日本人が二人ノーベル化学賞をとったとのことでしばらくぶりに明るいムードになっている。

日本人はノーベル賞がとれない国として揶揄され続けてきたが、もうすぐ20というレベルで、近々、ロシア(+旧ソ連)やスイスを抜かすことだろう。すると、主催国のスウェーデンを除くと、日本より上の国は、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスという旧主要国だけになり、そんなに諸外国と遜色のない状況と言えるようになるはずだ。実際、この10年というレンジで見ると、アメリカ以外の国にはほとんど負けていない。もちろん、ヨーロッパとアメリカを除くと日本はダントツとさえ言える。以前から、あるいは今でもこの受賞に人種差別が言われていることを考えると相当日本は健闘している。

ただ、日本の特色は、物理と化学だけがやたらに強く、文系の賞や医学生理学賞が弱いという点はある。

文系の賞は語学が弱いという点はあるのだろうが、日本の経済学者を見る限り、古い理論(ほとんどの理論が心理を無視していたり、情報の非対称性を無視したりした非現実的なものばかりが)ばかり振り回して、まったく使えない経済提言ばかりをしている。その結果がこの体たらくだ。

医学生理学については、日本の医局システムからはいい研究が出るわけがない(これはときどき触れたはずだ)。

さて、そういう点では、日本の科学技術も捨てたものではないのだが、このノーベル賞の受賞に関して、マスコミや二流文化人が曲解して、日本の学力低下に寄与してきたのも事実だ。

かつて東大がぜんぜん取れずに、京大卒ばかり取っていたころから、東大に入るような奴はダメというわけのわからないロジックが通っていた。トップクラスの秀才はダメで、二番手ならいいという意味なのか、基本的に意味不明な話だったが、旧制高校時代や帝国大学時代は、東大と京大の難易度にそんなに差がなかったし、共通一次の導入くらいまでは大差はないといっていい状態だった。少なくとも京大の秀才のほうが、東大に下のほうで入る人より受験勉強はできただろう。

それでもし差がつくなら、むしろ受験生時代の能力より、大学に入ってからの教育のほうが大きな影響を与えているはずだ。それなのに、東大に入ってからの教育は批判されず、マスコミも役人も便利な肩書きだから、東大教授は重用した。そして、東大に入るようなガツガツした人間はダメで、京大に入るような人間のほうが創造性があるとされた。

その後、しばらく日本人がノーベル賞が出ない時期には、詰め込み教育、受験教育が諸悪の根源にされた。実際、ノーベル賞をとったエザキというオッサンは、研究の実績でノーベル賞をもらい、研究の実績はろくにないのに、教育国民会議の議長として、詰め込み教育が創造性を奪うといって、ゆとり教育の旗振りをやった。彼が学長をやった筑波大学、芝浦工業大学、横浜薬科大学の教育の評価は誰に聞いても高いものではない。

今でも東大卒以外の人間がノーベル賞をとると、日本の受験教育が悪いとか、偏差値の序列があてにならないといわんばかりの論調がはびこる。

しかし、実際にはいまだに私立大学を出てノーベル賞を取った人はいない。また、日本人や日系人で、アメリカで教育を受けてノーベル賞をとった人もいない。

要するに、通常の受験教育のほうが能力を開花させる可能性が強いとさえいえるのだ。
(というか、その勉強をせずにノーベル賞をとった人は一人もいない)

もちろん、大学に入ってからの教育はアメリカのほうがよいのか、アメリカで研究した結果ノーベル賞をとった人が多いのは事実だが。

いずれにせよ、こんなに学歴や受験勉強の価値が低く見られている国は日本しかない。

一つには、日本のマスコミが文系に握られているということがあるだろう。

情緒でしかものを考えられない人間に教育や世論を握られたら結果は見えている。

日本という国は、理系の技術は今でも世界一、二を争い、理系の技術で外貨を稼ぐが、文系の社長と政治家が金を無駄遣いし、マスコミもその金に振り回される。

さらに文系の社長は、株主と自分たちの金は増やすが、理系の技術者の給料は値切る。

こんな理系冷遇社会に将来はあるのかとは思うが、ノーベル賞の時期だけ、理系がもてはやされ、また勉強ができる人間に子供が憧れをもつ。

年に一度か、二年に一度の結果がよい愛国の日といえるかもしれないが、それを外国人にやってもらわないといけないところが日本の情けなさである。