンゴの色の違いが出てくるのかな、と思いました。


バランスということは、割合なので、マグネシウム÷ナトリウム×100として、比率を出してみました。すると、リンゴの変色のしかたと、その比率の数値に、相関関係があることがわかったのです。


色の変わらない精製塩や岩塩は、ほとんどマグネシウムが含まれていないことが明らかになりました。また、海水を瞬間蒸発させた塩は、マグネシウムがとても多く、確かに海水そのものの比率に近いことがわかりました。


輪島の塩は・・・、マグネシウムとナトリウムの比率が人間の血液のマグネシウムとナトリウムの比率と、ほぼ合致していました。


そして、さらに、世界最高峰の塩と言われる、世界のトップシェフ達が使っているフランスのゲランド塩田の「フルール・ド・セル」も、似た比率だったのです。


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さて、そんな話を、瀬川は、ピチット時代からよくご存じの料理研究家の杵島直美先生に伝え、輪島の塩に特徴的な料理を考えていただいたところ、杵島先生は、「浅漬け」とおっしゃいました。杵島直美先生のお母様は、やはり家庭料理研究家の村上昭子さん。親子で一緒に梅干しを漬けたり、糠漬けをつけたり、漬物の本もいろいろ書いていらっしゃいます。


その杵島直美先生が、「旬の野菜の浅漬けが、塩だけで、乳酸菌発酵の漬物のような深い味わいになる、これは浅漬けの革命だ」とおっしゃったのです。


「調理用語辞典」の「浅漬け」の項には、「漬け込む期間が短いため、野菜に含まれる成分を失いにくいが、漬物特有のうま味に乏しい。そこで、風味を増すため、みりん、こうじ、コンブ、ショウガ、みそ、とうがらしなどを加える」と書かれています。


だから、浅漬けで、塩だけで、うま味が出ることを、「革命」とおっしゃったわけです。


塩だけで野菜が乳酸菌発酵するものか?と調べていくと、乳酸菌は空気中にも浮かんでいたり、野菜の表面についていたりするので塩だけで乳酸菌発酵するというのはあり得るということでした。


また、他にも、輪島の塩を糠漬けに使っていて、この塩でなきゃ美味しくならない、とおっしゃる先生もいました。


そこで、瀬川は、ピチット時代にお世話になった東北大学名誉教授の藤本先生にこの話をしました。先生は、野菜の浅漬けで、塩によって、乳酸菌の発育数にも違いがでるかどうか計測してくださいました。


予想通り、ゲランドのフルールドセルと輪島の塩は、精製塩や岩塩に比べ、乳酸菌がよく発育しました。逆に、マグネシウムの多すぎる塩では、乳酸菌が育ちにくいという結果も出ました。


発酵食品は美味しいとか、体にいいとか言われていますが、発酵というのは、乳酸菌や酵母やこうじなどの有用微生物を増やし、その力関係で有害な腐敗菌を抑えてしまい、長期間貯蔵ができ、さらに、味に深みが出るというもの。その発酵には、塩が重要な役目を果たしています。


そして、その乳酸菌の育成には、塩のマグネシウムとナトリウムのかなり微妙なミネラルバランスが大きく関与しているということがわかったのです。


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塩の役割の中に、殺菌効果というのがあります。菌は、塩には弱いのです。ただ、好塩菌と呼ばれるものがあり、ある程度の薄い塩分濃度では生きられる菌もいます。その一つが乳酸菌。


発酵食品の決め手となるのが乳酸菌です。善玉菌である乳酸菌が増えてくると、乳酸菌が他の悪玉菌・腐敗菌をやっつけてしまい、そのため、食物が腐らなくなり、保存食になります。


糠漬けを作っている方はご存じでしょう。糠漬けが酸っぱくなりすぎたときは、乳酸菌が増えすぎたから。その対策には、冷蔵庫に入れて菌の発育を止めるという方法がありますが、他にも、塩を入れるという対策もあります。


ということは・・・。


殺菌効果のある精製塩が、乳酸菌を殺しはしないまでも、その育成・働きを弱めてしまっていたとしたら?


当然、発酵時間がかかり、発酵のうま味がなかなか出なくなります。その結果・・・、味噌や醤油や梅干しや浅漬けの素にまで、うま味をつける化学調味料が入れられるようになってしまった、ということになるでしょう。


腸に届く乳酸菌は、動物性乳酸菌よりも植物性乳酸菌だと言われていますが、その発見は、京都のスグキの糠漬からだったそうです。それは、乳酸菌の生きている糠漬けを食べていた時には、腸に乳酸菌が住みついていたということを示します。


ところが、化学調味料と保存料で、味だけうま味をつけた漬物や味噌には、乳酸菌がたくさん住んでいませんね。


そして、今や、花粉症やアトピーや癌まで直すという研究が進められている乳酸菌です。ヨーグルト売り場には、乳酸菌入りのものばかり。歯周病菌を退治するために、歯磨き粉にも乳酸菌入りのものが出るぐらいです。


日本が、本物の発酵食品を食べている時代には、日本人の口の中、腸の中に、その乳酸菌はごく普通に住んでいたのではないでしょうか。


昭和47年から塩化ナトリウムだけの塩に切り替わり、本当の発酵をしなくなり、化学調味料と保存料とで、発酵食品に乳酸菌がいなくなってしまったと考えられはしないでしょうか。


フランスのゲランドの塩も、輪島の塩も、乳酸菌を育成する塩です。


輪島は、昔から発酵食品のルーツ「魚醤」を作れる土地。「魚醤」はどこでも作れるものではありません。いわしを塩漬けしておくと、腐らずに、発酵して、うま味の強い調味料ができるという現象。これは、昔、輪島で作っていた塩の発酵力だったのではないでしょうか。


輪島沖は、大河から流れる暖流と寒流がぶつかり混じり合う海域。フランスのゲランド地方の海と似ていて、海藻が豊富で、プランクトンが多く、魚介類が豊富。舳倉島付近は、海流も早く、淀むことなく流れ続けていて、とてもきれいです。


酵素の働きを抑制せず、乳酸菌がよく育成し、発酵を促すという現象。それは、微妙なナトリウムとマグネシウムのミネラルバランスに依るもの。きっと、これは、数ある塩の中でも、いまや日本では、輪島の海水でしかできないものでしょう。そして、世界的に見ても、珍しいものではないかと思ったんです。


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もう一つ、わかったことがありました。


銀座の「リ・バール」というバーに、ヨーロッパで修業をしてきたという博学のバーテンダーさんがいます。「山の上ホテル」のバーマン、ソムリエを経て「シェ松尾」のシェフソムリエとしても勤務していたという小林直也さん。


カクテルを作るのは化学式だとおっしゃっているような方。果物の酸味、それにいろいろなアルコールを足すとどういう味になるか、化学式が頭に浮かぶとおっしゃるのです。


その方から、私がこのブログによく書いていること「ナトリウムは野菜や穀類の炭水化物の甘味を出し、マグネシウムは肉や魚のたんぱく質のうま味を出す」と教わりました。日本にはあまり馴染みのない知識ですが、ヨーロッパのソムリエはみんな知っていることだ、ということでした。


炭水化物が分解されるとブドウ糖になるので甘くなります。ご飯を長く噛んでいると甘くなるという現象です。


インターネットで調べてみると、たんぱく質消化酵素がたんぱく質を分解するということがわかりました。だいこんやじゃがいもや玉ねぎには、たんぱく質消化酵素が多く含まれているので、肉料理の付き合わせに使われます。


また、たんぱく質が分解されるとアミノ酸になるということ、うま味といわれている代表のグルタミン酸はアミノ酸の一種なので、たんぱく質が分解されると、うま味が出るという仕組みがわかりました。


また、マグネシウムが酵素を活性化するということもわかりました。


マグネシウムがないと酵素が働かない。つまり、マグネシウムのない塩では、肉や魚からうま味が出ないということになります。


フランス料理の巨匠・ロブションが日本に来たときに、精製塩を渡したところ、これは塩ではないと突き返されたという逸話があるのですが、その理由がわかります。彼らは肉料理がメインですから。


日本のように、昆布やかつおのグルタミン酸やイノシン酸のダシがない国で、肉でうま味のある料理を作ることは、精製塩ではできない、ということでしょう。


そして、うま味というのは、舌だけでなく胃にも受容体があり、うま味を感じると、脳に消化するように、という命令を出すということがアメリカの研究により実証されたそうなんです。


つまり、肉を食べるときにはマグネシウムを含む塩が、肉の自己消化を促進し、うま味を出し、さらに食べたときには、胃腸の消化を助ける、という仕組みです。


ただ、マグネシウムが多いと苦みを感じるので、野菜や白身魚の繊細な味を追求するようなお料理には、ちょっと合わない、ということになるのですね。


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私はIT企業に勤めていましたが、私のいる部署は、インターネットサービスを構築したり、運用のアウトソーシングをするところ。私は主に「検索」システムを担当していました。


yahooやgoogleのような日本独自のインターネット検索エンジンの開発・運営も行なっていましたし、企業内のホームページに限定して検索するシステムの構築や運用をするサービス、携帯電話から携帯向けのホームページを検索するサービスの構築や運用・運営も行なっていました。


だから、何か調べるときの検索はお手のもの。どういうキーワードで検索すればいいか、「このキーワードを含まない」という検索式を使って、不要な検索結果を排除する方法など、それほど悩まず、苦にならずに、検索できたんです。


そこで、とにかく、インターネットを駆使して、いろいろなものを検索して、調べました。深夜、休日、あるいは、通勤途中のケータイ検索で・・・。


ミネラルのこと、酵素のこと、アミノ酸のこと、発酵のこと、うま味のこと、消化のこと・・・。こうなると趣味のようです。趣味というのは熱中するものです。


検索しては、発見し、納得し、さらに次へ、という感じで、英語の論文も読んだし、特許申請書も読んだし、各地の特産物の説明書きなどからも学びました。


お酒の味は、マグネシウムやカルシウム量の違いの硬水・軟水によって、辛口や甘口になること。


納豆は、塩を使わないのに発酵食品だけど、納豆で有名な地域は、大豆を浸している水が名水といわれる水で、硬水であること(つまり、納豆にも、マグネシウムやカルシウムなどのミネラルが影響しているといこと)。


酵素が活性するのも、乳酸菌が育成するのも温度が40℃で、やや高めの体温程度。糠漬けは冷蔵庫に入れると、乳酸菌の発育が止まるということ。


一方、身体の中の酵素や善玉菌が活性化し、免疫力が上がるというのも同じような温度。身体は冷えると免疫力が下がり、病気になりやすくなるということ。


「酵素 たんぱく質 分解」というキーワードで検索してみたら、洗剤のCMで「酵素パワーでたんぱく質の汗や脂を分解」と出て来て、「そうか~、酵素がたんぱく質を分解するというのは、馴染みがあったんだ」と納得したり・・・。


こうして、私はすっかり輪島の塩にはまってしまいました。時期は前後してしまいますが、この間、輪島の海を一度見てみたいと思い、2007年9月の連休を利用して、輪島に行く計画を立てました。


瀬川から、お塩の関連の知人で、東京に個展で来ていた輪島塗の青年漆芸家さんを紹介してもらい、輪島を案内していただくことになりました。


そんなころ、会社の仕事では、携帯向けのコンテンツを作って提供するというサービスも担当することになりました。


シニア向けの内容を、ということだったので、当時、アンチエイジングのレシピをテーマにイベントをしていた三國シェフのコンテンツはどうだろうと思いました。


そこで私は、脱水シート「ピチット」の元事業部長だった瀬川にお願いして、三國清三シェフを紹介していただくことにしました。


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2007年9月のことです。脱水シートの「ピチット」事業部長、その後、能登半島の輪島の塩をプロモーションしていた瀬川の紹介ということで、最初に三國清三シェフのところにご挨拶に行ったとき、「輪島」つながりの世間話として、世界料理オリンピック大会の話題が出ました。


4年に1度、ドイツで、世界司厨士協会の主催で、世界最大の料理競技会「世界料理オリンピック大会」というのが開催されています。100年の歴史があるそうです。


通常の大人のシェフ部門と、23歳未満ジュニア部門があるのですが、日本は大人部門では金賞や銀賞をとっているものの、ジュニア部門には出場経験がありませんでした。


日本の23歳未満は、専門学校を出たばかりぐらいの年齢で、とても世界で戦う力を持っていないから、ということでした。


そこで、次の2008年の大会には、若手育成のため、三國清三シェフがコーチとなり、23歳未満の料理人から選手を選んで、若手を育て、料理オリンピック大会に出場させて、世界の場を経験させたいと考えているということでした。


ジュニア部門の大会は、コールドディスプレイ部門という展示なので、日本らしい展示で目立つようにしたい。漆塗は、英語で「japan」と呼ばれていて、日本を代表する工芸作品。そこで、料理を置く展示には、輪島塗の台や器を使いたいということでした。


そして、三國シェフは、輪島に選手をつれて合宿に行き、輪島塗を作るメンバーとの打ち合わせがしたい、帰りには、選手に料理を作らせて、輪島の人達にお礼をするようなイベントをしたい、それをドキュメンタリーとしてテレビ撮影したい、と考えているということでした。


ちょうど、次の連休に輪島に行くし、輪島塗の漆芸家さんにも会うことになっていたので、「では、私が伝えておきましょう」と引きうけました。


そして、その安請け合い(?)から、世界料理オリンピック大会のジュニア部門が輪島塗の展示を使うということに対し、個人的に、東京と輪島の連絡係という大変な役目をすることになってしまいました。


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2007年9月。私ははじめて能登・輪島に行きました。羽田空港から能登空港までは直通で1時間。遠い日本海の地方と思っていたところが案外近くてびっくりしました。


空港には、漆芸家の若宮隆志さんが迎えに来てくれていて、ずっと車で案内してくださいました。


観光では、能登の観光名所・珠洲市の揚げ浜式塩田を見に行きました。あげ浜式製塩法というのは、約500年にこの地方で始められた塩作りの方法。



輪島の塩に魅せられて大手IT企業を飛び出した女社長の奮闘記-あげ浜式塩田


桶をかついで、日本海から岩場を登って海水を運び、粘土で固めた砂の上に、霧のように撒き、天日で蒸発させます。これを何度も繰り返し、充分に水分が蒸発した後、砂をかき集めて、海水で洗い、濃い塩水を作ってから、さらに薪を燃やして平釜で焚き、結晶させるという方法です。


ここは、専売法のもと、日本のすべての塩田が廃止されたときにも、古い製塩法が残される観光設備として例外的に許可された、日本唯一の場所で、無形文化財に指定されています。


雨が降れば、作業はできません。朝、天気予報を見て、空を見て、その日の作業を決めます。梅雨が明けてから本格的な製塩作業が始まりますが、最盛期の8月は短く、9月にもなると日差しが弱くなり、10月には乾燥しなくなってしまうので、作業ができません。大変な重労働です。


こんな過酷な環境での塩作りなのに、江戸時代、能登の塩が珍重されたのには、やはりそれだけの理由があったのではないか、と思いました。


輪島の珠洲市には、いくつか、このような揚げ浜式塩田が、観光と土産品を兼ねて出来ていました。


当時、私が出会った輪島の塩は、このような製法ではなく、室内で、40℃の低温で、湯せんのようにして、間接的に下から海水をあたためて、海水を蒸発させ、塩を結晶させるというものでした。天気や季節に関係なく、作れます。中道肇が作った製塩所でしたが、そこで、当時の塩の会社の社長がみずから作っていました。


輪島観光では、能登半島をほぼ一周し、輪島塗の工房長屋で輪島塗の技術を見て、夜には、輪島の塩の会社の社長さんに、新鮮でおいしい魚介類をごちそうしていただき、すっかり輪島を堪能しました。


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2007年9月、輪島を車で案内してくださった漆芸家の若宮隆さんには、三國シェフの要望を伝えました。シェフの要望に合うものは現状持っていないため、ジュニア部門ということだから、漆器青年会の若手メンバ・古込和孝さんを中心に、ディスプレイの制作をしてもらおうか、ということになりました。


東京に戻ってきてからは、漆器青年会の古込和孝さんや、世界料理オリンピックの日本の事務局となる日本司厨士協会の方々、三國清三シェフ、輪島の塩の製造会社の社長さんなどと連絡しあって、輪島塗の制作や、合宿について、連絡・仲介係として進めていきました。


合宿場所の旅館の確保、料理を作る市民センターの確保、輪島市のマイクロバスのレンタル、NHKや地方テレビ局・地方新聞社の招へい、輪島で見学する場所のコース決め、輪島市役所に表敬訪問するために三國シェフと輪島市長・輪島市役所の方との仲介、などなど。


輪島の見学コースには、あげ浜式塩田を入れることになりました。マイクロバスでの移動の中では、三國シェフからの依頼により、瀬川から、20歳前半のジュニア選手達に、塩についての講義も行うことになりました。


そして、2008年4月。年休をとって、輪島での合宿にも参加しました。あげ浜塩田村では、選手達が桶をかついで、海から岩場を登って海水を運び、砂の上に撒く、というような体験まで行ないました。


以下は、その輪島合宿の新聞記事です。輪島市役所に、チーム一行が、梶市長を訪問した際の記事(北國新聞 2008年4月17日)。



輪島の塩に魅せられて大手IT企業を飛び出した女社長の奮闘記-輪島合宿の記事


こちらは、輪島の漆器青年会の皆様やお世話になった方へのお礼として、輪島の海産物や野菜を使って、三國シェフ率いるジュニアチームが料理を作っているときの写真です。


輪島の塩に魅せられて大手IT企業を飛び出した女社長の奮闘記-輪島合宿のもよう

輪島合宿は、最初に三國シェフが話してくださったときに、頭に、ドキュメンタリーのテレビ番組の映像が浮かびましたが、そのイメージ通りのイベントとして実施することができました。


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輪島合宿の中で、漆の工房を見て、作品を見ながら、色や質感を選び、世界料理オリンピック大会で使うディスプレイのイメージを作っていきました。


世界の料理競技会のレベルをご存じの三國シェフ、料理を作るジュニア選手、大きさや形の条件に配慮する日本司厨士協会の事務局、輪島塗を制作する漆器青年会のメンバが意見を交わしながら、テーマを「和」を意味する同心円にすることが決まりました。


でも、実は、この輪島合宿のときには、輪島塗の製作費をどう捻出するかまだ決まっていなかったのです。


合宿後、輪島市役所の方々のご尽力で、輪島塗を世界の人が集まる場でアピールしようと、石川県の能登震災の復興予算を振り分けていただくことが決定しました。予算委員会で承認されるまで、本当に実現できるかどうかと、胃の痛くなる思いをしました。


お礼をお伝えしたいから、と東京・四谷の三國シェフのレストランに、石川県知事ご夫婦を招く調整をしたりなどもして、私は、谷本県知事や、石川県東京事務所の松原所長とも、ご挨拶やお食事をする機会に恵まれました。


結局、ジュニアチームの出場を商業利用させたくないという協会事務局の意向で、普通なら広告代理店がやるようなことを、ボランティアでやったわけです。


調整すべき箇所が多方面にわたり、また、どれについても、直接知っている方々ではなかったので、何箇所、何段階も、仲介の方に入っていただく必要がありました。正直、大変なことでした。


そして、とうとうディスプレイが完成。2008年10月。ドイツ・フランクフルト近郊のエアフルト市で世界料理オリンピック大会が開催されました。


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そして、2008年10月、ドイツでの世界料理オリンピック大会。さすがにこれは行けませんでしたが、ジュニア部門は、みごと、コールドディスプレイ部門で、金賞を受賞したのです。



輪島の塩に魅せられて大手IT企業を飛び出した女社長の奮闘記-世界料理オリンピック大会
            写真:東京ガス「最適厨房」のサイト より。


輪島の塩に魅せられて大手IT企業を飛び出した女社長の奮闘記-世界料理オリンピック大会表彰式
                写真:東京ガス「最適厨房」のサイト より。


メールで連絡をもらったときは、わがことのようにうれしく思いました。

この世界料理オリンピック大会を通して、日本の料理技術のレベルの高さを再認識しました。さらに、私自身は、個人的に、SEの仕事とはまったく違う役割を果たして、充実感もありました。


最初に、ゴールが映像で見えてしまえば、その映像通りになるように物事を進めていけばいい。それは、大変だけども不可能なことはない、やればできる、という自信を得ることができました。


そして、輪島にたくさんの仲間ができました。たくさんの知人ができました。


そんなときに、大きな転機が起きたのです。


世界料理オリンピック大会でジュニア部門が金賞をとった2008年10月の後半のことです。


当時、別の銘柄でしたが、輪島で塩を作っている製造販売会社の社長さんが、脳に腫瘍ができ、余命宣告を受けました。そこまでのこととはご本人も思っていなかったのです。すぐに入院する必要があり、後継者のあてもなく、塩作りを続けられないということになってしまったのです。


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そのころ、その塩の製塩所を作った中道肇は、輪島市の海士町に頼まれて、水産庁の離島の事業助成金を使って、輪島から50km沖にある舳倉島(へぐらじま)に新しい製塩所を作り、そこで塩を作っていることがわかりました。


塩作りの方法は、さらにレベルが上がっていました。フランスのゲランドの塩田を参考に、室内で再現したというものでした。


海水を運んで、室内の浴槽の中に入れ、その海水の上からランプで熱を当て、40℃未満の低温で海水を蒸発させ、結晶させる方法です。10日間かかりますが、雨を気にすることもなく、季節を問わず、1年中作れます。


エネルギーは、焚き木でも石油でもなく、電気。エコでもあり、生産性も上がっていました。生産量を増やすなら、浴槽とランプのセットを増やせばいい、ということでした。


この製塩所は、中道肇が一人で設計したということ。


その舳倉島の塩も、祈るような気持ちで成分表を調べたところ、ナトリウムとマグネシウムの比率が、人の血液とほぼ同じというものでした。


2008年4月から、舳倉島のお土産品として、販売開始されていたそうでしたが、まだ広くは売られていないものでした。そこで、その舳倉島の塩を後継商品にしようということになりました。


ところが、東京でプロモーションしていた瀬川も、一緒にやってきた社長さんが辞めるのであれば、自分も高齢であるし、この機会に販売事業を辞めて、塩の啓蒙活動に専念する、とおっしゃったのです。


瀬川は、何人かの方に、引き継いでもらえないかと頼みましたが、「販売は引きうけるけれど、塩なんていう儲からない事業に専念することはできない」と断られてしまいました。

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岩塩よりも海の塩が常識となっているというフランスの医者が、日本が塩化ナトリウムだけの精製塩にしたときに、「日本は国をあげての人体実験をする気なのか」と言ったそうです。


塩の製造販売が自由化されたのに、まだ何も知らずに、昔からの塩化ナトリウムの塩を食べている人がほとんど。ほとんどの加工食品に今でも大量に使われている精製塩。


一方、世の中は、サプリメントや乳酸菌が大流行しています。


精製塩で調理された食事を食べて、ミネラルのサプリメントを飲むという矛盾。化学調味料でうま味をつけて、実際は、保存・流通のために、発酵を止めている味噌や醤油や漬け物を食べて、乳酸菌ヨーグルトを食べているという矛盾。


でも、この矛盾の生んでいる原因は、塩化ナトリウムだけの塩にあるのではないでしょうか。簡略化して図式化すれば、こんなふうになります。


精製塩の食事 + ミネラルのサプリメント = 体の調子がよくなる
精製塩の食事 - ミネラルのサプリメント = 体の調子がよくない


これでは、どんなにサプリメントに頼らないようにと言っても、頼ってしまいます。みんな、元気に健康でいたいのですから。


精製塩の料理 + 化学調味料 = おいしい
精製塩の料理 - 化学調味料 = おいしくない
 
これでは、いくら化学調味料が悪いと知っていても、やめられません。おいしくなければ続きません。うま味を求めるのは、人間の本能ですから。


でも、サプリメントも、化学調味料も、実は、根本を直さない対処療法をしているだけなのではないでしょうか。


癌に苦しむお年寄り。キレる大人たち。アトピーや花粉症に悩む人達。自律神経失調症のサラリーマン。精気のない若者。精神不安定な子供たち・・・。


日本人はこのままではダメになる・・・。日本はこのままではダメになる・・・。


子供達の未来のために、未来に生まれる子供達のために、1日でも早くどうにかしなければ・・・。


根本から変えなければ、おおもとを正さなければ・・・。


そして、数ある塩の中でも、この日本の事態を救えるのは、人の血液のミネラルバランスと同じ輪島の塩。乳酸菌を育成させる塩。食べ物の消化分解を促す塩。振りかけるうま味ではなく、素材を分解した本物のうま味を引きだす塩。体によくて、なおかつ、美味しい。


輪島の塩の料理 = おいしい = 体の調子がよくなる


この輪島の塩であれば、きっと根本を変えられる。日本人を救える・・・。


誰かが声をあげなければならないのに、その人がいなくなる・・・と思ったら、居ても立ってもいられなくなってしまったのです。


誰かがやってくれるのを待つのではなく。 それならば・・・、私がやろう、と。


そして、輪島には、日本を代表する輪島塗を世界に普及しようとしている漆器青年会の仲間もいる。輪島商工会議所の会頭、輪島市長、石川県知事もいらっしゃる・・・。私のことを東京者と阻害せずに、輪島の活性化につながることであれば、きっと受け入れてくださる、応援してくださるだろう、と思いました。

ITの仕事は他にもやる人がたくさんいる。でも、輪島の塩のプロモーションについては、他にやる人がいない。だったら、自分がやるっきゃない。


そして、私は、この輪島の塩を日本を代表する塩、世界に誇れる塩として、私の生涯の仕事にしよう、と決心したのです。2009年11月末のことでした。

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これが、25年勤めたIT企業を退職し、「株式会社美味と健康」を起業して、塩の名称を「わじまの海塩」と名付け、販売を始めた理由です。

ふう~。これで連載は終わります。19回まで続いてしまいました。


私の個人的な話に、長くお付き合いいただいて、どうも、ありがとうございました。「読んでます」のコメント、メッセージ、どうもありがとうございました。とっても励みになりました。

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以上です。


長い物語、読んでいただいて、ありがとうございました。