「陸軍の今度の軍犬購買も、後は輸送と書類整理のみで、大體終了したようだ。東京の購買を観て第一に感じた事は、今までの購買―陸軍および満鐵の―に應募した犬と比較して遙かに犬の資質が體型的にも稟性の上からも向上してゐる事であつた。
これは関谷購買官(※関谷昌四郎陸軍獣医)も漏らしてゐられた點であるが、斯かる優秀犬が皇軍の先頭に立つて我が大陸の生命線の守りとして活躍する事と思へばまことに心強いものがある。特にこれは軍用犬飼育者の國家的観念の明確さを物語ると共に優良軍用犬の大衆化、即ち資質水準の向上を裏書きするもので、甚だ嬉しく感じた次第であつた。
唯一つ遺憾であつたのは、或る申込者が、他犬と比較して相當高價であつたにも拘らず、價格の點で長時間かゝつて漸く折合ひ乍ら、後から故障が起きるかも知れない様な不滿な口吻を陰で漏らし乍ら承諾書に印を捺し、購買の手續きを完了して歸つたが、案の定數日経つて支部に断つて來た。
没義的と云ふか、非紳士的と云ふか、茲に小生は「聊か不明朗な話の一つ」として紹介する事を悲しむ者である。只一つ慰められる事は彼が協會の會員でなかつた事である」
L・M生 『東京の軍犬購買審査を見て』より 昭和12年

「軍部に愛犬を強奪された」みたいなイメージと違い、実際の軍犬購買には出陳、審査、価格交渉の過程を経る必要がありました。健康状態(ミクロフィラリアの血中感染状態、狂犬病予防注射の有無など含む)、稟性、訓練レベル、書類上の問題などで失格となるケース以外にも、飼主には売却を考え直すチャンスが与えられていた訳です。
冒頭のとおり、ギスギスした交渉決裂のケースもあった様ですが。

あと、文中に「滿鐵」とあるとおり、犬の出征先は日本陸軍以外に日本海軍、南満州鉄道株式会社、満洲鉄路総局、満州国税関、満洲国軍など様々な警備犬部隊に亘っていました。
みなさん何故か「内地から出征した陸軍の犬」しか見ようとしませんけど。


帝國ノ犬達-軍用犬
帝国軍用犬協会登録犬 ダゴー・フォン・ハウスナンゴヤマ


満州事変から昭和20年にかけて、大陸や南方の戦場へ多くの軍犬が送り出されました。
大部分は敗戦によって戦地へ遺棄され、そのまま消息を絶ちます。15年に亘る戦争の中で、無事に帰国できた軍犬はごく僅か(「帰国した犬は一頭もいない」という話は敗戦時のことです)。

その悲劇を強調する余り、長い年月をかけて研究され、多大な国費を投じて調達され、膨大な労力をかけて管理運用された日本軍犬の実態は忘れ去られました。
軍犬の解説者が垂れ流すのは、先入観をもとにしたアジテーションやポエムや感想文レベルばっかり。1974年に寺田近雄氏が発表した軍犬レポートをコピーするのはマシな部類で、一歩も前進していません。
美化や批判をしたければ、まず実態を調べてからにしてください。

今回は、民間の軍用犬(軍用適種犬の略称)が調達されて軍犬(軍所管犬の略称)となり、退役していくまでの流れを解説します。

【誕生】

日本軍犬の中核は、購買調達した民間のペットで構成されています。

資源母体の民間犬界、運用先の軍隊、両者を結ぶ調達窓口の帝國軍用犬協會の三者によって、日本軍犬は存續し得たのです。


ゆえに、軍用犬の誕生は民間の愛犬家が犬を飼うところから始まります。 自宅の犬が仔を産んだ、知人やブリーダーから譲ってもらう、ペット店から購入するなどその入手ルートはイロイロ。

但し、軍用犬(軍用に適すると規定された品種)はシェパード、ドーベルマン、エアデールのみです。

犬を飼う以上は地域の畜犬取締規則に従わなくてはなりません。軍用犬だからといってソレは同じです。先ずは最寄りの警察署で畜犬登録を済ませ、畜犬税を納め(脱税すると野犬扱いされます)、しばらくしたら狂犬病豫防注射も受けましょう。

昭和10年になってフヰラリア研究會や北里研究所による犬瘟熱への取り組みも始まりましたが、フヰラリアとジステンパーには未だ効果的な治療法はありません。かかりつけの犬猫病院を確保するとともに、防蚊・榮養・清潔に気を配ってください。

また、せっかちな人はすぐ訓練に取り掛かろうとしますが、幼い頃から强要すると惡影響を與える場合があります。

最初は仔犬を健康に育てる事を最優先にしましょう。


帝國ノ犬達-仔犬

浅田家で生れた仔犬たち


【登録】

生後半年あたりから訓練が可能となります。使役犬として正しい訓練を受けさせるには、軍用犬種を扱う畜犬團體への入會が一番。

むかしは日本シェパード倶楽部(NSC)の一択でしたが、現在は社團法人帝國軍用犬協會(KV)と社團法人日本シェパード犬協會(JSV)へ分裂してしまいました。この2つが全國規模の社團法人となります。

KVは陸軍、JSVは海軍とのパイプを持っていますので、愛犬をどちらへ献納したいかで入會先を決めましょう(JSVはシェパード飼育者のみ入會可)。

滿洲國や朝鮮・臺湾にお住いの方には、KVやJSVの満洲支部、ソウル支部、台湾支部、もしくは青島シェパードドッグ倶楽部(TSC)や社團法人滿洲軍用犬協會(MK)という選択肢があります。

このたびTSCはKVに合併されるとのことで、その辺も見越して判断してください。

安くない年會費を拂ってKVとJSV両方に入會する資産家もいらっしゃいますが、血統書の二重發行問題につながるのでお控え願います。


ご参考までに、KVとJSVの入會届を置いときますね。


帝國ノ犬達-軍犬購買

帝國ノ犬達-軍犬資料

入會の申し込み手續きは最寄りの地域支部宛にどうぞ(各府縣に設置されています)。出來れば犬を購入したブリーダーや知り合いの愛犬家に紹介をご依頼ください。

愛犬の血統書があれば入會手續もスムーズに進みます。

但し、両團體とも諸手續きは無料ではありません。入會費と年會費、愛犬の登録料(血統書發行も有料)等が必要となります。


KVの場合は帝國軍用犬籍簿(KZ)、JSVの場合は日本シェパード犬籍簿(JSZ)にそれぞれ登録のうえ

KV登録のエアデールはAKZ、ドーベルマンはDKZ、シェパードはSKZ、JSV登録犬にはJSZを頭に付けた通し番號が附與されます。

入會の特典は畜犬税の免除、飼糧配給、各種催事・犬の勉強會・座談會などの案内、競技會への参加資格など。地域によって異なりますので、詳しくは各支部に確認してください。


これで、貴方の愛犬も「軍用犬」となりました。

但し、現時点ではリストに登録されただけの「民間飼育の軍用適種犬」に過ぎません。実力を有する在郷軍用犬として認められるには、健康を維持し、身體を鍛え、訓練を重ねて數々の資格を得る必要があります。

登録されたはいいものの、訓練を怠って使い物にならなくなったり、使役犬として活躍する前に健康を害したり、病死したりする犬は少なくないのですから。


詳しくは諸團體の約款を讀んでください。


帝國ノ犬達-KV



帝國ノ犬達-JSV



【訓練】

KVやJSVでは、犬の訓練基準や資格を厳しく定めています。詳しい訓練方法や審査基準が冊子として渡されますので、それを参考に愛犬を訓練していきましょう。

まずは基礎的な訓練から、段々と高度な應用訓練へと移ります。焦らず氣長に自分の手で訓練するのが原則。また、信頼のおける訓練所へ一定期間預ける方法もあります。


帝國ノ犬達-訓練所

 

【審査】

ある程度の訓練が入ったなら、その成果を試して見たくなるのが愛犬家の性。

KVやJSVでは、全國各地の地域支部で品評會や競技會を開催しています。會員なら應募できますので、何度か腕試しをされては如何でしょうか。

見事に入賞すれば氣分がいいですし、入賞犬には交配の申し込みが殺到して思わぬ副収入を得られたりもします。


あと、會員だからといって当日の飛入り参加は認められません。何週間もかけて出陳犬リストを準備してきたスタッフの苦労もお考えてください。

犬の競技に悪影響を与える、喫煙や大聲といったマナー違反も御法度。遠方から参加される方は、犬の輸送方法や宿泊先の確保も大變です(JSVでは犬同伴ホテルの手配といった出陳者への配慮もなされています)。


帝國ノ犬達-競技會

こういう事前通知がありますから、それを見て参加手續きをします。


帝國ノ犬達-競技

訓練競技會へ出場中のKV會員


【資格取得】

幾ら品評會で入賞しようと、それはショウドッグとして評價されたに過ぎません。KVやJSVの目的は、あくまで優れた使役犬の作出。それを明確化するため、両團體では獨逸SVに倣った各種資格取得試験を設けています。

種族訓育試験(Zpr)、防衛犬試験(SchH)が基本で、それらに合格した後は警察犬試験、牧羊犬試験、傳令犬試験、衛生犬試験などの受験資格も與えられます(「帝國軍用犬協會」という名で誤解されていますが、KVは牧羊犬や救助犬や警察犬の勤務も研究しているのですよ)。

あと、入賞に焦るあまり審査員にクレームを付けたり袖の下を渡したりといった行爲は止めましょう。昔の闘犬大會では審査員への暴力沙汰も珍しくありませんでしたが、今日では言語道断です。

獨逸や英國の畜犬競技會では、審査員の判断は絶對的なモノ。それに文句をつけるのは日本人愛犬家の悪い癖だと問題になっています。


帝國ノ犬達-資格


【軍用候補試験】

あらゆる資格の中で最高の難易度なのが、軍用候補犬資格試験です。

この最難關に合格した犬は「即戰力候補の最優秀犬」として登録番號末尾に★マークが附與され、他の登録犬とは犬籍簿上でも別格扱い。

但し、これはあくまで「ペットの資格取得試験」であって、日本軍へ入營する譯ではありません。


帝國ノ犬達-審査


最難關を突破した優秀犬には、このような證明書が發行されます。

帝國ノ犬達-軍用犬資料


【軍犬の調達】

日本陸海軍は、これら民間の軍用適種犬から軍犬を調達していました。軍による犬の調達には、購買、寄贈、蕃殖の道があります。


帝國ノ犬達-審査


【購買の場合】

主たる軍犬調達方法が金銭による購買。各地で軍犬購買會を開催し、そこに出陳された犬を審査し、賣買價格の交渉を経て購入する「購買軍犬」です。

あくまで合意の上での賣買契約であり、冒頭の如く金額が折り合わなかった場合は購買不成立。

ただ、陸軍と仲の惡いJSVについては、會員の登録犬が强制的に徴發されたとの噂もあります。JSVの中島理事などは、「陸軍が徴發に來たら愛犬を殺して僕も死ぬ」などと憤っておりました。


購買價格の参考として、次の問答を引用しておきます。


現今の購買價格は幾何位ですか(北海道 H生)

購買犬の價格はその犬に依つて違ひますが、大體百圓前後と思へば間違ひないと思ひます。勿論種犬として購買されるものは一般に購買されるものとは相當の開きがあります(帝國軍用犬協會)。

昭和15年


帝國ノ犬達-購買


【寄贈の場合】

善意の篤志家が最寄り部隊の軍犬班へ愛犬を寄贈することもありました。無料での寄贈とは大變ありがたいお話なのですが、厳しい審査を潜り抜けた購買軍犬と違い、「寄贈軍犬」の中には基本訓練を受けたかどうかすら怪しい個體も混じっているとか。

そんな犬の担当となった兵隊さんの苦労が偲ばれます。


帝國ノ犬達-献納




 【出征】

購買された民間犬は、購買會當日から一週間くらいの間に飼主宅から購買した日本軍部隊へ送られます(第十二師團だけは、購買後も飼主宅へ預けたままにする「預託犬制度」をとっております)。

これが「民間犬の出征」と呼ばれるもの。

隣近所から盛大な見送りを受け、神社で武運長久を祈願した上で旅立っていく犬もいました。


帝國ノ犬達-出征

見送りを受け、我が家から出征する軍犬


犬

宮城神宮にて、購買された軍犬達の出征祈願(昭和15年)


【輸送】

購買された軍犬の多くは、地域の陸軍駐屯地へと集められます。急を要する場合には直接港へ送られ、戰地へ赴く事もありました。

犬の戰地輸送には、KV有志による輸送要員が随行。戰地の部隊へ犬を渡すまで、給餌や健康管理に神經をつかう「海外旅行」となりました。


犬
出征する日本軍エアデールと、民間の輸送要員


犬
長い旅路を経て、軍犬のケージを積んだトラックが現地に到着しました


犬

昭和15年6月に購買された犬達は、こうして戰地への第一歩を踏み出しました。


この時から、民間の「軍用犬」は日本軍所管の「軍犬」となります。


【軍犬】

軍犬とは「軍所管犬」の略であり、民間の「軍用犬」と區別する爲の呼称です。膨大な數の軍犬を全軍で統一した基準に則って運用する爲、制定されたのが「軍犬管理規則」。

この規則に沿って、日本軍犬は「部隊犬」「豫備犬」「育成所犬」に分類して管理されます。運用上、部隊犬は更に警戒犬・傳令犬・運搬犬・地雷探知犬などに分けられました。


【部隊犬】

各部隊の軍犬班へ配属される勤務犬。一般に「軍犬」としてイメージされるものです。


帝國ノ犬達-実戦


【豫備犬】

員數外として確保されている軍犬。戰死などで犬が登録抹消されたり、新たな軍犬班が編成された時の補充用です。


帝國ノ犬達-予備犬


【育成所犬】

軍隊内部で繁殖された犬、もしくは蕃殖用の種犬のこと。軍用種牡犬に関しても、厳しい審査基準がありました。


帝國ノ犬達-種牡犬

軍犬育成所の種犬は、優れた血統・資質を持つ民間犬から特別に選抜・購買されます。これらの軍用種犬は購買されても前線には出ません(画像は種牡犬の購買會風景)。


帝國ノ犬達-育成所犬



【親和訓練】
軍犬班へ配属された犬は、そこで管理を担当する軍犬兵との親和訓練に入ります。それまでの飼主とは違う軍犬兵との信頼関係を構築する爲、避けては通れない過程でした。中には、初對面でいきなり咬みつかれそうになった兵士もいたとか。


帝國ノ犬達-親和

 

【基本訓練】

購買軍犬は大部分が基礎的な訓練を修得していますが、配属先でも軍犬兵との再訓練に取り組みます。

戰況が激化していく昭和12年以降は、じっくり訓練する餘裕も無くなってきました。前線では二週間程度の促成訓練を受けただけの素人軍犬班を見かけるようになり、全體的な能力の低下が憂慮されます。


帝國ノ犬達-基本訓練


【應用訓練】

基本訓練の後、それらを應用した特殊訓練に移ります。軍犬の主任務は通信文を運ぶ「傳令犬」と敵に對處する「警戒犬」。傳令犬と警戒犬は、それぞれ専門の訓練を受けて實戰配備へと至ります。

警戒犬は一人一犬の擔當が原則でしたが、傳令犬は二人一犬が最小單位。更には傳令犬班の中で擔當犬を交換することも許可されていました。

傳令犬の場合、最低でも出發部隊側と受信部隊側で2名の主人を覺えておく必要があったからです。


【戰場へ】

戰地へ出征した犬達は、それぞれの勤務に就きます。苛酷な戰場でも、軍犬は「軍犬管理規則」に則って、軍犬名簿上で運用管理されました。部隊長の許可を得ないで勝手に調達したり、蕃殖したり、遺棄したりは許されていません。

もしも犬の數が名簿と食い違ったりすると、輸送時の検査で大問題に發展します。

前線では獣醫機材や醫薬品が不足しがちであり、獣醫部隊でも滿足な治療ができない可能性があります。日頃の健康管理を徹底してください。

同じく飼糧不足も問題となりますが、飢餓に對して拒食訓練など役に立ちません。衛生上、戰死體などを食害しないよう注意してください。


氣の利いた軍犬兵ならば、内地の献納者へ出征犬の近況を手紙で書き送ったりしていました。しかし轉戰や進軍や戰況激化などにより、それも途絶えがちとなってしまいます。


帝國ノ犬達-部隊犬

【徐役】

性格、體力、訓練度合い、老齢、病氣、負傷などによって軍務不適格と判断された軍犬は、犬を必要としている他部隊軍犬班へ打診の上、それでも譲渡先が無い場合は登録を抹消されて民間業者へ拂い下げられます(これも部隊長の許可なしに處分する事は不可能)。
また、戰死・行方不明となった軍犬も一定期間を経た後に許可を得て軍犬名簿から抹消されました。
拂い下げる「業者」がいない戰地の場合はどうしていたのか、私にはわかり兼ねます(獨逸軍では、軍獣醫部隊で用廃犬を安楽死處分していたそうですが)。

帝國ノ犬達-軍用犬


物語の中の「幻想の日本軍犬」とは違い、これが日本軍犬の調達・運用・管理の基本的な流れです。

ただし、以上はあくまで「原則」に過ぎません。個々の軍犬が配属された部隊や地域や時期によって様々なケースがありました。


満洲国の満ソ国境警備や満鉄沿線警備と、中国における国民党軍や八路軍との攻防と、南方戦線における連合軍との戦闘と、それらの後方勤務と、内地の留守部隊の犬とでは状況が全く違ったのです。


「個々の軍犬のエピソード」と「日本軍の軍犬運用管理」とは、ひとまず切り離して考えましょう。

「一頭の犬のハナシ」と「国家とイヌ論」を混同すると、日本軍犬の実像がぼやけてしまいますから。


(次回に続く)