受験産業に長らく携わっているせいか、私が精神科の医者をやっているせいか、今回の入試問題の漏えい事件についての取材はかなり多い。

ただ、今回の事件の意外な肝であるのに、意外に問題にされてない、論じられていないポイントがある。

今回は、それを問題にしたい。

この事件の重大なポイントと私が考えたいのは、京大ではじめてわかったわけだが、早稲田や立教でも同じようなことがあったのに、大学当局がまったく気づいていなかった点だ。

京大にしても、大学が気づいたのではなく、親切に教えてくれる人がいたという話である。

そのいっぽうで、京大の受験生にカンニングし放題とか、監視がほとんどないなどと書き込まれている。

おそらく大学入試の現場では、まじめに監督をしない試験官がごろごろしていることだろう。

彼らにとっては、多少の手当てが出るかもしれないが、大事な研究の時間を邪魔される「デューティ」に過ぎないのである。

実際、ひどい教授などでは、大学の試験官だというのに、本をもってきて読んでいる人までいるらしい。

学生が必死で勉強してきているというのに、大学の教授側は、ぜんぜん、真剣にその試験のことを考えていない。入試問題を必死で作る教授はたまにいるが、基本的にどんな生徒をとるかという真剣な儀式であるのに、受け入れる側の教授たちは真剣にその試験をやろうとしていないのである。

実際、私立の大学のほとんどで、経済学部の入試だというのに数学が課されていない。

あるいは、考える問題、記述をさせる問題を出したほうが、生徒の個性もわかるし、考える力もつくのに全問マークシートなどという大学はざらにある。

それは、入試に数学を課すと受験生が減るし、マークシート以外の問題だと、採点に手間がかかるから膨大な数の受験生を受け入れられないからである。

要するに入ってくる生徒の質よりも、入試で金もうけをすることを考えているのである。

この体質が改まらない限り、多少チェックを厳しくしたところで、別の形の不正はいくらでも起こるだろう。

今回の一件で一発入試への批判もあるようだが、これを機に、そうでなくても多い、推薦やAOが増えると余計に大学生の学力崩壊が進む。

それよりは、大学というのは、研究の場である以上に教える場だということを自覚すべきだ。

研究の場と思うから、入試が面倒なデューティとしか思えないし、どんな生徒が入ってくるかに関心がもてないのだろう。

教える場と思えば、もう少し入ってくる生徒に関心がもてるはずだ。

大学側も、犯人探しも大事だが、わが身をもう少し糺す気になってほしい。