人と違う意見をいうと批判を受けるのは仕方がないが、私は狭量なので、言い方がきついメッセージをよむと腹が立ってしまう

今、コフートの伝記を読んでいると、やはりものを考える集中力を落とすからと言って、批判を受けそうなところは避けるし、すぐけんかをするし、自分のシンパみたいな人ばかり集めていたと書いてあった。驚いたことに天才とはそんなものだと、その伝記の著者はその生き方を肯定している

私は天才ではないが、だからなおのこと、自分の創造性を、不快な気分によって、遮られたくない。

創造性というのは、もちろん、有益なものもあれば、破壊的なもの(おそらくヒトラーなどはそうだったのだろうが、しかし私は前半の経済政策は認めている)もあるだろう。

しかし、人と違ったものの中から人類の進歩があったのは事実だろうから、「突然変異」(これもいい方向も悪い方向もある)は阻害すべきでないというのが私の考えだ。

簡単にいうと、私は狭量なのは認めたうえで、批判は受け付けないと決意した

というか、すべての批判(レベルの高いものも低いものも)に対して、私ができる返事は一つだ

「あなたの言っていることが正しいかもしれないが、私の言っていることも正しいかもしれない。世の中に絶対の真理などないのだから、人の思索の邪魔をしないでほしい」

というのは、50を過ぎたら、考えを伸ばさないとやっていられないのだ。

もちろん、金を出して買ってもらった読者には多少の批判の権利があるのは認める

ブログについては、好き勝手にやらせてもらう

もちろん、名誉棄損になるようなことは避ける

ただ、ひょっとしたら嘘も書くかもしれないから、引用もしないでほしい

それが気に入らなければ、ブログをやめるしかない

そういう声が強ければ、やめることは考えている

世の中にいろいろな意見があっては困るという北朝鮮型の人間がそれだけ増えたとすれば、おとなしくしておいた方が身のためなのはよくわかる

さて、昨日書いたように、本日は、教育夏祭りというイベントで、石巻にきている

で、午前中に(急遽、臨時授業として入れられたのだが)中学生の進路相談を、繁田和貴さんという、面白い経歴の教育のプロと一緒にやった

(彼とは共著書もある
http://www.amazon.co.jp/gp/product/448780440X/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_3?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4861914221&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0Q3Y43WV2AMBNY132M6Y

驚いたことに来てくれた中学生はゼロだった

無名なのは事実として、まったく進路とか、受験勉強法に興味を持たないというのは、驚くべきことだ。

午後の部は、教師も一緒に出ていたクラスがあって、10人ほどが聞きに来てくれたが、それにしても心もとない

震災の前から、東北地方というのは、小中学校の学力が高いのに大学進学実績がふるわないという問題があった

医学部合格者も少ないので、医者不足も慢性的になっている

教師が強すぎるのと、生徒が自分で進路を見出すとか、行きたい学校に入るための勉強法を見出そうとかいう発想がないのではないかと私はにらんでいたが、予想があたっている気がしてならない

でも、本来、被災地の人だって、いつまでも人に頼っていられないのだから、自分で立ち向かう力が必要なはずだ

受験から意識改革ができないものか。もしそういうおつもりのところが東北にあるならボランティアでもご協力したいが、たぶん呼ばれないだろう。

その後、シンポジウムまがいのことをやった

灘校の後輩の文部科学副大臣が隣に座っていて、震災後の心のケアについては本気で心配しているし、予算もつけているし、どんな意見でも拝聴したいと言っていたが、一応、トラウマについては、著作もあるし、アメリカでも3年も学んできたし、精神神経学会誌で総説も書いたくらいは勉強しているつもりなのだが、私には何の質問もないし、実質あいさつすらなかった

灘校の実力主義を物語っているのだろうが、後輩にバカにされるような人間にはなりたくないものだとつくづく痛感した