軀の生成意味論 その四十二 | 『高堂巓古 Officia Blog』

軀の生成意味論 その四十二

 東京は日々寒くなり、外回りが辛い時節にうつろってきた。この寒さを感じるのは肌なわけで、つまりは触覚がなければ寒さどころか、軀(からだ)という境界線も感じることはできない。逆に羨ましきは触覚なき生命体(ポンと具体例はでてこないけれども)で、彼らにとっては夜空に輝くオリオンも、路地裏に咲く一輪花も、涙ぐんだ女も等しく自分ということになるのが推測される。云いかえると、私たちは触覚という牢獄に閉じこめられた囚人、軀という家屋にとじこもった引きこもりということになる。


私とはこの軀のことではない


 という大前提をまず理解できなければ、必死に牢獄を磨くという一生を過ごすことになり、そして実際にそのような方がまことに多いのが現状である。そりゃア、衣食住の住は肝要であろう。住まいの掃除が大切だということもよくわかっている。しかしそれはあなたそのものではないし、自分磨きにもなっていないことは識っておいたほうがよいであろう。

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 たしかな人物というのは、この軀と己の境界線を曖昧にしない。触覚に引きずられることもなければ、五感の監獄にとじこめようとする装置や環境をひどく厭がる。軀が己だと信じきって鍛えるというのは、社会が求める軀、つまりは家畜的な己になろうと必死になっているのと同義である。夕暮れに見惚れる冬空は、あなたの軀にはなり得ないが、あなた自身、つまりは身そのものだと云える。見惚れること、それは身の美しきうつろいを体験しているということに他ならない。触れずとも、人は蛹(サナギ)から胡蝶へと化ける由縁である。その影法師に過ぎぬ軀から脱獄せよ。