軍用犬について検索していると、「ニンゲンと軍用犬が戦ったらどちらが勝つか?」というステキな話題を見かけます。

日本国内において、正規の訓練を受けた軍所属の犬と戦った人は少ない筈。せいぜい在日米軍や自衛隊関係くらいでしょうか。

経験者がいないので、大抵は「俺だったら○○の技を駆使して圧勝するね!」などという脳内武勇伝ばかりが語られるコトになります。
全くの不毛なお話。日本軍が国産の土佐闘犬ではなく、わざわざドイツ産のシェパードを採用した理由も知らないんでしょうねえ。闘犬と軍犬の区別すらできない者が「軍犬との戦い」を語るとは。

そのように「敵」を知らずして、どうやって勝つというのでありましょうか?

(以上、ここまでが煽りです)

 
犬
 
闘犬は、闘技場で1対1の格闘をするのがルールです。

軍犬に関しても、格闘技オタクは同じイメージを描いているのでしょう。
しかし軍犬とは人間の部隊と連携した警戒システムの一部で、単独で運用される兵器ではありません。。

耳と鼻を駆使して敵を探し出し、ハンドラーへ伝えるのが彼らの役目。後の対処は銃を持った兵士の担当です。

 
そもそも、皆さんがイメージする「軍用犬」とは何でしょうか?
歴史上、軍用犬の種類もたくさんあります。「敵と戦う警戒犬」と「文書を運ぶ伝令犬」と「爆発物を捜す地雷探知犬」と「人命救助にあたる負傷兵捜索犬」は訓練・運用法自体から違いますよね。
こういったことが知られていないのは、報じる側の態度も一因でしょう。
戦時・戦後を問わず、マスメディアが取り上げるのは「敵兵を襲撃する獰猛な警戒犬」の話ばっかり。巧妙な編集によって、本来の支援任務の記録は見事にオミットされてきました。
そのような経緯で、軍犬=闘犬みたいなイメージが定着したのでしょう。
 
歩哨犬5
敵を警戒する歩哨犬。一人一犬のコンビで運用されました。
 
帝國ノ犬達-伝令
部隊間で通信文書を運ぶ伝令犬。発信側と受信側のチーム制で運用されました。
 
犬
負傷兵を救うレスキュー犬。フレンドリーな性格の個体が選抜されました(いずれも日本陸軍歩兵学校による訓練風景)
 
帝國ノ犬達-地雷1
鉄道巡察中の関東軍地雷探知犬。南満州鉄道株式会社の鉄道警戒犬と共に、列車爆破テロを防ぎました。
 
以上を踏まえて、今回は「軍犬との戦い方」の歴史について取り上げます。
軍用動物史も回を追うごとに殺伐としてまいりました。

 

【軍用犬との戦い】
 
「ニンゲンとイヌはどちらが強いか?」とかではなく、軍犬への対処法というのは無いのでしょうか?

どうせ素手では勝てないんだし。

 

戦場で敵警戒犬との遭遇が想定されるのは、火力を前面にした正面作戦ではなく、少人数による潜入や偵察において索敵や追尾を受ける場合です。
その種のゲリラ戦、例えば日本陸軍の挺進部隊や陸上自衛隊のレンジャー部隊の教範でもイヌ対策の項目が確認できます。
しかしその内容は「敵軍用犬との遭遇をいかに陽動・欺瞞・回避するか」を中心としたもの。
カッコイイ秘密兵器や格闘術は登場しません。
 
日本陸軍教育総監部がコマンド作戦用に編纂した『挺進奇襲ノ参考(昭和19年)』には、「所要ニ應ジ携帶スルヲ便トスルモノ」の欄に犬用嗜好劑が記載されています。
……ところでリスト中にある梟感剤って何?夜間視力向上系のビタミン剤か何かでしょうか?
 
潜入及潜行
第二十八
一、踪跡ノ消滅
消滅ハ大ナル作業力ヲ要スルコトアルヲ以テ、部分的ニ消滅スルヲ利トスルコトアリ。潜行ニ方リテハ小樹、樹枝等ハ之ヲ左右ニ押分ケツツ前進シ、進路ノ啓開作業ヲ勉メテ避クルヲ可トス。
跟跡ヲ一時消滅スル爲、某地域ノ通過ニ方リテハ、地形地物ヲ選定シ部隊ヲ散開セシメ、進路ノ前方適宜ノ距離、例ヘバ百米附近ニ於テ集結シ再ビ潜行ヲ續ケ、或ハ之ヲ反復スルヲ可トスルコトアリ。
1、通過セル渡河設備ヲ撤去ス
2、標示を撤去ス
經路機、應用距離計等ノ使用ニ方リテハ、絲ノ撤収者ヲ附スルヲ要ス
3、敵ノ軍犬ニ對シテハ藥物(犬用嗜好劑)ヲ使用シ、或ハ跳越シテ足跡ノ斷絶ヲ圖ル
4、地形、天候、氣象ヲ利用ス
 
教育総監部『挺進奇襲ノ参考(昭和19年)』より
 
……とまあ、日本軍の場合はこの程度。逆に、ローテクの連絡手段として伝令犬の活用が提言されています(携帯無線機が充実していたアメリカ軍では、同時期に伝令犬を廃止していたのですが)。
 
各種目標ニ對スル準備
第七十
1、敵情就中敵ノ前進方向、出發時刻、兵力ノ多寡、警戒ノ状況、戰車、自動車等ノ有無、行軍中ニ於ケル連絡ノ状況、行軍時ニ於ケル特殊ノ習慣、豫想スル休止地點及其ノ状態
2、地形、特ニ森林ノ状況
3、氣象
二、斥候ハ敵ニ接觸ヲ保持シツツ行動シ、逐次判明スル敵情ヲ報告スルヲ要スル。之ガ爲軍犬若クハ最寄ノ樹上通信所等ヲ利用スルヲ得バ有利ナリ。此ノ際特ニ敵ニ發見セラレザルコト緊要ナリ(同上)
 
時代がかわって陸上自衛隊のレンジャー教範になると、イヌ対策の項目も増えました。
 
・「潜入間は、樹間又は敵の伏兵の配置に適した地形に注意し、かつ、斥候・警戒犬・部外の者に対し警戒する(「潜入」偵察及び警戒)」
・「痕跡の隠滅にあたっては、足跡の消去及び欺瞞、表示の撤去、その他排せつ物、たばこの吸いがら、飲食物の残りかす等の処置を適切にし、敵・部外の者・警戒犬等に対して兆候を残さないように留意する(「潜入」秘匿及び欺瞞)」
・「警戒犬の処置は、通常困難であって潜入開始前にあらかじめこれを捕獲するか、殺害することができれば有利である。警戒犬に発見されたときは、地隙の跳越、水流の徒渉等により足跡を断絶するか、あるいは風下に向かい、かつ、体臭を離散できるような乾燥した高地上に退避する等の方法によりつとめてその追跡を防止する(「潜入」敵の監視装置等に対する処置)」
・「村落等の偵察にあたっては、敵の有無・部外の者の動向、村落等の状態特に犬の存在に着意する(「潜入」特殊な気象・地形に応ずる潜入上の考慮)」
・「敵の警戒処置については、次の事項を明らかにする。(1)警戒部隊の位置・兵力・編組・警戒要領特に警戒犬の有無(「襲撃」情報資料の収集)」
・「レーダの陣地又は基地の偵察にあたっては、個々の目標の位置及びその状態、敵の警戒の状況特に警戒装置、警戒犬の有無等を事前に偵知することが必要である(「襲撃」レーダの陣地又は基地)」
 
以上のように、日本軍・自衛隊のイヌ対策とも地道な回避行動が中心です。
そもそも「監視のための装置が設けられていると判断される地域は、つとめて迂回するように経路を選定し、かつ、地形・地物を利用して静粛前進の要領により通過する(陸上自衛隊の挺進教範より)」というのが基本方針。
「静粛前進中」に犬との格闘で大騒ぎしたら、全てがぶち壊しでしょう。


帝國ノ犬達-歩哨犬2
赤シャツの狼藉者からご主人を救わんと、猛然と駆けつける航空自衛隊警備犬

この辺すら理解されていないようなので、「そもそも近代戦における軍用犬の役割」というお話から。
軍犬の主力は牧羊犬や猟犬といった使役犬種で、闘犬種はあまり使われません。ジャーマン・シェパード・ドッグ(直訳すると「ドイツの羊飼いの犬」)からして、名前どおりの牧羊犬ですし。
軍隊がわざわざ犬を配備する理由は、彼らにしか出来ない任務をさせるため。つまり、ズバ抜けた聴覚と嗅覚と脚力を活かした捜索・警戒・近接防御・運搬・負傷兵救助・通信の支援です。
 

性格面でも、兵士への忠誠心と親和性が重視されます。主人の軍犬兵が負傷して戦線を離脱した場合も、交代したハンドラーとすぐに馴染めるフレンドリーな犬が必要でした。高い勤務意欲で、さまざまな任務をこなせる汎用性も要求されます。
警戒能力はともかく、「ケンカに強い」とかいう部分は重視されないのです。
以上のような理由で闘犬種は排除され、親和性が高く多様な任務に対応できる使役犬種が近代戦の主役となりました。

爆発物探知には、スパニエルやビーグルが使われたりもします。彼らのような小型軍用犬になら勝てるかもしれませんね(何の自慢にもなりませんけど)。

軍犬には敵を咬み倒す必要すらなく、不審者の近接侵入を察知し、その痕跡を嗅ぎ出し、足跡を追って逃走を阻止し、銃で武装した兵士が駆け付けるまで行動を妨害すれば充分。
格闘技オタクが軍犬にどんな幻想を抱いているかは知りませんが、軍事上における彼らはあくまで兵士のサポート役でした。

 

帝國ノ犬達-襲撃訓練3

陸軍歩兵学校教範より、ご主人と共に敵を制圧する訓練(昭和10年)


敵軍犬の存在を想定するなら、格闘術を磨くよりハッシュパピーのような消音武器を使えばよいだけ。
銃を使えない状況で、敵軍犬の追跡を逃れるために足音や体臭を消し、餌で誘惑し、刺激物で攪乱し、毒物やブービートラップを仕掛け、それでもダメならナイフや石や棍棒で破れかぶれの肉弾戦、というのが「軍犬との格闘戦」です。
たとえ肉を斬らせて骨を断つ方式で犬をどうにかしても、その騒動の間に警戒態勢を整えた敵のパトロール部隊が現場到着。
第2ラウンドは絶望的な状況からスタートする訳です。
 

【軍用犬への攻撃と軍用犬からの防御】
 
以上は私の妄想ではなく、日本軍の記録をもとに書いています。
旧軍において、敵ゲリラへの軍用犬による対処法、そして敵軍用犬への対抗策は熱心に研究されていました。

「敵ゲリラへの軍犬による対処」では、前述のとおり敵の近接潜入、破壊工作、逃亡の阻止、秘匿武器の捜索に犬が用いられました。潜伏するゲリラを犬が捜し出し、兵士が銃で制圧するのが原則です(関東軍は軍犬の集団突撃による残敵掃討法も研究していましたが、実戦で運用された形跡はありません)。
ゲリラ側も「俺の中国武術で日帝の犬を倒してやる」などと考える筈がなく、潜伏拠点へ突入してきた日本軍犬には銃で抵抗しました。その結果、双方に犠牲が続出しています。

いっぽう、「敵軍用犬への防御策」が編み出されたのは、ソ連国境警備犬の存在があったからです。

昭和13年の張鼓峰事件でソ連軍歩哨犬に夜襲を察知された苦い経験。そして、満ソ国境で偵察・浸透工作を展開していた関東軍守備隊にとって、敵軍用犬への対策は喫緊の課題でした。
国境守備隊からの悲痛な訴えは、下記のレポートに纏められています。

 

 
ソ軍が國境の警備に軍犬を使用しあることは從來各方面よりの諸情報に依り之れを認識する所なりしも、國境守備隊の編成以來其の國境監視隊、國境偵察班、監視哨下士哨巡察等に於てソ軍軍犬を目撃し、情報偵察監視等の障碍物の一つたることを体験するに至りて、より最早現地將兵の間に軍犬の必要なるを認識せざるものなし。

又ソ兵逃亡者の言に依り國境線脱走上警戒犬は最大なる障碍たることを異口同音に聴取しあり。尚特務機關憲兵隊、又國境部隊の使用する密偵の總ては悲鳴を擧げて曰く「犬のために國境線の突破不可能なり。まご〃して居れば必ず警戒兵に捕獲せらる」となし、咆哮せらるるや直ちに逃げ歸るを常とす。

密山特務機關長の談に依れば「密偵の使用上犬の威力に関しては全く處置なしである。犬には負けた。之れからは密偵の使用は警備小哨ザスターワの配置粗なる興凱湖以東の地域を撰ぶが又は山上の監視哨の無き所を通過するか、監視哨間の間隙巡察通過後の隙を窺ひ突破するの外なし」となし、犬を全く嫌遠しあることは事實なり。

倉茂部隊長の如きは敵軍犬誘惑法に関する積極的研究に着手し、虎頭憲兵分隊長は憲兵の勤務に軍犬を必要とすべき意見を上司に上申すべく企圖せられあり。

 

関東軍軍犬育成所『第四 教育實施成績 其ノ一 軍犬ノ必要性ニ對スル一般ノ認識』より抜粋

 

後年のレポートでも同様の問題が提起されているので、関東軍上層部は対策してくれなかったのでしょう。

軍犬の運用思想については、ソ連のほうがはるかに上手でした。


……書き忘れましたけど、そんなにヒトとイヌの格闘戦に興味があるなら、日本軍の事例よりも満州国税務部の記録を調べる方が役立ちますよ。
当たり前ですが、近代軍隊は闘犬ではなく鉄砲を武器に戦います。火力で戦う軍隊の、犬による格闘事例はごく僅か。
いっぽう、逮捕制圧を手段とする満州国税関では、銃ではなく警備犬を使って密輸を取締っていました。そのため、『税關監視犬月報』には密輸業者と税関犬との格闘記録が大量に掲載されているのです。
 

鴨緑江(満朝国境)を渡ってくる密輸業者に対し、税官吏は警備犬と共に迎撃。闇夜の中を猛スピードで突進してくる警備犬と、逃走を図る密輸団の戦いが連日のように演じられました。

素手では犬に勝てず、重い密輸品を担いで走っても追いつかれ、棍棒や投石での抵抗・ライトによる目晦まし・ボディガードが犬を引きつけている間に密輸隊が逃走するというトカゲの尻尾切り戦法、自転車による全力疾走税関突破作戦などなど、満州国税務部に記録されているのは多様なヒトvs.イヌの肉弾戦。
 

不思議なことに、密輸団から袋叩きにされた税官吏が威嚇発砲した以外、双方が銃やナイフで闘った記録はありません。殺傷沙汰へ至らないのは、密輸側と取締側に暗黙のルールでもあったのでしょうか?。
 
犬
『税關監視犬月報』より、康徳3年5月度の実績(昭和10年)
 
関東軍上層部に無視された以上、現場が工夫するしかありません。それらの一環として研究された対軍用犬戦術を紹介します。
ただし決して真似はしないでくださいね。また、極めて不快な内容も含まれますのでご注意ください。


日本陸軍が研究していた敵軍犬への対処法としては、幾つかに大別できます。
主だったものとしては
・追跡をかわす為の臭気攪乱法
・追跡をかわす為の誘惑手段
・敵軍犬の殺傷手段

の三つでした。
関東軍による解説は下記のとおり。
 
ソビエート聯邦は、滿洲事變勃發以來、極東に非常な兵力を増して來ました。我軍もこれに對應して國境警備を強化して來てゐます。

軍用犬も、ソ聯の國境線に澤山配備され、それも三頭も四頭も一緒に使つてゐる豊富さです。そして所々に軍犬の學校といふか、訓練所といふか、それを持つてゐます。

犬種は此方から望遠鏡でみたところによると、はつきりしたことは分りませんが、大體シエパードが一番多いやうです。また毛のムクムクした犬、グレートデン、ポインター、セツターの雑種のやうな赤茶斑のものもゐます。

向ふの民衆に配つたビラが手に入つて、それを讀んでみますと、その文中に「國境には軍犬が警備してゐるから安心しろ」と書いてありました。これを見ても如何に軍犬を彼等が重要視してゐるかが分ります。張鼓峰の夜襲で、我が軍が軍犬に發見されたこともありました。

敵の軍犬に對しては、こちらもいろ〃研究してゐます。或は藥品を塗つて足跡の分らぬやうにするとか、ガスピストルを携帶するとか、發情犬で誘惑する等のことを考へてゐますが、未だ研究中で、一般篤志家の研究も大に期待してゐます。

 

關東軍軍犬育成所長 高浪金治『滿ソ國境と軍犬(昭和14年)』 より

 

まずは臭気攪乱剤の記録から。


【對犬材(対軍犬用臭気攪乱剤)】

 

對犬材とは、敵軍用犬に対処するための臭気攪乱剤のこと。
日本軍の對犬材としては、消臭剤、誘惑剤、忌避剤、麻痺剤などが開発されていました。

ソ連へ潜入する工作員が国境警備犬によって阻止されるケースが相次いだ為、関東軍では昭和12年に足跡の臭気を紛らす消臭剤をテスト。
昭和14年には登戸研究所へ要請し、牝犬のフェロモンやミミズの成分を使った誘惑剤(エ號剤)や経口麻痺剤を開発しました。
まずは、関東軍が研究していた消臭剤について取り上げます。

軍犬の嗅覺力防避法に就て
野砲兵第二十二聯隊 陸軍獣醫少佐 立原一六

緒言
先年白系露人の一族八名は新興滿洲國に安住の地を求めんとし、密かに蘇滿國境通過を試みたるもG・P・U(※ソ連国家政治保安部・KGBの前身)の軍犬追及に屢々防害せられ、目的を達し得ず。
遂に窮餘の結果一種の植物の樹葉を使用し、巧に人體臭を暗まし、完全に通過し得たりと謂ふ情報を聴取せり。
余は朝鮮に在職中なりしを以て該情報を深刻に調査研究し、前記植物を取寄せ植物學的研究を行ふと共に、朝鮮陸軍倉庫化學實驗室に樹葉の分析を依頼し、一種の精製油を得、更に樹葉と精製油との軍犬に對する使用實驗を行ひ、以て防避の効果を確めたるを以て以下参考の爲、其の概要を記述せん。

一、蘇領内に行はるゝ獸類嗅覺簡易防避法
蘇領沿海州地方にありては狩獵者の足跡臭を獸類に發覺せられ易きを以て、此足跡並に人體臭を簡易に防避せんが爲、往時より一種の常緑樹ピーフタの葉を使用し、目的を達しつゝありといふ。

二、蘇滿國境脱避に應用せるピーフタの効果
蘇滿國境に於ける蘇聯國の警戒にG・P・U(警戒兵)の配置網眼の如く、各屯所には訓練せる多數の軍犬を配置し、巡邏に當りては多數の軍犬を携行するを常とす。従つて之を密かに脱避越境せんとせば容易の業に非ざるなり。
先年サマルカ半島(蘇領沿海州家にして樺太南端西岸付近居住)白系露人一家族八名は當時蘇聯官憲の圧迫に堪へ兼ね、新興滿洲國に安住の地を求めんが爲、浦塩付近に至り滿領内に逃れんとせるも、GPUの警戒厳重にして許さず。
茲に於て窮余の一策として豫て獵師の慣用しありと云ふピーフタの葉を背中脇下に入れ温め、以て一種の香氣を發散せしめ、身體殊に足及其所持品等を拭掃し、 固有の人體臭を暗まし、途中屡々軍犬の追跡に遭遇せるも遂に追及發覺を免れ、國境線山中數ケ所に露営の上數日にして完全に越境し、滿領内東興鎮(土門子東 方約四百粁)憲兵分駐所に届出たり。
而して該露人の言によれば前記要領によるピーフタの一回拭掃に依る防嗅有効時間は約三十分にして、時間の経過に伴ひ拭掃を反復するを要すと謂ふ。

ピーフタ


亡命経路圖。

三、ピーフタの植物學的調査
1.日本名 たうーらべ
2.蘇聯國 пихта
3.朝鮮 ブンピ
4.滿洲國 杉松(サンスーン)
5.學名 Abies nephrolepis Max
ピーフタはモミ属 Abies の一種にして葉軟かく香氣を有し臭松と称せらるゝ常緑樹なり。

四、ピーフタの分布區域
本種は亜細亜特有のものにして滿鮮國境、特に長白山系に多く、支那は陜西省より滿洲國を経て北はアムウル地方に及び、西比利亞に入り變種シベリアシラベとなり、其量甚だ多し。シベリアシラベはタウシラベに比し其形態上大差なし。
而してピーフタは朝鮮樅、エゾマツ等の針葉樹其他濶葉樹と混生し發育す。朝鮮金剛山に於ては直径七五糎に達するものあり。
幼時の成長は甚だ遅緩にして、天然には一三年にして長さ六○糎、根元径一五糎に過ぎざるも、二○年頃より成長速かとなり毎年三○糎の上長成長をなす。直径六○糎の大きさに達するには二百年を要す。

五、ピーフタの分析分成績
ピーフタの成分を知らんが爲、露滿國境土門子付近より材料を取寄せ、朝鮮陸軍倉庫理化學試驗室に依頼し、左記分析の概要を知悉し得たり。

ピーフタの分析試驗成績
1.供試材料の試驗方法
一般植物分析法に從ひ水蒸気蒸留に付し、精油を抽出採集せり。
2.最終精油の性状
淡黄色希薄の液にして特異の芳香を有し、竄透性揮發性にして、味辛辣、反應中性、比重○・九水に不溶解、沸點約一六○度など。
3.精油の成分
炭化水素たるピネン(C10 H16)を主成分とす。
4.含量
枝葉の本油含量は簡單なる操作によりて約二%の精油を採集することを得たるを以て、總含量は少くも三―四%と推定す。
5.判定
松杉樅等に含有せらるゝ揮發油たるテレビン油 Oleum Terebin thinae の類似品のものと認む。而してテレビン油は原料たる樹種により成分に差あり、之等を精製したるものは即ち局法テレビン油なり。
ピーフタより蒸留して採れる精製揮發油はピーフタ特有の臭氣(テレビン油よりも若干芳香あり不快ならず)あり。ビーフタ油と命名して可然ものと認む。
即ちピーフタ油も亦一種の粗製テレビン油と見做すべきものなり。

六、軍犬に對するピーフタの實驗成績

対犬材
付圖第三

(1)ピーフタ葉を使用せる實驗
付圖第三に示す如く、A點を原點とし、B點へ足跡を付け、シエパード犬種(三歳基本訓練終了應用訓練中)をして足跡を追及せしむれば、容易にB點に達せり。
然るに前者より異なる助手をしてA點付近C點に足跡を付け、更にD點よりE點迄の足跡を付く。
而してD點に於て靴底及靴下間にピーフタ葉を擦り込み十分體臭を暗くし以てC點より其足跡を追及せしむ。
然る時は該犬はC點より一○○米突先D點に急進せり。而してD點に於て頻りに地面を嗅ぎ、躊躇の後迂回し爾後所々に於て常歩をなし、臭跡を失ひ概ねAB間の三倍時間を要し、辛ふじてE點に達し得たり。
即ち本ピーフタ葉は蘇滿國境に於て採取後約八日間を経過し香氣稍減退せるものに犬の追跡を著しく困難ならしめたものなりと認めたり。

対犬材2
付圖第四

(2)ピーフタ油を試用せる實驗
付圖第四に示す如く、A點よりB點へ足跡を作り、B點に於てピーフタ油一○ccを靴下麺及靴下及被服外面へ散布し、C點に至る。
而して前回試用のシエパード犬をして臭氣線を辿らしめたるに、B點以後足跡を嗅出し得ず。
小丘地反對側を通過し遂に進路を誤れり。尚、同様の實驗を追試せるに略同成績を得たり。

対犬材3
付圖第五

(3)ピーフタ油を臭氣線とする實驗
付圖第五に示す如く、AB八○○米間をピーフタ油を靴底靴下身體に散布し、之が足跡を付し、更にB點にピーフタ油を散布せる手袋を匿し、前記犬をしてA點に立戻れり。
尚此手袋は屡々口より落し長く噛むを好まざる如し。
依是観之ピーフタ油は犬の嫌忌臭なる如く推測す。

(4)テレビン油を使用せる實驗
ピーフタ油とテレビン油と比較研究の爲、前記同様テレビン油を臭氣線とする實驗を試みたるに、ピーフタ油の場合と略同成績を得たるも、テレビン油の足跡追及には著しく時間を要せると屡々該油の刺激による噴嚏を發し、該油を嫌忌するが如し。

七、ピーフタの實用的價値
(1)敵軍犬の追跡を豫防する爲ピーフタを利用する方法は實用的價値あるものと認む。蘇滿國境の如きピーフタ森林中の行動に於ては特に樹葉を利用すべき機會多きを以て其價値大なるべし。
(2)葉は體温により暖むるを適度となし、數回の使用に堪ゆ。然れども其有効時間は概ね三十分内外なるを以て、交換するを要す。又葉は極度に温度を加ふれば香氣の發散大にして再度の使用に堪えず。
(3)ピーフタ油は葉よりも効果大にして該油は暖むるの必要なく、且アンプール入とさば随時適宜の使用するを得るを以て第一線部隊に携行せば便利なるべし。
(4)ピーフタの効果は速効的にして持久的効果なし。故に敵犬追跡の危険あらば大量を使用するとともに速かに犬より離脱するを要す。又永く一地に停止し或は敵犬と近距離の場合は反復之を使用するも安全ならず。之人體臭はピーフタを以て完全に消滅し得ざるによればなり。止むを得ず敵犬と稍長く接近する場合はピーフタ油を携行し、二○―三○分毎に反復使用に努むるの外なし。
(5)ピーフタは一の臭氣線として犬の追跡目標となし得るものとす。敵も亦ピーフタを利し我軍犬より防避せんとするならん。
斯くの如き場合を考慮せらるゝに至りては最早我れのピーフタ利用は却て危険に立至るを思考する所以なり。

八、所見
(1)軍犬に發見又は追及せらるゝを防避せんが爲に、ピーフタ類以外人體臭を長く又は完全に消滅せしむべき薬物又は調剤による試驗研究を必要と思考す。
(2)犬の嗅神経を麻痺せしむべき薬物又は調剤の研究を必要とす。足跡に對し犬の嗅覚麻痺薬を或一定距離に点滴し置かば、嗅神経麻痺の爲足跡の判定を失はすことを得べし。
(3)犬の嫌忌すべき薬物又は調剤の研究を必要とす。
足跡に對し犬の著しく嫌忌すべき薬物調合により發見追及を防避するの工夫研究を必要とす。殊に嫌忌薬をアンプール入となさば、第一線部隊に於ては其携行を便とせらるゝならん。
(4)犬の嗜好すべき香臭により足跡を誤導せしむべき芳香臭や薬物調合又は發情中の牝犬尿等により、人體又は足跡を他へ誤導せしむる如く創意工夫の研究を必要と思考す。

結論
將來戰場に於ける軍用犬の利用は益々増加せらるゝを以て、平素に於て足跡又は人工臭氣に依る訓練と共に此種嗅跡防避策の演練を必要なりと思考す。

昭和12年

 
結局のところ、この消臭剤はあまり役に立たなかったとか。
また、記事中に出てくる誘惑剤・忌避剤・麻痺剤などは、2年後に登戸研究所へ開発を要請しています。
 
ソ連側の国境警備は厳戒をきわめていた。住民は住居証明書を必携とし、国境都市や指定地域への出入りには、特別許可書が必要とされ、防諜措置は完璧であった。
一方、満州国側の諜報機構は立ち遅れていて、ほとんど無策の状態であったといえる。
その結果、朝鮮、満洲人、白系ロシア人諜者を投入しても、その成果は全く期待できなかった。敵の要地、要所を隠密裡に偵察したり、要衝に固定諜者を潜在させることも、まったく不可能になった。
諜者が国境を突破すると、直ちに敵の監視兵、斥候に發見されたり射殺され捕らえられて逆用されることもあった。
ソ連監視兵の多くは、よく訓練された軍用犬を連れていて、その鋭い嗅覚で追跡された。
敵軍用犬の追跡からいかにして逃れるか。
現地機関の要望事項の最重点としてこれがあげられた。昭和十四年末、参謀本部を通じ正式に関東軍司令部からの要請があり、「軍用犬の追跡防止と潜入行動資材に関する研究」が登戸研究所に命ぜられた。
登戸研究所では、潜入行動資材の研究として
一、軍用犬追跡防避剤「エ」号剤(発情剤)の合成研究
二、警戒犬突破方法の研究
1.各種軍用犬殺傷器材の研究
2.経口発情剤の研究
3.口内麻痺剤の研究
の研究を実施した。
班長の村上少佐は、合成剤「エ」号剤を試作し、ソ連国境でテストした。
工作員(諜者)の足跡の要所要所に「エ」号剤をまいておくと、追ってきた捜索犬は、そこでからだを地上にすりつけて耽溺してしまい、追跡を忘れてしまうという方法である。
経口発情剤や口内麻痺剤は、犬の口の中にどのように入れることができるかが重大問題であった。よく訓練された軍用犬は、捜索中は地上に落ちている食物を絶対に拾って食べないこともわかった。
登戸研究所は軍用犬追跡防避の「エ」号剤の成功例を映画化し、陸軍省、参謀本部、現地の参謀部員に見せた。

伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実(2010年)』より
 
他に研究されていた対処法には、下記のようなものがあります。
イロイロと試行錯誤していますね。
 
敵犬ニ關スル方法手段ノ研究 
関東軍軍犬育成所(昭和16年)


【獸肉投與ニ關スル研究】
判決又ハ所見
拒食訓練ヲ終リタル犬ハ肉ヲ投與スルモ之ニ誘惑セラルゝコトナク攻撃ヲ敢行スルモ、未訓練犬ハ之ニ誘惑セラルゝモノアリ。

【發情犬使用ニ關スル研究】
判決又ハ所見
發情犬ヲ連行シアラバ、敵犬ノ攻撃ヲ受ケルモ危害ヲ受クルコトナキノミナラズ、敵犬ヲ殺傷シ得。

【酪酸仕様ニ關スル研究】
判決又ハ所見
酪酸ヲ身体ニ塗布シアリテモ攻撃ヲ受リ。

【密偵ノ姿勢態度ノ異變ニ關スル研究】
判決又ハ所見
攻撃ヲ受ケタル場合、地ニ伏シ顔ヲ掩ヒアラバ、敵犬ノ攻撃力稍々衰フ。

【夜間懐中電燈使用ニ關スル研究】
判決又ハ所見
攻撃シ來タル犬ニ対シ照射セバ、概シテ有効ナリ
※このフラッシュライト照射法は、満朝国境の密輸業者が税関犬に対して多用しています。

【敵犬ト格闘刺突ニ關スル研究】
判決又ハ所見
僅少ノ危険ヲ顧ミズ、沈着ニテ勇敢ニ刺突セバ有効ナリ。

【敵犬蹴踢ニ關スル研究】
判決又ハ所見
防護衣ヲ使用セザル時ハ稍々困難ナリ。

【生兎携行ニ關スル研究】
判決又ハ所見
訓練良好ニシテ興奮ノ度高キ犬ハ兎ニ誘惑セラルゝコトナク襲撃スルモ、然ラザルモノハ兎ヲ追及ス。

【含毒肉(ストリキニーネ〇〇瓦)投與ニ關スル研究】
判決又ハ所見
二頭共ニ之ヲ採食シタルモ、致死時間ハ一頭七分、一頭ハ十三分ヲ要セリ。而シテ採食直後ニ於テハ攻撃力衰ヘズ。

【唐芥子粉使用ニ關スル研究】
判決又ハ所見
攻撃犬ニ唐芥子粉ヲ投射スルモ、之ニ屈セズ攻撃ス。

【血粉ヲ使用シテ迷路ヲ作リ、他方ヨリ遁走シ、追及ノ可否ヲ研究ス】
判決又ハ所見
追及防止ノ手段トシテ有効ナリ。但シ、捜索優秀ナル犬ハ稀ニ追及スルコトアリ。

【好餌ヲ與ヘ襲撃防止ノ可否ノ研究】
判決又ハ所見
一、拒食訓練不完全ナル犬二對シテハ有効ナリ。
二、拒食訓練シアル犬ト雖モ、攻撃ヲ稍々鈍ラシムルコトヲ得。
三、棒ヲ所持スル時ハ、殴打ヲ慮シ稍恐怖スル感アリ。本方法概シテ有効ナリ。

【攻撃ノ際強力ナ光ヲ放射シテ攻撃防止ノ研究(マグネシューム使用)】
判決又ハ所見
本方法ハ有効ナリ。

【敵犬攻撃ノ際、瓦斯ピストルヲ發射シ襲撃防止ノ研究】
判決又ハ所見
犬發射ヲ受ケ眼及鼻口ヲ侵害サレ前肢ヲ以テ該液ヲ除カントシテ苦悶シ、六七分ハ攻撃力ナシ。
十分内外ニテ平常ニ服ス。全犬ニテ有効ナリ。

【臭跡路上ニ危険物(口発破)ヲ放置シ之ヲ採食セシメ襲撃ヲ防止ス】
判決又ハ所見
本方法ハ最モ有効ナリ。
敵線外ニ使用シテ價値大ナルモノト認ム。

【臭跡路上ニ捕獸器ヲ布設シ敵犬捕獲ノ研究】
判決又ハ所見
本方法ハ有効ナリ。

【敵軍犬ノ巡察中、發情臭ニ依ル誘惑可否ノ研究】
判決又ハ所見
紐無シ連行中、發情犬ノ臭跡ヲ追及スルモ、服従心富ナル軍犬ハ遠隔ニテ放漫ナル行動ヲ行ハズ。
且ツ直チニ招呼ニ應ズルヲ通常トス。

以上。
 

 
帝國ノ犬達-襲撃訓練1
歩兵学校教範より、守衛犬の訓練(昭和5年)
 
これらピーフタ消臭剤やエ号剤などが、ソ連国境警備隊や米軍との戦いでどのように使われたのか。GPU(ソ連国家政治局・KGBの前身)国境警備総局が大量配備していた警備犬から、日本側の工作員はこれらの方法で逃れることができたのか。
満ソ国境における諜報作戦は秘密のベールに包まれており、その実態は全くわかりません。
 
陸軍でコレですから、日本海軍に至っては沖縄の地上戦が始まってから「アメリカ軍犬への対抗策はないか」と新宿中村屋の相馬安雄社長(日本シェパード犬協会理事)へ相談する始末。
「餌で釣れないか?」などという海軍将校からの呑気な質問に「アメリカ軍の犬は日本兵より美味いものを食ってますよ」と回答した相馬さんは、この期に及んで陸軍へ教えを乞おうとしない海軍の頑迷さに唖然とした、と記しています。
 
結局、我が国では「軍用犬との戦い方」など確立されませんでした。冒頭で「脳内妄想」と断じたのは、以上のような歴史があるからです。
まあ、妄想するのは自由なんですけどね。