今年もまた広島平和記念日がやってきた。ただ子供の頃から、この広島平和記念日という言葉が気になっていた。
俺が広島に生まれる、その結構前に、広島の空からとんでもないものが降ってきた。いきなり。前触れもなく。
今日は広島に原爆が落とされた日。考えられない数の人間が1度に亡くなった歴史上最悪の日。
そもそも記念日とはなにか。
結婚記念日しかり。
出産記念日しかり。
寝返り記念日しかり。
マンマ記念日しかり。
考えてみると、『記念日』という言葉は、どちらかというと何かを達成した時など、ポジティブなイメージに使用されることが多い。
広島に原爆が落とされた今日この日。
平和記念日。
考えてみたい。
なぜ、原爆が落とされたこの悲しい日が、なぜに、広島にとって、日本にとって、平和記念日なんだろう。
確かに、アメリカにとっては、世界平和なるものを達成するために、日本という、もっとも厄介な敵に勝って、それはある種の記念日なのかもしれない。
けれど、フツーに生活してて、フツーに朝飯食ってる時間帯に、いきなり爆弾落とされて、天井が吹っ飛んで、柱が倒れて、父ちゃん母ちゃんがそれに挟まれて、逃げ切れんくて焼け死んで。
それを記念にするのは何か悲しくない?やっぱ日本人として。
今のままのやり方じゃ、8月6日はアメリカにとっての記念日な気がしてならない。
平和記念日とか、平和記念公園とか、平和記念資料館とか、そういうのに対しての、『記念』っていう言葉がどうも引っかかる。
何年か前、沖縄に行った時のこと。南城市にある平和キネン公園は、キネンを『祈念』と表現してた。『平和祈念』。『平和記念』じゃなくて。
その時、切にこう感じた。悲しいことがあって、平和とは何かを考える日として、それを特別な日として定めるのならば、『記念』ではなく、『祈念』の方が言葉の意味としてシックリくる。
平和を常に『祈念』はしたい。ただ、原爆が落とされて、たくさんの人が死んだ今日この日を『記念』するのはやっぱ悲し過ぎん?
今日も一日『平和』だった。
ありがとう。生きてる。
※写真は信濃町方面からの六本木高層ビル群
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