元來犬を飼育する費用は頗る高金を要し、又其生育法に於ても頗る手數を費し、注意の肝腎なると常人の知らざる所なり。
故に歐米人は數百金數千金を惜まずして良犬良種のものを買求すれども、我邦にては貰ふと號し一片の木葉一株の草花を人に望請するが如く一銭の費も拂はず、一片の謝意も表せず、空手良犬を得んとするの風あるも決して左る可きものに非ず。因て餘が飼養する方法に就て試に左に其計算を立ん。
前項粉米一升五錢五輪と仮定し、一升二合にて六錢六厘。牛肉臓腑中ハス一個八銭。是れに薪塩等を入れて凡そ十八錢となる。然れバ一ヶ年に付六拾五圓七拾錢を要し、是れに冬期のワラに於ける傳染病豫防薬及ビ清潔に要する薬液に於ける疾病の治療費、犬舎、鎖、首輪、修繕、シヤボン、ブラツシ、食器の取替の如き獵僕の給料等は悉皆合算すれば、一ヶ月一頭に付金弐圓七拾錢となる。莫大の費用なり。豈曖昧雑種の不良犬を飼育すべけんや。
高井太三郎『獵犬飼養法實驗』より 明治24年


帝國ノ犬達-湿板

(第二部からの続き)

私の手許にあるちいさなガラス板。所謂「湿板写真」というものですね。
そこには、チョンマゲ姿の男性と黒い洋犬の姿が写っています。
湿板写真技術が日本に伝わったのは安政4年(1857年)頃で、断髪令が公布されたのは明治4年(1871年)。画像の写真が撮影されたのはその10年チョイの間ということになります。
知識ある人ならば人物の服装や家具から時代を絞り込めるかもしれませんが、悲しいかな、私にそんな能力はありません。既に犬用リードが存在したのも(斎藤弘吉が紹介した江戸時代の資料で知ってはいましたが)実際にやっていたんですねえ。
カメの種類はレトリバー?セッター?写真からではよくわかりません。

カメといっても、爬虫類の亀ではありませんよ。
明治時代の日本人は、洋犬のことを「カメ」と呼んでいました。近代日本犬界は、カメの渡来と共に幕を開けたのです。

【カメの渡来】

「邦人、洋犬を呼びてカメとなすは、洋人の、犬を呼ぶにカムイン〃といへるを聞きて、犬のことゝなし、轉化して終に其の名となしゝなりといふ。面白き語源なり」とあるように、横濱在住の外国人が「Coming」と犬を呼んでいたのを「洋犬の名称=カム」と誤解し、それがカメと変化して広まったというのが一般のカメ語源説。

 

菊苑老人著『横濱奇談(題簽書名は「横濱奇潭」。出版年不明)』には、開国とともに渡来した洋犬と、それを「カメ」と呼ぶようになった経緯が記されています。


しかし、洋犬が渡来する以前より、日本の一部地域では日本土着犬を「カメ」と呼称していた様です。
勿論、その語源は「カムヒア」ではありません。ひとつが、「咬む犬」「咬めない犬」を縮めて「カメ」と呼んだ東北地方のケース。また、村上和潔氏の著作『紀伊山中の日本狼』では、「狼(オオカメ)」を縮めて「カメ」「カメさん」と呼んでいた紀伊半島のケースも紹介されています。
これらの呼称が何時頃から使われていたのか、詳しい事は分りません。
 

明治初期には、西洋の猟犬・レスキュー犬・牧羊犬が書籍で紹介されました。一番下は人を襲っているのではなく、ニューファンドランドによる水難救助です。

『博物新編』より、明治3年

 

「散切頭を叩いて見れば、文明開化の音がする」とあるように、明治の開国と共に西洋文化が流れ込んできました。犬についても同様で、外国犬といえば唐犬や狆しかいなかった幕末の日本にも様々な洋犬が輸入され始めます。
日本の犬にとっても「鎖国」は終り、「黒船」たる洋犬がやって来たのでした。

 

明治11年に東北・北海道を旅したイザベラ・バードは、在留外国人が飼っていた洋犬について記しています。

召使いは誰もが、全くしゃくにさわる波止場英語しかしゃべれないが、利口で忠実に仕えてくれるので、そのめちゃくちゃな英語を補って余りあるものだ。彼らは、玄関の近辺から姿の見えぬことはめったにないし、来客名簿の受付や、すべての伝言や書信を引き受ける。二人の英国人の子供がいる。六歳と七歳で、子供部屋や庭園の中で子どもらしい遊びを充分に楽しんでいる。
その他に邸内に住んでいるのは、美しくてかわいらしいテリア犬である。これは、名をラッグズといって、スカイ種であり、家庭のふところに抱かれるとうちとけるが、ふだんは堂々たる態度で、大英帝国の威厳を代表しているのは彼の主人ではなく彼自身であるかのようである(東京にて)。

「私が新潟を去るとき、大勢の親切そうな群衆が運河の岸までついてきた。外国の婦人と紳士、二人の金髪の子ども、長い毛をした外国の犬がお伴をしてこなければ、人目を避けることもできたであろう。土地の人たちはその二人の子どもを背にのせてきた。ファイソン夫妻は、私に別れを告げるために、運河のはずれまで歩いてきた
いずれもイザベラ・バード著 『日本奥地紀行』より 高梨健吉訳


古来、野犬やカラスは生ゴミや排泄物、果ては遺体を片付けるスカベンジャーとしての役割を担ってきました。
明治にかけて埋葬・火葬制度が整うと、「我死なば 焼くなうめるな野に捨てて 飢ゑたる犬の腹をこやせよ」なんて優雅な(?)死に方は不可能となります。しかし、多くの日本人にとっての犬とは町を徘徊する薄汚い獣に過ぎませんでした。
そこへ登場した洋犬は、『横濱奇談』に記されたとおり日本人のペット観を一変させます。

「町をうろつく獣」だった土着の和犬と違い、長年の品種改良と訓育により「人間の友」となった洋犬。
フレンドリーな性格と奇異な外見によって、カメは日本人から熱烈に受け入れられます。江戸時代までは高嶺の花だった唐犬が、庶民でも飼えるペットとなったのです。
それまで、唐犬や狆以外の犬は拾ってくるか勝手に居着くだけでした。明治になって「お金を払って犬を購入する」という価値観が広まるにつれ、カメは(それなりに)大切に扱われるようになります。
『珍奇鏡』には「家々に洋犬を養ふ、ニ(※明治2年)ヨリ」とあるそうなので、カメたちは一般庶民のペットとして、そして優秀な猟犬として急速に普及していったのでしょう。

明治初期に来日したカメとしては、鳥猟犬としてのポインターやセッター、愛玩用の小型テリアやブルドッグ、緬羊事業に必要なラフコリーあたりが記録されています。

和犬と洋犬の交配も盛んで、高知県では土佐闘犬の作出がスタート(明治元年~明治10年代あたりから、ポインターやブルドッグが来県していました)。明治20年代になると、海外から犬を輸入する日本人も現れました。

外國種犬が初めて我國へ輸入せられたのは、多くは海外へ旅行された人々が、趣味のまゝに持歸つたのが始りで、犬の賣買とか、採算とか、蕃殖とか云ふ上からの考慮は全然無かつたので、従つて各種が輸入せられても、各自が嗜好に適した牡なり牝なりを輸入されたので、其種の改良とか保存とか増殖とか云ふ様な事の望み難きは當然です。そして多くは其犬一代で雑種となつてしまつたのです。
狩獵界でも西洋犬は能く主人の云ふ事を聞くとか、耳が垂れて珍らしいとか云ふ様な事で、地犬に其れ等の犬を配したと云ふ様な事が進歩の始まりとも云へば云へ様と思ひます。今から四十餘年前(明治20~30年代)に、其當時の茨城縣知事が英吉利セツターの黒二毛斑の牝牡を持歸られて其れが病氣となつたのを同地農學校長をして居た義兄が一時預つて居り、全快の御禮として其仔を一頭贈られたので飼育して居つた事がありました。其れから英吉利ポインターでは、其頃英國大使館にレモン斑の見事な牝牡と、同じく英セツターの黒二毛が飼育せられて居りましたので、其ポインターの仔が得たい爲に傳を求めて漸く望みを達する迄になりましたが、其犬は遂に仔が出來ずに仕舞ひました。コツカースパニエルは三十餘年前(明治後期)に相馬子爵が黒二毛の牝牡を輸入せられて、其仔を一頭飼育致しましたが、不幸にして成犬とならぬ内に失いました。
其頃佛國大使館員がダツクスフンドの茶色の牝牡を飼つて居りましたが、其牡を貰ひ受けて飼養致した事がありました。獨逸ポインターでは神戸の鈴木商店主が犬の研究に獨逸に行かれて居つた田丸亭之助氏(※関西の猟犬訓練士)に依頼して、牝牡を歸朝の節に輸入せられた。之れ等が牝牡揃つて輸入せられた最初の様に思ひます。
華蔵界能智『私の見た帝國畜犬發達史』より 昭和9年

 

カメの伝来は、一方で深刻な影響をもたらしました。まず、1860年代末には外国からジステンパーが伝播し、多数の在来犬がバタバタと死んでいきます。
これに関しては、幕末の1861年に函館へ上陸したブラキストン(彼はイザベラ・バード女史を嫌っていたようで、「さも見てきたようなウソを書いている」と批判しております)が、現地で猛威を振うジステンパーについて回顧しています。挙句、「我々の邪魔にならぬよう、日本人が野犬を毒殺してくれたのだ」と勘違いする始末。

 

街の通りで、オオカミのような犬がたくさん目につく。この犬どもは外国人に対してひどい敵意を抱いているが、私が函館に着いたころは、やたらに吠えてもその声は弱々しかった。というのは、恐ろしいジステンパーが猛威をふるっていて、何百頭もの犬がそれにかかり、死体となって道路に倒れていたり、至る所で死にかけていたりしていたから、そのせいであろう。この病気の特別な徴候は、腰や後肢の力がまったく失われて、鼻汁や目やにが多量に出ることである。したがってこれにかかると、犬の多くは気持ちの悪い面つきになる。日本人は始め、ヨーロッパ人やアメリカ人居留者がこの犬を憎悪しているのを知っていたので、彼らかその召使いの中国人が毒を盛ったのだと思った。この勘ぐりはは当を得ていないとしても、街を横行する因業な犬どもに対して抱いている嫌悪感から、外国人たちは犬の数が一挙に減ったことに大して惜しがる気持ちも起きなかった。

そのジステンパーの猛威のために約九十パーセントの犬が死んだと算定された。

トーマス・W・ブラキストン『蝦夷地の中の日本』より 近藤唯一訳・高倉新一郎校訂校訂

 

そして、和犬やニホンオオカミにとって最大の敵となったのがカメでした。

【和犬の消滅】

明治初期、日本に高性能の猟銃と西洋式のスポーツ・ハンティングが持ち込まれます。
それまで生業や害獣駆除の手段であった狩猟が、一般庶民のレジャーとなったのでした。同時にポインターやセッターなどのガンドッグ(鳥猟犬)も続々と来日。明治15年には、陸軍に招聘された獣医のアウギュスト・アンゴーによって詳細な西洋式猟犬訓練法が紹介されます。

舶来モノが大好きな日本人は、今まで使っていた和犬を放り棄てて西洋の猟犬に飛びつきました。その更新速度は凄まじく、和犬は明治20年代迄に狩猟界から駆逐され、主力猟犬種の座はポインターやセッターに占められてしまいます。
偶に和犬有能論を唱えているハンターもいたのですが、彼等の主張も「和犬とポインターを交配すればもっと優れた猟犬が生れる」という内容ばかり。

 

勿論、この時代にも日本在来犬の再評価に取り組んだ人もいました。和犬が消滅の危機に瀕していることを憂い、それらが日本独自の貴重な犬種であることを訴えたのです。

 

桑田變爲海(※桑田変じて海となる)、飛鳥川、昨日の淵は今日の瀬、げに頼み難きは世の習ひ、とは謂ひながら、別けて果敢なく、頼み少なきは日本犬種の前途にぞある。
近時は我獵界の新紀元―、銃獵の進歩ハ洋種獵犬の輸入を仰ぎ、次て雑種犬の驚くべき増加を致せり。
混血又混血、變形又變形、果して之れ進化なるや退化なるやを知らずと雖ども、而も純粋和犬種は次第に影を隠し今は故らに山村僻地に之を求めざれば、殆んど、得べあらざるに到りたるは疑もなき事實なりとす。
現在既に然り、將來果して如何、借問す。
吾人の子々孫々は、其祖先の時代に於て、果して如何なる形如何なる色如何なる鳴聲の犬が此島(※日本列島)に棲息したるものなるやを想像し得べきや否や。
吾人は知らず、今非常の時日と労費とを擲て、和犬族を保存するは果して利益あるや否やを知らず。然れども吾人は信ず。人類の記録ハ歴史家の責=犬族の記録ハ獵者の責なることを。
吾人は今、大方同感の獵士に計る。余が今譯したるチ犬の相貌書に倣て(他に加ふべき點ハ固よりも之を加ふ)日本各地に散在する各種純粋和犬の模形は如何なるものなるやを詳細記述して獵友に投じ、獵友社は之を誌上に掲載し以て此種の記録を永遠に傳へられんことを切に望む!同感の諸士、以て如何となす。
空山 述『チェサピック・ペー犬の説・付言』より 明治25年

 

明治の和犬保護論者を代表する人物が農学士の足立美堅。愛犬家だった彼は、洋犬の研究と共に「 適當なる訓練を施せば、最良なる狩獵犬となるべく又適法なる人爲淘汰を行はゞ形容華麗なる愛玩犬を得らるべきなり。殊に古來風土に馴化し感受し得たるの特性に至つては他洋種の及ばざる所なり。余は他日進みて此研究をなさむことを期す」と明治30年代に書き残しています。

しかし、日露戦争の勃発でその調査は実行されませんでした。

明治37年11月28日、足立美堅少尉は熾烈を極めた203高地攻防戦で戦死を遂げたのです。

 

日本犬保護活動がスタート時点で躓いたことにより、各地に暮らしていた和犬たちは次々と姿を消していきました。


帝國ノ犬達-m26
明治26年の狩猟雑誌より、ポインターの普及ぶりが分かります。

スポーツハンティングが流行するにつれ、大型の猟犬達はニホンオオカミのテリトリーへ侵入し始めます。
里の飼い犬とニホンオオカミの間には、長年にわたって棲み分けが守られて来ました。山へ迷い込んだ犬はオオカミに駆逐され、人里へ現れたオオカミは人間に追払われていたのです。
しかし、ポインターやセッターは易々とその境界を突破していきました。山中で迷子になったりハンターが棄てて行った猟犬たちは、やがて野犬群を形成。
こうして鹿や小動物を巡って、オオカミと野犬の衝突が始まりました。どちらも群れで行動する事が仇となり、狂犬病やジステンパーが山中の狼達に伝染したケースがあったのかもしれません。

山中の野犬群については、明石原人の発見者として知られる直良信夫が少年時代に遭遇した「ハシカ犬」について述懐しています。

 

夜、うすぐらがりの若葉の下で、私共は世間話に夢中になつてゐた。
すると善作さんが、昨日山でハシカ犬を見たといひだしたのだつた。
話しは一昨日山での出来事、夕方の水屋騒動の一件等、お互ひが、もちよりのハシカ犬についての材料に輪に輪をかけて話し合つた。世間で云ふ山犬といふのは、ハシカ犬の事だらうと云ふ説と、いや違ふといふ説が出たりした。
そして善作爺さんは、昔北海道にゆくと、オホカミとアイヌ犬の外に、山にもう一種の犬がゐた。あれが此のハシカ犬と同じ奴だとつけ足した。
してみると、ハシカ犬は山に篭つた野良犬かな、と父が言つた。
しかし結局は誰もたしかな事は知らなかつたのである。
たしかにハシカ犬は山に棲まつて、山に育む鳥獣を追つかけたり、夕方になると里へ出て人家の近くをうろついた。
しかし不思議な事に、山にゐるときには数頭、多いときには何十頭かが群をなして居り、峯から峯、谷から谷を駈けめぐつて餌をあさつてあるいた。
勿論人を見れば、之を襲撃した。
しかし人里近くにやつてくるときには、多くの場合は単独だつた。
そのすばやい事と暴虐あくなき事には、人々を縮み上らしてゐたのである。
一昨年の秋、このハシカ犬に、足を咬まれた郵便配達夫は、医者へもゆかないで、この地方での習慣である、生小豆を食べただけであるのに、一向狂犬病らしい病気にもかゝらないで、今にピン〃してゐる。
だからハシカ犬は狂犬ではないよ、と善作さんが知つたかぶりを見せた。
ブチ、ドスグロい奴、灰色等、毛色はまち〃だつたが、體は痩せぎすで、尾は少し巻いてゐる。オホカミの吠へ方と違つてゐて、全く犬のなき声である。
結局私共は、誰かに飼はれてゐた犬が、主人においてきぼりを食つて、しかたがないから山に集つて、夫等がうんと殖へたんだらう、といふ結論を得た。
翌日登校のときに、村役場前の掲示板に「當分山へ行く可からず。ハシカ犬の横行に注意せよ」と貼出しが示されてゐた。

直良信夫『ハシカ犬』より 昭和12年

 

また、日本社会の近代化もオオカミ絶滅に大きく影響しています。
明治に入って畜産・牧羊業が拡大すると、牧場はオオカミたちにとって新たな餌場となりました。家畜への食害は深刻化し、オオカミは富国強兵を邪魔する敵と見做されます。
北海道では懸賞金をかけ、毒餌や狩猟によって徹底的にエゾオオカミを駆逐。畏敬の対象であったニホンオオカミやエゾオオカミは害獣へと格下げされ、容赦なく狩られていきました。
オオカミの姿が消えて、慌てた頃には時既に遅し。明治時代、ニホンオオカミとエゾオオカミは相次いで絶滅しました。
近代化に邁進する日本人は、オオカミと共存できなかったのです(そもそも、しばらくは絶滅したことにすら気付いていませんでした)。

 

或る朝、その日に採集した鼠を剥製にして居た時、二三人の逞しい獵師が一匹の狼を擔いでやつて來た。我等の滞在は間もなく近村の話題にのぼり種々の獲物を賣りに來た。確か十數圓の値段に對し4、5圓を値切つたと記憶して居る。アンダーソンの顔は垂涎萬丈の表情があつたので、おそらく獵師達もこれを讀んだ事だらうと思ふ。
アンダーソンは此の時豫定以上の獲物を買つたので歸りの旅費が無くなつて僕の貯めた月給を貸してやつてやつと歸れたのだつた。
獵師達は僕の値切つたのに對して、狼が高價であると云ふ説明は皮のみの値段ではなく、その胴體が黒焼の薬として價値ある事を主張した。だが我等の必要とする所は皮と頭骸骨だけである。其の他は皆獵師に與へる條件を提出した。獵師は然らば値段は引くが、胴體だけでは狼である説明にならぬから片足を付けてくれとの要求である。
これでは我等の標本にならぬ。獵師達は評議の結果、胴體と共に足の爪一本を欲しいと云ふ所まで譲歩してきた。
僕は獵師共が結局僕のつけた値で賣るものと目安をつけて居つた。杉林の中の日あたりの良い宿屋の縁側に初春の日光をあびながら長い間かゝつての談判である。
一本の爪を付ける事にも拒絶した時、獵師達はとうとう狼を肩に擔いで立去つてしまつた。
此の時のアンダーソンの失望は言語にも絶するものだつた。元來無言のアンダーソンが買へば良かつた、再び手に入らないかも知らぬ、と一人言を云ひながら片足立てゝ縁側に腰かけて居た顔つきは33年後の今日もなほ僕の目にありありと殘つて居る。
今に必ず歸つて來ると断言して居つた僕は半時間たち、一時間たつても歸つて來ないので稍氣を揉んで居た。所が案の定歸つて來て僕の正當と信ずる値段に落ちついて買つたのが、日本で採集された最後の狼にならうとは當時想像も及ばない所であつた。

金井清『日本で捕れた最後の狼』より 昭和14年


オオカミが絶滅した頃、各地で独自の系統を保ってきた和犬達も姿を消していきました。
猟犬以外に、ペットとしてのカメも明治20年代までに全国へ勢力を拡大。土着の地犬達とカメが交雑化することで、古くから維持されてきた形質は失われます。
当時の日本人にとって、何の価値も無かった和犬。それが消えていくのを憂う人など殆んどいませんでした(明治中期に地域ぐるみで柴犬の保護活動をしていた記録もありますが、あくまで例外です)。
こうして、ポインターの入り込めない山奥の村落に残された和犬だけが細々と生き延びる事となります。

本格的な日本犬保存運動が始まるのは昭和3年になってからのこと。もう少し遅れていたら、和犬はニホンオオカミと同じ道を辿ったことでしょう。
日本犬を絶滅寸前へ追いやった明治期の愚行は忘れ去られ、やがて国粋主義に便乗した日本犬ブームが到来するのです。

 

滋賀県における畜犬取締規則『布達明治9年3月甲第145號』より


【畜犬行政と狂犬病対策】

明治時代には、行政が飼犬取締りへ介入します。江戸時代の「生類憐令」ほど極端ではないものの、飼主の激増が原因でした。
要するに、マナーの悪い愛犬家がいっぱい居たということです。

江戸時代から高価な唐犬や狆のような座敷犬以外は基本放し飼い状態でしたから、「飼育マナー」なる概念は日本に無かったのでしょう。
ワラワラと殖えて行く犬たちは、そこかしこで悪さをはじめました。残飯を食い荒らす、通行人に吠えつく、畑を踏み荒らす、路上に糞尿を垂れ流す。余りの酷さに堪えかね、遂に行政機関が犬の取締りへ介入しました。
先鞭をつけたのは京都府です。
明治5年、京都府は府布令第94號を以て悪犬打取り(野犬駆除)を開始。翌年には「飼犬には住所と名前を記した畜犬札を付けよ」と通達し、その取締は邏卒(巡査)が担当します。

それでも全く改まらなかったらしく、明治8年には槇村正直知事がキレました↓

 

畜犬取締
京都府布令書明治八年九月番外第三十二號より、槇村知事の対犬宣戦布告。

飼育マナーなんか知った事ではないという愛犬家と、飼育ルールを守らせようとする行政の鼬ごっこはこうして始まったのです。
続いて明治9年には山形県も畜犬行政に着手。これは狂犬病対策が目的だったらしく、野犬・飼育犬が大量駆除されました。同年には千葉の下総牧場(後の下総御料牧場)が、牧羊場周囲四里の町村での野犬撲殺及び銃殺規則を制定。
これは、国家事業である牧羊への被害を防ごうとしたものです。翌年から、下総では野犬と鳥獣の駆除が実行されました。

更に、高知県では当局が闘犬取締に動いています。
闘犬が盛んだった高知には明治元年にポインターが持ち込まれ、其の後はブルドッグ、ブルテリア、グレートデーン、マスティフなどが続々と移入されていました。これらを在来犬と交配して誕生したのが土佐闘犬です。
当時の闘犬は番付表が発行されるほどの人気娯楽。しかし、それ自体が野蛮であり、賭博行為も目に余るモノがあるとした行政は規制に乗り出したのです。
闘犬を抑え込もうとする高知県側と、規制撤回を望む闘犬家との対立はその後も続きました。
一部には、土佐出身の板垣退助に闘犬認可を陳情しようという話もあったそうです。

そして東京が畜犬取締規則を制定したのは明治14年のこと。畜犬行政の始まりについては東京ばかり語られますが、実際は後発組だったんですねー。

このような流れの中、飼犬頭数抑制を目的とした「畜犬税」が導入され始めます。
畜犬税とは犬の飼育者にかけられる税金で、要するに「犬を飼いたければ地域の役所に登録のうえ税金を納めよ」というもの。納税者の犬は畜犬登録手続きの上で一定の保護を受け、未納者の犬は未登録の野犬扱いされて駆除の対象にもなり得ました。
「何で犬に税金がかかるんだ?」「そんなモン拂えるか!」などと無視する人も多かったのですが、行政機関は脱税行為として厳罰をもって対処しました。ひとつの町や村で警察が一斉に未納税犬を集め、纏めて殺処分してしまった事例も多々あるのです。
其の過程で、地域に根付いていた和犬たちも殲滅されていったのでしょう。

一連の飼育ルールの導入は、ナニも庶民を虐めるのが目的だった訳ではありません。狂犬病対策に苦慮する当局にとって、畜犬行政は必然の措置でもありました。

古くから恐れられた狂犬病感染犬。明治になっても狂犬病の犠牲者は増え続け、行政は感染源たる犬の取締に躍起となっていたのです。
「狂犬出現!」の報が入ると警官が駆け付けるのですが、駆除する側も命懸け。ちょっと引っ掛かれたり噛まれたりしただけで感染の危険があるのですから(実際、警官や駆除業者にも犠牲者が出ています)。

行政と共に日本獣医界も狂犬病対策へ力を注ぎますが、「敵」はあまりにも強大でした。放し飼いや捨て犬の横行で野犬の数は一向に減らず、それらを感染源とした狂犬病も全国各地で頻発。
そして明治26年、長崎県で狂犬病の大流行がはじまります。
被害を食い止める為に700頭以上の飼犬を殺処分したのですが、翌年になるとウィルスは周辺各地へ拡大。明治28年になっても病勢は衰えず、長崎医学専門学校の医師らは遂にパスツール氏予防注射法の實施に踏み切ります。人体実験に等しい強行策でしたが、防疫効果は絶大でした。
こうして、日本獣医界は狂犬病へ対抗する術を手に入れたのです。長崎で狂犬病予防注射が試みられたのは、奇しくもルイ・パスツールが没した年のことでした(日本でもパスツールの追悼集会が開催されています)。

しかし、その後も狂犬病との戦いは続きます。
島国という有利な地理的条件を備えた日本でさえ、狂犬病の根絶までには長い年月と多大な犠牲を費しました。ペットの飼育へ行政が介入したのには、このような人命に関わる事情もあったのです。

獣医界の進歩は日本犬界の発展にも繋がりました。愛犬が病気になれば、治療してくれる人が必要ですからね。ペットとしての犬猫が激増すると共に、それまで牛馬しか診て来なかった獣医師の許へ病犬が持ち込まれるようになりました。
纏まった「顧客」が出現したことで、日本獣医界でもペット医療の研究が盛んになります。西洋式の教育を受けた新世代の獣医が開業すると共に、犬猫病院も出現しました。
こうして「かかりつけの病院」を得られたことで、愛犬の健康を守ろうとする意識も定着していったのです。

また、明治時代には目端の利く商人の中からカメを取り扱う者も出てきます。
洋犬を輸入し、繁殖させた仔犬を愛犬家へ販売するという商売で、後のブリーダーのはしりですね。ここで働く人の中にはこっそり蕃殖させた仔犬を横流ししたり、蓄えた知識や人脈を元手に独立したケースもありました。
畜犬商の増加によって、カメは全国へと普及します。

畜犬商や家畜病院が、明治の愛犬家たちを支える。日本犬界が急成長していく為の条件が出揃ったのです。

扨て。
冒頭に書いた通り、明治の人々は貪欲に外国の知識を吸収していきました。
それまで犬の用途といえば、猟犬や闘犬に見世物の芸当犬くらいだった日本。明治の40年間に海外から多くの知識を学んだことで、使役犬の分野は飛躍的に発展しました。
それらを列挙してみましょう。

 

荷役犬

牛馬を使う程ではない量の物資を運ぶ「運搬犬」が登場したのもこの時代。明治になって物流が拡大したことにより、コマゴマしたモノの運搬も増えていきます。
まだ鉄道や自動車での物流は発達途上であり、物資運搬は駄馬や輓馬が中心でした。そして牛馬を使う程ではない少量物運搬に用いられたのが、荷役犬です。トラック便に対するバイク便のような感覚でしょうか。
樺太を領土としたことで、現地の犬橇運搬も注目されます。日清戦争の頃までは「樺太の珍しい風物」扱いだった犬橇ですが、やがて北海道・東北地方で冬季物資運搬法として普及しました。同時に、優れた輓曳犬であるカラフト犬も持ち込まれています。
更には農作物や漁獲物の運搬犬、林用軌道や鉱山軌道のトロッコを曳く犬たちも現れました。

 


樺太の犬橇運搬


牧羊犬
富国強兵・殖産興業の方針と共に新たな使役犬も登場します。
明治政府は羊毛増産を目的に外国から農事指導者を招き、下総御料牧場をはじめとした種畜場を全国各地に設置。羊を輸入する過程で、貨物船に乗ってアメリカやオーストラリアから牧羊犬も来日しました。
日本で牧羊犬の記録が現れるのは相当早く、明治5~10年頃のこと。犬種は不明ですが、下総ではラフコリーを使っていたそうです。
この時代が日本牧羊犬の出發点であり、大正期にオーストラリアからケルピーが来日し始めると牧羊犬を採用する牧羊業者の数も増えていきました。

 

帝國ノ犬達-コリー

下総御料牧場のコリーとケルピー


救助犬と軍用犬
レスキュー犬は最近になって使われ始めたイメージもありますが、明治の日本人だってちゃんと存在を知っていました。明治初期の書籍では、アルプスで遭難者を救っていたセント・バーナードの逸話も紹介されています。
日本救助犬の初舞台となったのが、明治35年に発生した八甲田山雪中行軍遭難事件。凄まじい吹雪と酷寒の中、八甲田山中に消えた青森第五聯隊員の捜索は困難を極めました。
その際、東京からセントバーナードを連れた民間人が捜索活動に協力を申し出ています。このセントバーナードは役に立たなかったのですが、続いて協力要請を受けたアイヌの弁開凧次郎氏らが北海道犬を連れて現場へ到着。
弁開隊と猟犬達は深雪をものともせず山中を捜索、遭難者の遺体を次々と発見していきます。
因みに、これは特異な事例ではありません。戦前の日本では、災害や事件・事故における捜索活動に犬が投入された事例は幾らでもあるのです。

 

また「公的機関の犬」が登場したのも明治時代のことでした。

 

帝國ノ犬達-ロシア衛生犬

赤十字のゼッケンをつけたロシア軍レスキュー犬から身を隠す日本兵(歩哨犬と勘違いした模様)。

日露戦争の黒溝台会戦にて、明治37年

明治37年、日露戦争が勃発。出征した日本兵たちは、戦地でロシア軍の近代的軍用犬部隊に遭遇します。
ロシア軍は開戦前より英独の軍用犬専門家を招聘し、大量の警備犬や負傷兵捜索犬を日本軍との戦いに投入したのです。
日露戦争は、日本人が近代的軍用犬と対峙した最初の戦いとなりました。しかし、日本軍には軍馬の智識しかありません。大正時代に第一次大戦のデータを分析するまで、その価値を理解することはできなかったのです。

 

警察犬

日本の公的機関が犬を正式配備したのは明治末期のこと。大正元年に警視庁が採用した警察犬は、「日本最初の警察犬」ではなく「内地で最初の警察犬」に過ぎません。

日本最初の警察犬は、統治下にあった台湾で誕生したのです。

当時の台湾では山岳民族(「生蕃」「高砂族」と呼ばれた人々)による激しい抗日運動が頻発していました。それに対し、日本軍や総督府の警察機関は武力鎮圧で臨みます。
しかし、密林を自在に動き回る高砂族相手には近代兵器も効果は薄く、逆襲を受けた警察部隊が壊滅するケースも続出。理蕃対策に悩む蕃務署は、警察犬の導入を決定したのです。

 

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台湾総督府台中庁警察の警察犬リスト(「ポケ」は「ポチ」の誤植)。明治44年時点
 

明治43年、台湾総督府蕃務署は内地から11頭の犬を購入し、山岳斥候犬へ育て上げます。先に1年間の訓練期間を終えた3頭は、明治44年の眉原社討伐作戦へ投入されて山岳民族を翻弄。以降、内地から招聘した猟犬ハンドラーの指導を仰ぎつつ配備を拡大していきました。
この「蕃人捜索犬」こそが、日本人の使った最初の警察犬。日本の警察犬は、血で血を洗う山岳ゲリラ戦でデビューを飾ったのです。

洋犬

日本社会が大きく変化した明治時代。その時代に豊かな犬の世界が形成されていきました。
次回は大正犬界のお話を。

(第四部へ続く)