昨日のブログに対して、いろいろな情報をいただいた。

本日の『スッキリ』でも、石原氏のパチンコが電気の無駄というコメントは流れていた。勝谷氏はそれにはコメントをしなかった。このあたりの賢さがないとテレビでレギュラーにはなれない。試験のようなものである。私なら、「実際、韓国では2006年にパチンコをすべて廃止しています」などとうっかり生放送で言ってしまって、翌週から出られなくなっているところだ。物知りの勝谷氏なら当然知っているが、もちろん言わない。この失言は、その番組だけでなく、ほかの番組からも下される可能性があることはよくわかっているのだろう。日本人の財産や命より(パチンコ依存症は日本で200万人、それにまつわる自殺も毎年1000人は出ているだろう)テレビに出ることを優先する人が非常に多いので、パチンコの電力の無駄ですら、テレビでこれまで問題にする人はいなかった。

さて、本日は震災後の心のもちようについての新刊書の企画で編集者との話し合い。

その編集者が、「震災後、飲みにいくにしても食べにいくにしても、何か悪いことをしているような気がするのが不自然なのですが」という質問をくれた。

確かに不自然である。

人の不幸があるのに、自分だけ浮かれていられないというきもちはわからなくはない。

しかしながら、たとえば友達の親なり、兄弟なりが亡くなったとしても、別の友達から結婚式に誘われたら出るだろうし、会社のパーティがあれば、おそらくは出るだろう。それを後ろめたいと感じるか、そうでないと感じるかは、本人の感性なり、あるいはその友達の親御さんや兄弟の方との生前の関係にもよるだろう。

他人の不幸があったときに、それを真剣に弔うのは当然だが、だからといって別の方の慶事を辞退するというのも、その人への失礼にあたる。「親友の親が亡くなったから、お前の結婚式には出れないわ」などといったら、その友達との関係にひびが入りかねない。

実は、その本の中で、被災者のサバイバーズ・ギルトを問題にしようと思っていた。

自分の近しい人が亡くなったのに、自分は生き延びたとか、ましてや自分の目の前で知り合いの人間が亡くなったとかいう場合に、自分が生き延びてしまったことに罪悪感を感じることだ。

なぜ自分のほうが助かったのかと悪く思うこともあれば、自分がしっかりしていれば、あの人を助けられたのにと自分を責めることもある。

それをひきずっていると、自分が幸せになるのは悪いことであるかのように感じてしまう。

妻を亡くしたなどというケースでは、一生再婚しないと誓うこともあるし、現実にそうする人もいる。

こういうサバイバーズ・ギルトを感じる人に対して、精神科医や臨床心理士であれば、「これは自然災害であって、あなたが悪いわけでない。そしてあなたは亡くなった人の分も幸せにならないといけないんだ。少なくとも自分が生き残ったからと言って、幸せになる権利がなくなるはずはない」などと励ますことだろう。

私が見るところ、首都圏の人間、あるいは被災地以外の日本中の人間が、このサバイバーズ・ギルトに陥っているのではないか?

要するに、自分たちは不幸な目に遭わなかった、生き残った、それに引け目や後ろめたさを感じているのでは?

確かに、被災者は不幸である。亡くなった方はもっと不幸かもしれない。

しかし、この手の自然災害の場合、そうならなかった人間が引け目や後ろめたさを感じる必要はない。

こういう時期に結婚式を挙げる予定だった人は堂々と挙げていいし、幸せになる権利もある。

前述の生き残った被災者に投げかけるような言葉を、今、なんとなくしゅんとしている日本全国の人間に投げかけたい。

「少なくとも自分が生き残ったからと言って、幸せになる権利がなくなるはずはない」と。

被災者と関係のないところで、幸せになろうが、笑おうが、それによって被災者を不幸にしたり、被災者になんらかの悪影響を及ぼさない限りは、それを被災者でない人間からとがめられる筋合もない。

それこそがモラルパニックなのである。