『曖昧メガネ』 | 『高堂巓古 Officia Blog』

『曖昧メガネ』

$『草四十八手』-photo.JPG 眼鏡は比較的、好きである。だから、レーシックなるものもあまり興味はない。あるのは、レーシックが生まれたきっかけとなった、ロシアかどこだかの事故で眼に傷を負った結果、視力がたまたま回復したというその子の運ぐらいのもの。兎にも角にも、たかだか眼の矯正器具だった二枚のレンズが、あのような自慢氣な態度でいられるようになったのも、運がよかったからであろう。


曖昧メガネをしている男は信用ができない。


 と云ったのは稲垣足穂である。湯川教授のことをボロクソに書いていた。足穂の曖昧メガネとは、メガネの縁が上にしかない奴のことで、その精神性が信用できないということであったとおもう。時代はすすんで、今はメガネの縁が下だけにあるものもあるが、なるほど、たしかに違和感があるかもしれない。やはり縁は円になるから、縁なのだろう。ところで、私にとっての曖昧メガネは、足穂のとは異なる。私のそれはメガネ所作にある。つまり、メガネを斜めにかけている男はどうも信用できないのだ。欧米人と較べたとき、日本人の耳の位置はほとんど高い位置についている。それなのに、西欧のチャラいブランドをそのまましているものだから、レンズが斜めになってしまうケースが少なくないのだ。要は、レンズ越しに斜めに物事を視ている輩を信用していいものなのかということになる。しかもおめでたいことに、当のご本人は自分こそが物事を真っ直ぐ視れているとドヤ顔である。耳とは左右バラバラにあいた穴である。そのバラバラにメガネを合わせない態度は、環境に合わせることによって、己を誤魔化しているに過ぎない男の生き様を暗示している。環境が人をつくるのではなく、人が環境をつくるのだ。メガネの斜めがけの利点と云えば、音速を越えて走ったときに生じるソニックブームがやや低減されるくらいのものであろう。メガネを斜めがけしてこれを書いたので、眼が乾いた。今朝はこの辺で。