金澤市金城女学校教諭。

 

あの頃、牛に草をやりに行く子供は私達兄姉の他にも幾組もあつたし、四月五月にもなると毎日鮒子すきに行く子供が澤山であつた。

近頃の子供は牛やフナなどあまり好きではないらしい。

懐しい牛小屋も梨畑も今はすつかりなくなつて、立派な二階建の住宅が何軒も建つてしまつた。

私は三十を過ぎて矢張り毎日同じ所を散歩する。犬を連れて毎日散歩する。

笠舞町田圃も笠舞町になつて牛と遊びに行く子供もなくなつた様だ。たゞ私は犬を連れて通るのを樂しみにしてるかして

「金城女學校の犬ヤゾ」だの

「ホラ、二郎先生の犬ナ來タゾ」

と友を呼ぶ子等がある。

時折孫を抱いたお婆さんが

「ホラ、二郎ちやんの犬やゾ、見マツシマ」

とやる。

之は一番懐かしい言葉である。

加藤二郎「ノベちやん(昭和12年)」より

 

子供が野外で遊ばなくなったのは、戦後になってからの話だと思っていました。

戦前の段階から同じことが言われていたんですね。

加藤先生は、金沢でのシェパード普及活動にも取り組んだ人物です。

昭和14年には盲導犬リタとともに帰郷した失明軍人、平田宗行軍曹を女学校へ招待し、生徒たちに盲導犬の働きを教えたりもしていました。

 

乗合の人は、赤十字のついたハンドルを見て盲導犬だと知つて色々勝手な噂話をしてゐる。
犬の頭を撫でる人もあつた。
リタは大抵黙つてゐたが、時々低く唸る事もあつてあぶないナと思つた。
併し幸ひ事なく済んだ。
汽車では犬箱に入れねばならない。犬を離れてポカンと突立てゐる平田さんの手を引いて汽車に乗せる時、遠くでリタの悲しい声が聞えた。
平田さんも暫しの別れが淋しかつたらう。
金澤の驛で平田さんをホームに待たせてをいて私はリタをつれに行つた。
リタは夢中でグングン綱を引いて行く。
平田さんは元の所に立つてゐる。一歩も動けないのだらう。犬がすぐ傍まで来ても解らないらしい。首環の鈴を、も少し大きくしなけりやいかんと思つた。
主人を見つけるとリタは狂喜して飛びつく。縁なき人々の目にも痛ましく美しい光景で多勢立留つて見てゐた。
学校につくと、生徒達は講堂の席について待つてゐた。
新聞で見て盲唖学校の盲生全部がきゝに來てゐた。會員の他有志の人も集つてゐた。
演壇へ犬をつれて上るのも美しい光景である。
講演は戰争の事とドイツ盲導犬の事と、そして自分とリタのお話であつた。
お話もしんみりした調子でよかつたが、演壇に立つ人とその傍の犬、其の形が感傷の強い八百の乙女達に少なからぬ感激であつたに相違ない。
とりわけ先日ブリンノ
(※金城校で飼っていた犬です)の葬式をすませたばかりであつただけに、女学生への大きな刺激であつた。
あとで、先生あの犬の仔を貰つて下さいと攻められて困つた。
盲生の中でも、此の犬の仔を欲しいと云ふものが幾人も出てきた。
盲導犬の仔なら、すぐこんな作業をすると單純に考へてゐるらしい。
講演が終つて拍手が鳴ると、リタは作業の終つた事を悟つたと見えて停留場の時と同じ様に又平田さんに飛びついて喜び狂ふ。
演壁の上で平田さんも少々之に辟易して居られた

 

加藤二郎「盲導犬を迎へて(昭和14年)」より