成犬組は牡牝共全國内産の有名犬が殆んど全部出場、輸羸を争ふ壮観は實に近來の見ものであり、特に牡組の如き超弩級の内産犬が轡を揃へて居並んだ有様は實に見事であり、堂々外産を圧して日本ジーガーの榮冠は初めて内産犬に帰した。その中で天津から長途をいとはず、はる〃と東上してリンクに立つた水野氏の意氣と、アヤツクスの勇姿は、たとへ三席に落ちたとは云へ、観衆に多大の好印象を與へた。
又、審査終了後、戦盲勇士平田氏が誘導犬リタに伴れられてリンクに現はれ、實地に誘導犬の立派な働きを示めしたが、一昨年米國のゴルドン青年の時以上の切實な感銘を與へた。それは愈よ日本にも犬が誘導犬として實際に役立つ時代が來たと云ふ慶びのためかも知れない。

白木正光 『優秀シエパード犬のオンパレードの観を呈したジーガー展』より 昭和15年

帝國ノ犬達-リタ
平田軍曹とリタの誘導實演。昭和15年4月28日開催のJSVジーガー展にて

№10【国産盲導犬誕生】

 

※葉上太郎氏「日本最初の盲導犬」を元に、内容の一部を追加・修正しております(2009年8月)。

 

謎の盲導犬(?)といえば、リタとボドが陸軍病院で活動を開始した直後の9月、国産盲導犬「ルチルド」が訓練されているという話を見つけました。

……ボドの異母兄妹だったリチルト(通称ルティ)とは違う盲導犬なんですかね?そもそもフィクションなのか実話なのか判然としませんが、以下に引用してみます。

「大きなギリシヤ式のコーラムの並んだ青山市場を過ぎて、直ぐ左へゆるい傾斜の坂を上ると、左側の鉄門の家へ吸い込まれてしまつたが、是が失明勇士の家らしい。自分はふと此の通りに美校時代の學友Sが居る事を思ひ出して、或は知り合ひかも知れなひと思い訪れて見た。
意外に早い自分の訪問に何事かと思つたらしいが、事情を話すと気軽に
『あゝHだな。それは工兵中尉殿で、兄弟みたいにしてゐる人だから……』
門を入ると足音を聞きつけて一年そこ〃位の、ブランゼンベルヒ系とも思はれる賢こさうな別の犬が飛出して來たが、Sが『リータ』と云ふと直ぐ尾を振つて少しも敵意を見せない。来意を告げて案内されたのが前栽を横切つて離れの一間、十畳位の和室だが畳が敷いてなく、脇にベツドらしいのがカーテンの隙間から覗かれる。
Sは心易げに自分を紹介して
『僕の學友で××と云ふ者だが、こいつ犬が好きで、犬の彫塑ばかり研究してゐるんでね、訓練の方もなか〃こつてゐるんだ。今日、君の姿を表参道で見て、つけて來たんだつてさ……、スパイみたいな奴さ』
衒れ臭い思ひして挨拶済まし、直ぐ質問を始めたものだ。

『今度、JSVの方で輸入した犬とは異うでせうね。』
『えゝちがひます。内産の犬で血統も自慢する程のものでもないんです。』
大して大きくは無いがクロード系かとも思はれる相當な血統らしく、背線が美しい。
『なか〃良く訓練されてゐる様ですね』
『えゝ非常に悧巧な奴でしてね。僕の知り合いの人が訓練したもので、今満三歳になつてゐます』
『大分若いんですね』
『普通でしたら四歳か五歳にならねば盲導犬として使へないつて云ひますが、これは正式に訓練し始めて一ケ月目に軍犬候補程度の科目を仕上げてしまひ、二ヶ月目にはZpr(※種族訓育試験の事です)をわけもなくパスした犬です。然も各科目V級と云ふんですから凄いです。
性質が非常にすなをで人を信じ切つてゐる様な點があります』
自分は今一度、此の犬を見直して見た。牝犬ではあるが、可なり巾の廣い頭で、鼻は細目で眼が何とも云へず温和だ。幾らか出目の感じに近いが、それ程ひどくない。
『訓練した人は何と云ふ訓練士ですか』
『いやそれが一寸云へないのです。本人は可なり學殖のある爲か、こんな事が世間に表はれるのを厭がつてゐるのです。今内にゐるもう一頭の方もその人が展覧會から見つけて來たのですが、性能が又非常に良さそうです』
(中略)
『盲導犬をお使ひになつた動機は?』
『さうですね、私が去年の春戰地から帰還して第一陸軍病院に入院中、訪ねて呉れたのが、この犬を訓練してゐた人で、僕の變つた姿を見てその人が非常に氣の毒がつて、色々考へたらしいですが、丁度米國のゴルドン青年が盲導犬と共に來朝した直後の事だつたので、盲導犬に感激した彼氏、自分の訓練中の犬を僕の爲に盲導犬に仕上げてやらうと考へたのです。そして色々と獨英の文献を漁つたらしいが、思はしい訓練の本も無く、ゴルドン青年の犬を實地に見た点から推して、自己流に訓練し始めたらしいのです』
『どうも盲導犬の訓練について、是と云ふ参考書が無いのはつらい事ですね。ドイツあたりでも難しい規則があつて、盲導犬訓練法を統一してゐる爲、訓練に関する参考書を出せない事にしてゐるらしいですね。で、結局私も盲導犬に関する智識以外は唯外形的な輪郭と歴史と、それから得る利益位しかつかめなかつた事があります』
『各人まち〃の訓練をしていけないと云ふのは、交通統制に不都合が生じたり、又思はぬ惨事を惹き起したりする事を懼れてでせう。然し日本には未だ盲導犬も研究時代に過ぎないので、あれこれ研究して日本の交通状態に即應した訓練方法を確立すべきでせう』
『だのに此の犬は随分うまく指導して行く様ですね』
『その友達の熱心な研究と、此の犬の賢こさで見事その困難を征服したわけです』
『どれ位の期間がかゝりましたか』
『みつちり一年近くやりました。私も随分と苦労したものです。何分、中年からの失明でせう。生え抜きの盲人と異つて、感覚が鈍いのですが、自分が、盲導犬の草分けだ、他の幾多の失明者達の幸福の爲にも自分はどうしてもやり抜かねばならない責任を感じて居ましたが、結局此の犬の賢こさが私を是まで導いて呉れたのです』
『何處へでも連れて出られますか』
『いえ、私が単獨にやる様になつて未だ半年にしかならないので、明治神宮の御詣りと、時折思ひ出した時、外苑に散歩に行く位のものです。實は九段の靖國神社にも戰友の霊を弔ふ爲に日参したいのですが、東京では犬を連れてバスにも電車にも乗れないので遂ひ行けないで残念です。明治神宮も一ノ鳥居まで御詣りするだけです。犬の事ですから、萬一神域を排泄物で汚すと懼れ多いですから……』
話を聞いてゐる内に、何だか身内がしーんとして來て頭の下がる思ひがする。
(中略)
『ベルリン、パリーなどでは盲導犬が増加する程、交通事故が遞減して行くと云ふのです。勿論さうなる迄は、私共の前途は遠く、荊棘の道も多いでせう。然し私共は将來の光明を信ずるのです。JSVの人達も盲導犬輸入に當つて、如何なる困難にも打勝つて進む事を發表して居るではありませんか。私は一失明者として日本の皆様が、私達とその盲導犬に、より以上の同情と理解を持つていただく事を、心から説に御願いしたいのです。そして桝田准尉と平田軍曹との努力の成果が、一日も早からん事を祈るのです』
云ひ終ると、H氏は『ルチルド』と、その盲導犬を呼び上げて、その顔に頬ずりしてやるのだつた」

上之薗章『盲導犬の黎明』より、昭和14年

これ以外、H氏の盲導犬「ルチルド」に関する話は見つけられませんでした。陸軍病院のリチルトについては他の記事にて。

 

 

アルマ(アスター)、カロル(ボド)、リタ、リチルト(ルティ)の4頭は、こうして失明軍人の誘導任務に就きます。ドイツ盲導犬達の活躍を評価し、東京第一陸軍病院では国産盲導犬の研究に着手しました。
病院裏手にある戸山ヶ原の窪地の一隅には盲導犬舎が建てられ、盲導犬訓練士には隻腕の傷痍軍人臼井眞氏が就任しています。その他、町田訓練士や藤倉ハナ看護婦長も訓練に加わっていますが、少人数での訓練では盲導犬の作出も大規模に行う訳にはいきませんでした。
リタやポドの運用で得られたデータをもとに、JSVから寄贈されたシェパード達は訓練を施され、やがて、日本初となる国産盲導犬群が誕生します。それら国産盲導犬の数を「十数頭」としている資料もあります。しかし、たった2名の傷痍軍人が、昭和15年頃から終戦の間にそれだけの頭数を作出する事が可能だったのかどうか。
その辺りにつきましては、盲導犬団体による今後の調査に期待しましょう。

戸山ヶ原の犬舎では、昭和18年までに数頭が盲導犬としての訓練を完了し、国産盲導犬事業は夢物語ではなくなりました。相変わらず無理解や誹謗中傷は付いて回りましたが、関係者は周囲の雑音によく耐え、寧ろ盲導犬無用論者の批判を「新たなる研究課目」として取り入れては、ひとつひとつ実験を重ねて問題をクリアしていきます。

ドイツ輸入の4頭と比べて、これら国産盲導犬達の記録は非常に少ない為、判っている範囲で記載します

【陸軍一等兵 若松幸男氏と盲導犬フロード号の事例】 
昭和16年、陸軍一等兵若松幸男氏は、陸軍病院から盲導犬フロード・フォン・インネンドルフJSZ9872(雄)を与えられました。「JSZ9872」の登録番号から判る様に、フロードはドイツSV犬籍簿(SZ)登録のドイツ盲導犬ではなく、日本シェパード犬協会犬籍簿(JSZ)に登録された国産の盲導犬でした。

「十二月、彼は何時退院しても良いと言ひ渡された。傷も癒え義眼も素晴らしい出来榮えで、フロードを帯同して颯爽と歩いて居る時全然盲人に見えないと言はれて居る。併し彼は少しも退院を喜んで居ない様に見える。犬を帯同して帰郷し、恩給が下る迄の約一ヶ年間、犬と自分は如何にして食つて行くかと言ふ問題が頭を占領して居るからであつた。

小石川の傷痍軍人失明寮に入つて其の時期を待つのは一番楽な方法であるが、盲導犬が未だに軍の採用する所と成つて居らない爲め、犬を連れて行けないのが、悩みの種である。病院での一日一日は盲導犬によつて、盲人の焦燥感から完全に解放せられ、獨立と自由とを贏ち得た生活であつたと考へて居たがさて退院後犬の援けによつて何んな職業が得られるかといふことに成ると皆目見當が付かないのである。實に不安である。さうかと言つて、失明寮での職業訓練の範囲は到底彼の若き心を満足させるものではなかつたし、犬を離れて再び以前のあの『焦燥感』に囚はれる事は何にしても堪へられる所ではなかつた。終に彼は餓死するならば愛犬諸共にといふ決意を以て、十二月十四日犬を帯同して退院した」

帰郷してから翌17年の2月まで、若松氏とフロードは名古屋市内を縦横に歩き回ります。この2ヶ月は、繁華街や大通り、交通機関や込み入った路地裏まで、大都市に於ける盲導犬との行動方法を会得する為の習熟期間でした。
フロードの能力に自信を得た若松氏は、出征前の職業で得た知識を活用し、機械部品商として身を立てる決意をします。以前勤めていた大阪の会社から商品の提供を受けて、同年4月には開業。得意先回りや商品の仕入れなど、営業活動にはフロードが付き添い、懸命に働いた結果商売は順調に拡大していったとあります。

「彼が正眼の儘、凱旋帰郷したならば、小意氣なサラリーマン以外のどんな仕事を考へ得たであらうか。彼が盲導犬を帯同せぬ戰盲だつたならば、今頃は何んな仕事をして居ただらうか。斯んな想念の起こる時、恐らく彼は退院前後の心境を偲び、感慨無量、分身フロードの頭をやさしく愛撫することであらう(以上、相馬安雄『盲導犬』より 昭和18年)」

※フロードは、戦後の1946年2月に死亡したとの事です。


帝國ノ犬達-フロード
昭和16年のJSV会報より、フロードと若松さん


【陸軍一等兵 山崎金次郎氏と盲導犬千歳号の事例】
昭和17年頃、ノモンハン戦で負傷し、陸軍病院へ入院していた陸軍一等兵山崎金次郎氏に雌の盲導犬「千歳」が与えられました。盲導犬協会によると、この犬はドイツ盲導犬ボドの仔であると伝えられており、千歳を縮めて「チト」という愛称で呼ばれていたそうです。
翌年に退院した山崎氏は大阪府豊中市で第2の人生を歩み出しますが、チトは日々の仕事や空襲時の避難誘導でも山崎氏の支えとなっていました。

陸軍病院に入院中の山崎氏が、チトについて詠んだ歌がいくつか残されています。

・黙しつゝ 我が命守(も)る盲導犬 目となりくるゝ心いぢらし
・先輩の まことの再起聞くにつけ 吾も盲導犬持つがうれしき
・盲導犬 ただの犬とし見ゆらめど 盲(めしひ)われには光なりけり
・迷ひたる 闇路に活路ひらく我 盲導犬と再起計らむ
・鳴く鳥の 声が溶けこむなごやかさ 盲導犬と朝の散歩す
・鍬とりて 再起をなせる戰友の 父盲導犬は頼もしとあり
・盲導犬 持ちて光陰早二年 如何なる難地も自信持ちけり
・盲導犬 ハタと止りて行かぬなり 前をさぐれば止め道路なり
・霜道も いとはず誘導なしくれる 盲導犬のはく靴なきか
・春日あびて 盲導犬に刷毛かくれば 心ちも良げにのびをしにけり
・朝の道 盲導犬と立ちゐつつ 散る花びらを頬にうけをり
・逆へる 激しき風に負けじと 愛犬チトセに行けと命じむ
・我がちとせ 水を嫌ひて雨の日は 外出するをなほのこと忌む
(『戰盲勇士の詠へる』及び『失明軍人歌集』 昭和17年~20年より)

千歳は戦後も山崎氏と共に暮し、その務めを果して昭和26年3月20日に死亡しました(盲導犬協会で千歳の剥製が展示されていますね)。

【陸軍上等兵 小椋廣衛氏と盲導犬エルザ号の事例】
昭和17年から20年頃にかけて、陸軍上等兵小椋廣衛氏は陸軍病院内で盲導犬エルザと共に生活しています。エルザについての詳細は不明ですが、こちらも小椋氏の詠んだ歌が多数残されています。
・今日よりは 我が犬となる盲導犬 いまだなつかぬが淋しかりけり
・躑躅花(つつじばな) つづける道は導きて ゆく犬さへも愉しむごとし
・盲導犬 初めてつれてこゝまでも よくぞ來にけり我と驚く
・盲導犬 忠實なるに人を吠え 叱る心も我は苦しく
・暫しをば 待てとわが言へばひそひそと エルザは啼きてベツドに行くなり
・夜中頃 口鳴らしつつ我を起し 水欲しいと言ふかエルザのいとし
・起きなむと 思ひつゝまたまどろめば またもエルは枕引くなり(「またも」を「再び」としている資料もあります)
・寝入るふり してをる吾に顔すりつけ エルザは起きよおきよと起す
・朝々の散歩の路にエルつれて ゆく楽しさはひと知るらめや
・友來るか 盲導犬の鈴の音 近々聞えまだのぼり來ぬ
・ひとときを エルと若葉に憩い居り 「エル」と呼びつゝ過ぐる人あり
・義足なる 戰友(トモ)を抜き行く戰盲われ 盲導犬と済まぬ心地す
・わが面を 見つめゐむエルのその姿 瞼に浮ぶ面影いとし(「我が面を 見るらんエルの其の姿 瞼に浮ぐ面影愛らし」としている資料もあります)
・静かなる 庭の空気にひたりつゝ 盲導犬をはなち遊べり
・戯々として たはむるエルの鈴の音に 喜びうつり吾がきゝつてをり
・六月の 暑さ地にこもりぬくみたり 盲導犬の息のはげしさ
・長雨の 今朝を晴れなる照りきびし 盲導犬に刷毛をかけをれば
・初雪に 歩みはやむる愛犬の 嬉しき様を感じつゝゆく
・雨ごとに ひときは涼しこの夕べ 盲導犬に刷毛かけてをり
・盲導犬の 手入れに吾は庭に來て 陽のあたるところ風にたどりぬ
・信じ切る エルのすべてのおとなしき いとしきまゝにたゞに撫でやる
・すべなきに 心なくエルと名を呼びて たゞたゞ撫でやるなよるうなじを
・甘聲を たてつゝ我をうかゞへる エルの動作の斯くも愛しき
・ぬく〃と 土のほてりを感じつつ はけかけやればエルは喜ぶ
・言の葉を わきくれよとぞエルに言ひて パンの残をわが与ふなり
・与へたる パンをよろこび暫しエル ベツドに坐るいとしきものを
(『戦盲勇士の詠へる』及び『失明軍人歌集』 昭和17年~20年より)

※小椋さんとエルは福島へ戻ります。戦後になってエルは病死したとの事。


【階級不明・品川一美氏と盲導犬エルダー号の事例】
昭和17年、戦盲軍人品川一美氏は陸軍病院を退院。故郷へと戻ります。そして独力で盲導犬の訓練に取り組み、「エルダー」という盲導犬を育て上げました。帝国軍用犬協会姫路支部の報告によりますと、その後は兵庫県の神埼郡鶴度村でエルダーと共に生活しています。

エルダーのような、日本盲導犬史に記録されていない犬は何頭もいたのでしょう。

【陸軍上等兵 宮下實氏と盲導犬利根の事例】
利根についての詳細は不明ですが、宮下氏の詠んだ歌が幾つか残っています。
・盲導犬 綱をほどきて遊ばすも 傍をはなれずいとしかり
・我が心 察して歩むか盲導犬 日向を選りて進みゆくらし
・物言はぬ 盲導犬の利根いとし 早起きせよと我をゆするも
・盲導犬と 共に散歩する自由さは 院庭せましとゆきめぐるなり

※宮下氏と共に広島県福山市へ戻った利根は、1949年頃に栄養失調で死亡したとか。


【陸軍上等兵 森野千雄氏と名称不明盲導犬の事例】
昭和18年、陸軍上等兵森野千雄氏は、盲導犬(名称不明)を帯同して社会復帰、北九州の小倉陸軍工廠に勤務中との記録があります。

※この盲導犬がアルマ(アスタ)でした。盗難に遭ったのか、ある日突然行方不明になったそうです。


【陸軍曹長 安部米吉氏と盲導犬リタ号の事例】
昭和16年、陸軍曹長安部米吉氏は盲導犬リタを与えられ、退院後は郷里の大分県王子町で家族と共に農業を営んでいます。安部曹長が顔面を負傷したのは昭和14年12月20日、第1回長沙攻撃の際でした。後送された南京の兵站病院で「気を落さずに、心眼をしっかり開くんだな」と軍医から失明を宣告された安部曹長は、小倉の病院を経て昭和15年に東京第一陸軍病院第二外科へと転院します。

寝台に横になって考えるのは、退院後の生活についての不安でした。

「自分には貞淑な妻がある。決して不自由はさせてくれないだらう。だが、看護婦さんと違つて、年老つた舅と小さな子供を抱へ、家事一切を執りしきつてゐる妻が、四六時中この自分ばかりに附きつきりでゐることは、できない相談だ。よしんばそれができたとしても、これからの半生を妻に手を引かれなければ歩けないで暮らすとは……(安部米吉氏)」

考える程に絶望的となり、将来を悲観する毎日が続きます。

「その頃、『二外』の一號室には、既に盲導犬がゐました。その犬を持つた戰友達がよく私どもの三號室にも遊びに來ました。

『どうです。犬を持つてゐると便利ですかな。』
『便利だな。どこへでも自由に行けるしな。』
『だが、人間様が、犬に連れられて歩くつていふのはどんなもんでせう。』
『いや、そりや違ふ。連れられて歩くんぢやない。連れて歩くんですよ。こちらが命令を与へて誘導させるんですよ。』
『さうだ。何のことはない。盲目の自転車さ。』
『アッハゝゝ、自転車とはうまい譬(たと)へだ。それに、この自転車には情がありますからな。實に主人思ひで こいつが寝臺の下に寝てると、ちつもと淋しくないから不思議ですよ。』
そんな會話が自然に耳に入ります。私はもともと犬が好きだつたわけでもなし、さほど心を魅かれませんでした。何か自分にかゝはりのないことのやうに聞いてゐたのです。
入院してから丁度一年近く経つた頃『犬を持ちたい者は申告せよ。』といふ命令が出ました。今まで他人事のやうに聞き流してゐたことが、俄かに自分の手の届くところまでやつて來たのです。私はふっと心を動かされました。そして、深い考へもなしに申告だけしてみたのでした」

審査の結果、安部曹長には盲導犬が与えられる事となりました。
盲導犬の名はリタ。
この犬が、昭和15年から平田軍曹と共に富山県で暮らしていたドイツ盲導犬のリタと同じ犬なのか、同名の別の犬なのかは不明です。※同じ犬でした。
後で書きますが、一定期間貸与された後に返却された盲導犬もいた様です。

「盲導犬訓練係の臼井さんから一通りの講義を聴いてはゐましたものゝ、初めて犬を渡され、初めて犬と歩いたときの覚束ない氣持は今でも忘れません。昭和十六年二月の或る日の夕方でした。臼井さんに指導されながら、屋上に上りました。リタは充分訓練を経てゐる犬でしたが、誘導把一つを頼りに、四つの階段を上つてゆくのです。犬の動きと私の動きが何となくチグハグで、今にもどこかに躓いて転げ落ちるのではないかと心もとなくて、ともすれば足が竦みさうになるのでした。
が、無事に上りつきました。そして、屋上の外壁に沿うてグル〃歩き、再び室まで帰つて來たときには、さすがに軽い疲れを覚えました。しかし、その疲れの何といふ快さでせう。心が弾むやうな氣持ちです。ブラシを取つてリタの全身を擦つてやる。臼井さんが作つてくれた食餌を自分の手で食べさせる。そして夜は寝臺の上下とはいへ一緒に寝る……。何となく子供が一人できたやうな楽しさを覚えるのでした。
翌日になると、もうリタはすつかり私のものになつてしまひました。今まで永い間手塩にかけて來た臼井さんが呼んでも、私の傍から離れようともしないではありませんか。もう可愛くて、いぢらしくて……。私はこのとき初めて犬といふものに眼が開けたやうに思はれました」

訓練の成果もあって、日が経つにつれてリタとの呼吸も合って来ます。屋上だけでの訓練から、病院内での歩行や庭続きの軍医学校での診察時と、行動範囲も徐々に拡大。
ある春の日、安部曹長はリタを連れて陸軍戸山学校内にある箱根山へと登ってみました。

「一時は私の胸に巣くひかけた弱者感などは消しとんでしまひました。廣い世の中にたつた一つとはいへ、私に絶對服従する忠實な僕がこゝにゐるのですもの。さういへば、犬を持つてから、氣持ちが以前とは一本の線で劃(くぎ)つたやうに明るく、積極的になりました。
何かしらやりたい、身體を動かしたい。點字の勉強にさへ身が入ります」

病院や陸軍戸山学校の敷地内を自由に歩けるようになると、街中での歩行訓練が始まりました。曹長とリタは、新宿へ、早稲田へ、遠くは明治神宮参拝にまで歩く距離を延ばしていきます。

「氣遣つてゐた自動車や電車も、自転車の往來も、恐れる必要のないことが解りました。かうなると、もう一人前なのです」

義眼も出来上がり、顔面や口腔の怪我も治癒した安部曹長。彼に退院命令が下りたのは、リタを与えられてから丁度1年目になる昭和17年2月のことでした。

郷里の大分に戻った安部さんは、連隊司令部、所属連隊、役所への申告・挨拶をする為に、記憶を辿りながらリタと共に歩き回ります。颯爽と街中を歩く安部曹長を見て、戦盲者と思う人は誰もいませんでした。

「『やあ、兵隊さんが犬を連れて歩いてゐらあ。軍用犬係の兵隊さんだよ。』と言ふ子供の聲が耳に入ります。ちよつと得意な氣持です」

この頃、鍼按マッサージ師になるつもりだった安部氏は、盲学校への入学手続きまで済ませていました。しかし、郷里に戻って僅か2ヶ月の間に、病によって父親と弟が相次いで世を去るという不幸に見舞われます。
遺された田畑を放って置くわけにはいかず、出来る限りの事をやってみようと決心した安部氏は、妻子と共に農作業を開始しました。所有する事となったのは水田や麦畑、馬鈴薯、薩摩芋、大豆、小豆、野菜類、蜜柑や水蜜桃の果樹まで、山地に造られた3箇所もの田畑。そこで施肥、手入れ、収穫を行うのは、健常者でさえ重労働でした。
それを戦盲者が重い荷を担いで山道を登り降りしているのですから、通りがかった人々は皆驚いたといいます。

 

安部氏の傍らには常にリタが付き添っていました。彼女は、小石に至るまで歩行の障害となりそうなものを回避しつつ、主人を巧みに誘導していたのです。畑仕事中もリタはその片隅に蹲り、静かに作業を見守っていました。

「私は、『俄か盲目は盲導犬がなければ救はれない。』などゝは決して申しません。しかし、一度は鍼按マッサージといふ、通り相場の道へ行くよりほかはないと思つてゐたこの私が、曲がりなりにも眼明きと同様の仕事に精出すことができたといふたうた一つの實例でも、これからも増えてゆくものと思はなければならない失明軍人の将來に、何ほどかの参考にならうかと思ひまして、つまらぬお話を申上げた次第です。(以上、安部米吉『盲導犬リタと共に・土に再起した戦盲勇士の手記』より、昭和18年)」

この記事から約1年半後に戦争は終結しますが、安部さんとリタがどのように戦後を暮らしたのかは不明です。

※終戦直後、フィラリアで死亡したとの事。 

同年、「失明軍人会館」へ改称されたライトハウスに盲導犬を連れた戦盲軍人がやって来ました。ライトハウスと言えば、日本人で初めて盲導犬を使用した岩橋氏(前出)の開設した施設ですね。

 

「ここで、ちょっと失明傷痍軍人と盲導犬のことについて附記しておく。会館内には、宿泊施設があったが、自宅より盲導犬に引かれて通った人が数人いた。この盲導犬は、大きなセパード犬で、これに引かれて地下鉄や、市電、バスに乗るのであるから、初めのうちは、乗客が驚いたのも、もっともなことであった。しかし、この盲導犬は、よく訓練されていたので、どんなに混雑した電車の中でも決して他人に咬みついたことなどなかった。
今日より考えると、むしろ人間のほうが、訓練ができていないため、混雑した車内で、たがいに吠えたり、咬みあったりしていた。訓練するということは、いかに尊いものであるかよくわかる (『社団法人ライトハウス四十年史』より、岩橋英行氏の証言)」

 

帝國ノ犬達-図書1

 日本盲人図書館を訪問した戦盲軍人と盲導犬。『寫眞週報』より、昭和18年

 

 

昭和15年には、本間一夫氏が点字書籍を集めた日本盲人図書館を開設します。此処にも、盲導犬を連れた戦盲軍人が読書に通っていました(勿論、盲導犬の入館も許可されています)。

 

帝國ノ犬達-図書2

盲人図書館内の様子。失明軍人の足許に伏せる盲導犬の背中が写っています(〃)。

 

相馬理事は「他に數名の盲導犬帯同の戰盲勇士があるが、皆夫々朗かに再起厚生の道を逞しく前進して居る模様である(昭和18年)」と書いていますので、終戦に至る迄の間、更に何頭かの国産盲導犬達が誕生していたのでしょう。

記録を見つけることは出来ませんでしたが、陸軍病院の戦盲軍人や医療関係者が詠んだ歌の中にも、名も無き盲導犬達が登場しています。※他に長門号などが誕生したそうです。
これらは、いずれも昭和17年から19年にかけて詠まれたものです。

陸軍上等兵 武石福榮氏
首の鈴 ひゞきさやかに戦盲を 誘導しゆく犬のたくまし

陸軍上等兵 吉田嘉久氏
なでゝやる 指に愛犬あたゝかく この頃毛並厚くなりけり
きずいえし この身ためさん胸張りて さか風うけつゝ犬と行くわれ
放ちやる 犬の鈴の音きゝながら 庭の傾斜のあざやかさ知る
朝露を 縫ひつゝ庭を廻りたる 吾が犬の背のしめつぽさかな
知らず〃 心通ふわが愛犬の 足どりさへも我じみて來つ

陸軍上等兵 木澤春雄氏
盲導犬の 鈴の音するに後追えば 角まがりしか聞えずなりぬ

陸軍一等兵 大野豊一氏
雪の道 やはらかく足うくごとし 盲導犬もしつぽ振りつつ

陸軍曹長 岡本當雄氏
手折り來し 山茶花の花赤ければ 盲導犬の首にさしやる 

陸軍上等兵 伊藤達夫氏
霜柱 さぐりつゝまよふ庭山に 盲導犬の鈴の音聞え來
吾の手に塑り得し犬の太き尾を なでつゝをれば楽しかりけり(※これは塑像の犬を制作した時の歌です)

陸軍病院看護婦 長澤美代氏
立ちし耳 かまへし足の猛くして 盲導犬の目の柔和なる

ボドやルティを含め、病院内で患者の誘導を行っていた盲導犬が何頭いたのかは不明です。ノモンハンの戦いで腕を負傷し、東京第一陸軍病院で治療を受けていた緒方文雄氏は、院内で盲導犬と出会った時の話を書いています。

「(理髪室で散髪の後)炊事場の角を曲り、物療室の前を通つて帰りがかり、左に折れると、ちやうど盲導犬に引かれた患者が、突當りの階段をおりかゝつてきた。犬はせつせと患者を引張り、傍眼もふらずやつてくる。患者はその後に委せきつてついてゐる。
私達はそのまゝ行きすぎようとした時、山内君は急に悪戯氣を出し、右手をひよいと差し出した。すると盲導犬は急に立ち止まり、前足をきちんと揃へ、私達の前に立ち塞がつた。
『おーら、おーら、どうしたんだ。』
山内中尉は別に気にもとめず、まるで馬にものいふ恰好で、又手を差し出すと、今度は猛然吠え立てて飛びかゝらうともがいた。犬の主人公はすぐ叱りつけて跼み、漸く股の間に犬を抱きこみ、
『馬鹿、何でもないぢやないか。どうもしませんでしたか。』
半分は犬に、後の半分は私達に謝つた。
山内中尉もちよつと驚き、
『盲導犬は他人には絶對になつかないのか。』
かう訊ねざるを得なかつた。
『いやさうでもありませんが、自分に危険を感じた場合によく吠えかゝります。どうかなさつたんぢやないですか。』
『たゞ手を挙げただけなんだ。』
『こいつは非常に賢いんで、それぢややつぱり危険に思つたんでせう。』
盲導犬の頭をなでながら答へる。
『君には絶對なのか。』
『えゝ私にはちつとも……、頭を撫でる心算で口に手を突つ込んだり、又尻尾を踏まうが、どうも致しません。』
『さうだらう、飼犬に手を噛まれたんぢや君等にとつて、價値ないどころか、それこそ危険千萬だからねえ。』
山さんは感心する。
『言葉一つでどこへでも連れて行きます。』
『成程、しかし盲導犬をもつてる者は少ないやうだが……。』
『さうです。これはやはり、ちよつと犬好きの者でありませんと。』
主人公は、犬の頭をいつまでも撫でながら説明してくれるのだつた。幾ら眼が見えなくとも、犬嫌ひはどうにもならぬことだ。こゝまで訓練されると、犬も人に近い行動をするのだ。
兵隊は酒保への買物だつた。
『さあ行かう。』
主人公はかう命じて立ち上ると、盲導犬はすぐ歩きだしたのである。ところが患者が立ち上つた拍子に帯が弛んでゐたと見え、懐から蝦蟇口がコトリと落ちたのである。すぐ気づいた主人公は、拾はうとして犬を停止させると、それよりも早く気づいた盲導犬は、素早く後へ帰り、その蝦蟇口を、口で銜へ上げ、拾つたといふ知らせの爲か、主人の脚にそれを二三度擦り附けると、銜へたまゝさつさと歩き出すのだつた。
(中略)
盲導犬。不自由な暗黒の世界に生く患者達に、只管貢献するこの生きた衛生材料。その忠實には全く、無関心では居れないばかりか、材料どころか、もう立派な衛生員だつたのである。この優秀なシエパードは、ドイツから購入したのださうである。ところがドイツ語で訓練されてゐた爲、日本語の合圖がわからず、當初は要領を得なかつたとのこと。無論兵隊がドイツ語を知つてゐればわけないことだつたが、實は困つたのであつた。やがてそれを日本語に訓練し、今ではもう充分に役目を果すのである。夫婦の盲導犬は子供を産み、そして訓練された。
盲導犬使用患者は一室に纏つてをり、犬は各自の寝台につないであつた。食餌は時節柄の自粛でもなかつたらうが、三十糎四方の器に只一回、便通は大體二回、それも自ら患者に知らせるのだつた。非常にかしこく、朝の洗面も、患者が手拭を持ちさへすれば、すぐ洗面所につれて行くし、屋上に行くにも、只オクといつただけで、もうわかるのである。患者と共に日夜起居を共にし、退院の時は、一定期間だけ、その主人公に貸してやるのである。社會人となつても忠勤を励み、手となり足となり、主人もまた杖と頼んで一切を託する時、そこには何等装飾なき主従の亀鑑が、厳然として輝きわたるのではなからうか(『陸軍病院』より)」

傷痍軍人達が暮す陸軍病院や失明傷痍軍人寮、傷痍軍人療養所では、盲導犬ばかりではなくカナリア、九官鳥、迷いこんで来た犬猫も飼われていました。
それらペット達のことを詠んだ句も残されています。

迷ひ来し 猫いつしかに傷兵の 残飯に飼はれ部屋に居つけり
療養の 窓に籠なるカナリヤの 傷める白衣の心慰む
くろくろと 捨犬の子を可愛がる 友にまじりて 菓子などあたふ
黒犬の 今朝も來れり病室に 雨に濡れたるせなを撫でやる

ある日、1羽の九官鳥が鳥籠ごと3階病室の窓から転落、内出血で死亡します。残されたもう1羽も、仲間を喪ったショックからか餌を食べなくなり、そのまま餓死してしまいました。
その時に詠まれた歌。

ともにゐし 九官鳥の死によりて オハヨウ言わぬ九官鳥となりき
鳥ながら あはれなりけり友死して 幾日を餌さへ食むことなしに

戦地に残してきた愛馬を詠んだ歌もありました。

馬なれば 便りよこさうはずもなし 愛馬よいかに過しておるか

傷痍軍人達は、ちいさな動物達に心を慰められながら、傷を癒す日々を送っていました。以上が、東京第一陸軍病院の盲導犬や愛玩動物達の話です。

折角なので、戦時中に誕生した民間盲導犬についても触れておきましょう。
僅か2年の命でしたが、立派に誘導作業を行った盲導犬の名は「アルフ」といいました。

このアルフに続き、民間盲導犬「勝利」號も誕生します。

 

次回は、陸軍盲導犬の陰で存在すら忘れられた2頭について取り上げます。

 

(第十一部へ続く)