我々は、イタリアの経済をになう北イタリアでの可能性を知った上で、イタリア文化エッセンストスカーナに進出するため、これまで筆者があまり知らなかったマレンマ地方を訪れた。

 地元の夫婦に案内され、私は車で、彼等の車の後を追った。前にも書いた、素晴らしい景色のあと、我々が立ち寄ったところには、なにやら奇妙な建物が建っている。

s.galgano

 この教会サン・ガルガーノは、火災で天井がすっかりなくなってしまったそうだ。もともとカルトジオ会修道院に属し、騎士であったガルガーノの名前から取っている。

 

batttistero

 隣に低い丘があり、丘へ上がる小道の回りはブドウ畑。その頂上には、洗礼堂がある。

 これらいずれの建物も、ほぼ西暦1000年に建てられたもので、洗礼堂は、外から見ると筒状になっているのだけがわかるが、内部から見ると天井は<球>の形、つまり、円蓋になっている。煉瓦の建物が中世を思わせ、アドリア海のラヴェンナにあるガラ・プラチディア納骨堂とも共通点がある。いずれも初期キりスト教時代のロマネスク様式だが、丸天井は明らかにローマにある古代に建てられた<パンテオン>の影響を受けている。この洗礼堂の中になんとイギリスの話になってしまっている「岩に刺さった剣」があるという。

spadanellaroccia

 伝説によると、騎士であるガルガーノは、キリスト教の教えに感動し、人の血を流す騎士をやめ、これからは宗教に余生を捧げようと、自分の剣を岩の中にスルリと差し込んだと言う。そしてその剣は誰にも抜くことが出来ない平和のシンボルとなり、この洗礼堂のご神体として保管されてきた。

 このおとぎ話一つをとっても、あのイギリスはイタリアからヒントを得たと言うことがわかる。

 ウルビーノ公ロレンツォの娘カトリーヌ・ド・メディチは、1533年に、当時野蛮な国だったフランスでも、優雅な暮らしが出来るよう、優れた料理人・菓子職人たちを伴い、後にフランス王となるアンリ二世に嫁いだと言う話は有名。
 彼女が連れて行ったイタリアの料理人のレシピが、現在のフランス料理の基礎となったと言われています。 そして、フィレンツェの仕立て屋はフランスのファションの基礎になったとも言える。

 もともとイタリア語の基になったのは、ダンテの「神曲」に書かれている完成度の高いトスカーナ方言であるし、フランス語、スペイン語、ポルトガル語という俗ラテン語はもちろん、英語、ドイツ語、ロシア語にまで影響しているラテン語というのは、古代のローマ人の言葉なのである。

歴史あるイタリア万歳!