本日は、突然PCが字を打てなくなった。またVistaのトラブルかと思って再起動するが、今度はパスワードも打てない。

どうしようと思ったが冷静に考えると、キーボードの電池がきれているのではないかとチェックしてみたらやはりそうだった。二回も再起動するのは、本当にバカだったが、そのくらい私はVistaとVAIOに被害者意識をもっている。これもある意味、これまでのトラブルの多さゆえだ。第一、キーボードを無理にワイヤレスにする意味がどこにあるのかと半ば八つ当たり気味に考えている。

さて、本日は、腹が立つこともあまりないので、前に放っておいた読者のメールに返事をしたい。

そのメール(「個性とは」というタイトルだったので、そのまま使わせてもらう)は高校生によるものだが、要旨としては、自分の行きたい学校を受験するより、推薦入学で入れる別の国立を狙えといわれたことと、その学校が地元では個性的と思われているが髪形や服装が自由なだけだ、個性は先天的なものでなく勉強や経験によって得られるものではないかというのが趣旨だった。

これは、私の知る限り、今時なかなかしっかりした高校生だ。受験名門校の子どもでもそういう子が少なくなっている。

推薦入学と受験で、どちらが個性的か?というのは、最近になって答えがはっきりしてきたようだ。

個性的な子どもを取ろうと思って始めたAO入試などでは、学力が低いが表面を取り繕うのがうまい学生が多く、うそつきを作る入試と言い切る大学教授もいるそうだし、国立大学などでは(私立は生徒の青田買いのためにやっているのでやめないが)、次々とAO入試を廃止している。

一般入試のほうが、性格も、教師に気に入られるかも問わないし、どんな勉強の戦術でも、ある科目が得意で苦手科目が相当点が低くても入れてしまうので、一流とされている大学ほど、逆にいろいろな学生が入ってくる。秀才タイプも、私のような要領だけは天下一品というのもということだ。推薦入試やAO入試は個性的な学生を採るためにやっているが、結果的に教師や大学教授に好かれるタイプの人しか入れない。するとタイプが似通ってしまう。いろいろな人が集まるほうが、自分が自分でいやすい。そういうところのほうが個性が伸ばせるというのは私の信念だ。東大は官僚養成大学といわれるが、新左翼も共産党もたくさんの幹部を出している。

受験勉強は没個性の人間を作るとされているが、内申書や推薦入試のほうがよほど没個性の人間を作るというのが、私が最近になってますます強めた信念だ。

ついでにいうと、服や髪型が個性的で悦にいっているというのも、確かにレベルが低い。むしろ髪型もまとも、服装も制服なのに、とんでもないことを考えているとか、ギターをもったら天下一品のほうがよほど個性的だ。

私は、逆に制約があるほうが、とくに思春期の子どもの個性を作るような気がする。校則が厳しいとか、教師が厳しいとかのほうが反発も生まれる。自由にしておくと、今度は生徒同士で気を使うことになって、かえって個性が出せないのではないか?一人だけ茶髪にするのより、みんなが遊び人風のかっこうをしているのに、自分だけ制服にスポーツ刈りのほうがかえってやりにくいのではないだろうか?高校生くらいのときは、勉強をしていても遊んでいるふりをするものだが、勉強をしていると堂々というのが気恥ずかしいのと同じことだ。がり勉だって個性なのに。

個性は、私も素質や遺伝などではないと思う。いい遺伝子をもっていても、めぐり合わなければ個性は発揮できない。イチローだって野球に出会わなければ、今のイチローはないだろう。いろいろなことを経験し、いろいろなことを勉強して、人生の選択肢を増やすことと、自分が個性を発揮できそうなことに出会うことにもがき続けることで、個性を発揮できる日がきっとくることを信じていると、この読者の方にも、あるいは私のブログの読者の方にも伝えたい。

そのためのヒントになるのが、拙著『人生の軌道修正』だとこの場を借りて宣伝させていただく。