あっという間に4月になってしまいました。みなさんお元気ですか?


ここ2ヵ月ほど何の更新もないまま過ぎてしまい、一度でも訪問

くださった方には申し訳ない思いです。その間、デボーションは

できたりできなかったりでしたが、ついに今日から第二コリント

ですよ。


ビックリ。 本当に久しぶりですね。 デボーションの内容は近々

公開できたらいいなぁ。(はっきり約束できないあたりが情けない)


さて、もうあと5分ほどで月が替わる。1年の12分の1が終わりである。 あっという間だった・・・ って

いつもなら思うんだろうけど、この1か月は自分にとってはなかなか長く、ある意味充実した期間だった。


備忘録も兼ねてるってことで、今月を振り返ってみることにした。



(個人)

・やはり母の死は外せないね。その後も七日、ふた七日、み七日、よ七日・・・ 四十九日まで、毎週寺の

 坊さん呼んで、ポクポクチ~ンってやるらしい。大変だこりゃ。


・個人のビジョンは、家族的コミュニティの拡大と祈りのコミュニティ作り。あと、セルHPのリニューアル、

 ICBCサイトのトップページ構想を練ることかな。




(セル=小さな家の大家族)

・15日にブラジルチキンを焼いて、牧野セルのみんなとユキさん家族を交えた食事会を開催。(激ウマ!)

 http://blogs.yahoo.co.jp/kazoku_cell  ← かなり渋滞中! ヤバイぞ、ヤフーブログ。



・ステートメント


1.VISION

私たちは、神が私たちに任せてくださっている 「豊川・御津・小坂井」 に福音を終了させることをVISION

とします。それは、この町に限らず、近隣の町、東三河、日本全体及び全世界にまでも福音が広がるため

です。


2.みんなの参加

私たちは、自分に与えられた賜物、情熱を発見し、それを用いて、みんなで宣教の働きに参加します。

私たちは、年齢、性別、社会的地位、人種、知的・身体的・心的ハンディキャップ等にかかわらず、

造られたすべての人に神の計画があると信じます。


3.家族の励まし

私たちは、家族の一員として互いが互いにとってなくてはならない存在であることを認め、尊重し合い、

励まし合います。家族の誰かが弱さの中にいる時には、限界を尊重し、守り、できる限り助けます。

また、誰かが過ちに陥ったなら、愛をもって正します。


私たちは、神に与えられた「家族」というVISIONに基づき、個人の自立とコミュニティ=神と隣人を愛する

生き方を体験的に学び、身に付け、次の「家族」を生み出していきます。



(ICBC)

・服部雄一氏のカウンセリングセミナー開催 「クライアント中心療法」を学ぶ。

・ジョシーのココロが楽になるブログ、スタート


(おもなニュース)

・ライブドア粉飾決算疑惑 → 堀江貴文氏逮捕される

・米国産牛肉再度輸入禁止に


昨年来の耐震強度偽装問題、東横インの不法改造など、企業モラルは?という事件が目立つように

なった。これからの時代、本物が求められるのは、企業だけではなさそうだ。



◎エペソを離れるパウロ


エペソでの暴動の難をなんとか逃れたパウロ一行。いよいよエルサレムに戻る日が近づいていた。

彼はこの箇所で、いつになく情熱的に別れを告げ、泣きながら祈り合う。何が彼の心にあったのだろう?


「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は

知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに

引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」(29,30節)


この言葉は非常にショッキングだ。自分たちが、愛し、育てた人々、信仰の子どもたちを手放すときだ。

一人ひとりを愛し、手塩にかけて?育て、訓練してきた愛する同労者たちを置いて離れなくてはならない、

しかも自分たちが去っていく機会をうかがって、群れを滅ぼそうと狙っている者たちがいる。


どんな心境だろう。つらい、心配・・・ しかも、子どもたち自身の中からも偽りを教え、間違った動機から

人々に関わる人々が出てくる・・・


それでも、そんな心配、不安があっても親(この場合霊的な)は、いつか子どもたちを手放すときがくる。

つらくても、彼らの内に住まわれる聖霊様とみ言葉に委ねつつ、信頼して自立を見守る。それが親なん

だろうか。結婚はしているが子どものいない私には、まだまだこのあたりの心情をとらえるのは十分でない

かもしれない。


本当に信頼が必要だろうと思う。一緒にいて全部自分が助けてやったらある意味安心かもしれない。

しかし、それでは一向に人は育っていかない。そんなジレンマ、本当の親子だけでなく、こうした世界に

もあるんだろうな。

「なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの

首に掛けて、神を試みようとするのです。」 (15:10)


15章を読んでいて、今日一番心に留まった箇所である。一つには、12使徒のリーダーであるペテロが

堂々と、「私たちも負いきれなかったあのくびき」 と律法を呼んでいることだ。


なんというか、清々しいといおうか。今、信仰と恵みによる救いが定着したプロテスタントであるが、当時の

ユダヤ人たちにとってこう堂々と、しかも真実を告げることは、勇気がいっただろうし、多くの共感を得ただ

ろう。事実、全会衆が沈黙してしまったとある。


そして、もう一面は、自分にもできないことを他者に要求していないだろうかという自戒である。「あの人は

他人にもっと思いやりを持つべきだ」、「自分だったらあんな無神経な言葉を出さないぞ」、「こんな簡単な

こともできないのか」などなど・・・


直接その人に伝えたことは少ないつもりだが、心の中はいやはや、反省しきりである。今自分に多少何か

できるとしたら、それはできない時期があってもできるようになったプロセスがあったのである。特に自分は

劣等感が強かったため、自分にできること、自分が考えられる思考は他人にとっても当たり前、常識的で

あるはずだ、という思いがあったと思う。


だから逆に自分の理想と異なると心がイライラとしてしまうのだろう。それは、つまり、劣等感の裏返しは

高慢だって証明だろうか。そうです。自分は高慢な性質をもってます。本当に謙遜に生きることを学ばな

ければならない。

最近デボーションが薄っぺらいなぁって思うときがある。朝起きて、軽く神様にごあいさつしてから

聖書を開くんだけども、1~2回読んで、ぼーっと黙想、んでデボーション用の質問集に目を通して

自問自答。そんな感じで終わることが多くなった。


だから、この隣の朝飯、最近の記事はなんだか聖書のあらすじ書きみたいだ。もっとも、人に見せる

ためのデボーションではないから、ブログ記事の心配はさておき、どうも霊的な洞察が深くまで届か

ないというか、表面的な感じがするのだ。


原因と関係あるかないかは分からないが、近頃、夢見が悪い。義理の母が強盗に襲われたり、

自分が旅館やホテルの畳の部屋にオシッ○をかける常習犯で、見つかってこってりしぼられたり、

ナイフで襲われたが、かすり傷程度ですんだり、親戚が拳銃強盗に襲われて、自分も目撃したため

危険な目に遭ったりと、夢の世界でなかったら寿命の縮む思いである。(まぁ、朝起きるとメチャ

ブルーであるが・・・)


あっ、一昨日は母に続いて、父も急死する夢でした w(゚◇゚)w


さすがにしばらく夢であったことに安心して、呆然としてしまった。しかし、相変わらず夢の中でも、

ショックを受けつつも冷静で、ポジティブな自分。(それでいいのかはギモンですが・・・)


う~ん、自分の周りで何やら動きがあるのかもしれませぬ。前々から身辺が慌ただしいときは、

何か変化があることが多いんだよ。ナンだろ?神様!?


そういえば、もう一ついつもと違うことが・・・ 持病の痛風発作の軽めの症状。

そんなわけで、今日は大・大・大好きなセル家族の集まりにも行かれず(誕生日会があるから、

きっとおいし~い、手作りケーキをみんなで食べてるんだ!)家でお留守番。


昨日登録したmixiをサーフしながら、ヒゲ抜きながら(おっと失礼!)ぼんやりしている、けれども

頭の右後方、5時20分くらいのあたりがクルクル回転している。


神様にチューニングアンテナを合わせなくっちゃ!

◎ヘロデの迫害


ヘロデ王 - 人からチヤホヤされるのが好きで、いつも人目を気にしていた、民衆の人気を

得るため、人の命を奪った、とんでもない暴君である。彼の最期は寂しい。間違ってもああいう

死に方はしたくない。神に栄光を帰さず、虫に噛まれて死んでしまうとは・・・


さて、彼の犠牲者ヤコブ。ヨハネとともに雷ブラザーズを結成  ┐(´~`;)┌ 

母を通じて、イエス様の右、あるいは左腕に昇進しようともくろくも、あえなく撃沈!


しかし、イエス様の、「あなたはわたしの飲む杯を飲むことができるか?」の問いに、トンチンカンな

動機ながらも「はい、飲めます」と宣言したとおり、そして、イエス様も、確かにな~ 飲むよな、

とおっしゃった通り、弟子たちの中でも、初期に生涯を閉じることになる。


彼が天国で、どこに座るのかは知らないが、イエス様のために命を捨てた者として、大きな大きな

栄冠が与えられることは間違いなさそうだ。


ところで、勢いづいたヘロデに捕われたペテロ。人々は熱心に彼のために祈っていた。何を祈って

いたんだろう?助かるように?でも彼らは、脱出してきたペテロの声を聞いた女中ロダに、

「あんた気が狂ってるよ」って・・・ ヒドイ orz 。,,


命が助かるように、とは祈ってなかったかも!?  死ぬにしても、大勢に証しできるようにとか?

迫害があっても助けて~、ではなく、「しもべたちにみことばを大胆に語らせてください」と祈ってた

人たちだからな~、あり得るかも。(使徒4:29,30)


なんだか当時の人って・・・ オモシロイ! ペテロだってそうだ。だいたい、死刑前夜だっていうのに、

番兵に挟まれてすっかり寝てるって・・・ あり? 死ぬ覚悟を決めてたにしても、すごいよね。緊張

とかってないのかね。


自分には自信ないなぁ~。緊張のあまり寝るどころじゃなくなりそう。ま、その状況になったことない

からわからないけどね。いずれにしても、まだペテロにはやるべきことが残っていて、神様はまだ

天に召してはくださらなかったってこと。


自分もまだまだ神様が私がこの地上に誕生し、今まで生きるのを許してくださった目的を果たした

とは、到底いえないな。私にとって死ぬことは、そんなに怖いというか、いやだな~という気持ちは

ないんだよ。もちろん天国に行くっていう保証があるからなんだけど、この地上で死ぬってことは、

不自由な肉体=罪の性質があって、したいと思う善でなく、悪を行なう性質からの卒業であり、

永遠に生きる、いつまでも大好きな神様と制限なく過ごせる、礼拝できるいのちをいただくことなん

だよね。


だから今日お迎えがきたとしても、悲しくはない。永遠の始まりなのだから。でもさ、それは私の視点

から見た話で、神様はもっともっと、今のこの地上でしかできないこと、永遠からしたらホンの瞬き

ほどの瞬間にしかできないこと、宣教=失われている家族、カラダを発見したいと願ってるんだ。


そのために自分にできることがあるから、まだこうして生かされているんだと思う。「早く卒業式来ない

かな~って言う前に、やるべきこと(神様の仕事)やってから死んでね」 と妻からよく忠言されるのだった。

おかしな夫婦でしょ。

◎きよくない動物


ユダヤ人でないうちらには、きよい動物、きよくない動物といわれても、ピンとこない。

そもそも現代では、かわいい動物、かわいくない動物という区分が一般的かな?


ところが、ユダヤ人社会(昔も今も)では、律法にある(レビ記11章)けがれた動物を

食べる行為は、忌み嫌うべきことで、罪である。実際、旧約の律法の支配に生きていた

世代にあっては、神様も忌み嫌われ、罪に定められる行為であった。


そんな背景に生きてきたペテロにとって、神様自らがきよいくないとされてきた動物を

差し出して、さぁ、BBQしようじゃないかって・・・ いや、そんなことは言ってないか (´-`;)


えっ、神様がそんなことを・・・ っていう心境だったでしょうな。でも神様の回答は、


「神がきよめた物をきよくないって言ってはだめだよ」 だった。


これが意味するところは。。。 もともと神様が創造されたのは一つの家族だった。しかし、

人は罪を犯し、家族が増えるにしたがって神様に背を向け、離れ、無視し、違う神々を

自らが造り、仕えていった人々。異教の神々を崇拝する民、異邦人。


そりゃぁ、けがれた民と呼ばれるだけのことはあるのだが、神様の計画はもっと深く、

大きかった。イエス様の十字架によって、神様と和解させ、けがれた者たちであった

信じる人々を、きよめてくださったのだ。


これは、スゴイことだ。奇跡である。世の中にいろんな驚くような奇跡があったとしても、

罪人がきよめられて救われるほどの奇跡には到底かなわない。ただただ、神様の

憐れみのゆえに感謝である。



◎バルナバ再登場


りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人・・・ そんなふうに紹介される人はなかなか

いないよね~。弟子たちの間でも信頼されていたみたいだ。


彼はかつての盟友サウロを地上に押し出すためにタルソへ向かう。バルナバほど人材を

見る目が鋭い人物はなかなかいないんじゃないかな。たぶんパウロ以上じゃないか?

その辺の話はのちほど。パウロとバルナバの激しい反目のあたりで(15章後半)。


異邦人 - 異教の神々を信奉し、仕えている人々・・・


当時のユダヤ人社会から忌み嫌われ、蔑まれ、汚らわしいとされてきた人々に対する神の愛と憐れみが

つぼみを結ぶときがきた。本格的な異邦人伝道は、故郷タルソへ籠ったパウロの登場を待たなければなら

ないが、異邦人伝道が大きく広まる先駆けといえば、このペテロだろうか。(正確にはすでにイエス様も福音

書の中で始めておられるし、エチオピアの宦官を導いたピリポもいたが、あくまで個人的なことで、本流と

いうよりは、副流かな)


百人隊長コルネリオ。ローマ文化の中に生きる彼にとって、ユダヤ人が信じる本当の神を恐れかしこみ、

家族あげて祈りと行ないをもって生活するというのは、生半可な覚悟ではいられなかったはずである。

当時のローマでは皇帝は絶対、神々の象徴とも言われるほどだったからだ。


神様は見かけや育ち、身分ではなく、本当に心のある人に目を留められるのだなとあらためて納得した。

コルネリオの品性からたくさんのことを学べるが、幻を見て、ペテロを招待する際も、しもべ2人と側近の

部下の中でも、敬虔な者をあえて選んで同行させているあたりに、彼の人柄が感じられるし、百人隊長と

いうある程度の身分でありながら、ペテロに対してかなりへりくだって迎えている(やり過ぎ?)ことからも

その人となりがうかがえる。


また、そのコルネリオの招待に応じたペテロの行動力、勇気、主の語りかけに対する従順にも学べる要素

があるのではないか。ユダヤ人が異邦人と交わったり、訪問することは、律法にかなわない、つまりは神様

が昔には禁じていたことだというのだ。古い慣習を破ることは、師匠イエス様譲りとはいえ、思い切った行動

であったことには違いない。


ペテロという人物、頑固そうに感じるが、意外にも新しいことを受け止める、柔軟さがあるのだろうか?

神様がかたよった、えこひいきをされる方ではなく、異邦人であっても、どんなに暗い過去があったとして

も、神様を恐れかしこみ、正義を行なう人を受け入れてくださる神であると発見すると、さらに大胆にも水の

バプテスマを授けているのだ。


ピリポが個人的にエチオピアの宦官にバプテスマを授けたってこと以上にスゴイよ。だって使徒の中でも

リーダー的存在のペテロがやっちゃったんだもの。よくぞやった!


(適用)


・人がどう見ていようとも、神様が一人ひとりを正しく見ていてくださることに安心をえる。


・正しいこと、聖霊にするよう促されたことは大胆に実行する。前例が・・・とか、誰も~と言い訳しない。

◎サウロの改心


使徒の働きを読み進める中で、この箇所がとても不思議に思える。なぜかというと、イエス様が天に上げ

られて後、聖霊様が代わりとして人々に降られてからというもの、すっかりイエス様の登場機会がなかった

のだが、ここでサウロに天から語りかけられたのが、天使ではなく、イエス様ご自身らしいのだ。


「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」 


サウロにとって、どんな思いだったのだろうか。今まで脅かしと殺害の意に燃えていた対象の親分から直々

にご挨拶である。しかも天からの光、圧倒的な聖さ、栄光、尊厳、威風・・・ 目が見えなくなるほどの体験を

通して、瞬間的にこの方こそ救い主、メシヤであると直感したのだろうか?


さて、ここに登場する、アナニヤという弟子。いきなり迫害者サウロを訪問するように言われて、そりゃさぞ

戸惑ったことだろう。人殺しの元を訪ねろと言われているようなものだから。しかし、最終的には主からの

語りかけを信じ、従っている。自分だったら?・・・ 


それはエルサレムの弟子たちも同じことで、やはりいきなりやって来た元迫害者、サウロを信用することは

難しかったようだ。そりゃそうだよね。それでもバルナバという人物が身元を引き受けて、ようやく仲間入り。

今までやってきたことがやってきたことだから、仕方ないとは思うけど、サウロもきっと拒絶されたときは

ショックだっただろう。そういう意味でバルナバという親友の存在は、ホントに大きかったと思う。


実をいうと、私、かなりのバルナバファンなのである。バルナバについて語ると1時間は超えてしまうほど、

(あ、あくまで たとえですから、本当に1時間しゃべり続ける自信はないです)バルナバオタクなのだ。

バルナバについては、後日(11章のあたり)詳しく書きたいので、よかったら私のバルナバワールドに

お付き合いください。


人は見かけによらない、とはよく言われるが、まさかあの大迫害者が改心して、キリストのためにまさしく

命を張って福音をのべ伝えるようになるとは、だれが予想しただろう。彼が弟子になることで、一気に

福音宣教が動きだしていくのである。


「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子である

ことを宣べ伝え始めた。」(20節)


神の計画はスゴイ。


(適用)


・他人の過去だけに捕われた見方をするのではなく、現状をよく見て接する必要がある。


・自分を召しだしてくださった神に応答する。つまりは福音宣教を続ける。自分の周りの人々に神様の愛を

 流し続ける

今日の主役はピリポ、ではなく、聖霊様である。


とはいえ、中心人物はやっぱりピリポ。この人、今まで自分はてっきり使徒のピリポ、イエス様とずっと行動

を共にしていた人物だと思っていたが、誤解であった。


「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」(1節)


とはっきり書かれていたのに、見落としていた。しかし、どうして使徒たちは散らされず、エルサレムにいる

ことが許されたのだろう。ま、神のご計画と言ってしまえばそうなのだが、宗教家たちの都合からして、どの

ようなメリットがあったのだろう。


彼ららしく、最近群衆からの支持が高まってきたため、公に迫害するのを恐れたのか?


いずれにしても、数千人、いや1万人を超えていたであろう弟子たちがみな諸地方に散らされてしまったと

なれば、常識的に考えれば大ダメージである。しかし、そこが普通でないのが神様のなさることで、なんと、

大迫害転じて、全世界に福音が宣べ伝えられる原点となったのだ。


すべては神様の心の中にあって、人間的に好ましくないように思えることでさえ、すでに神様の息がかかっており、適切なとき、適切な場所で(なんだか小泉総理チックでいやだな=あ、別にアンチでも熱烈支持者でもありませんから)動き始めるのだ。


話はピリポに戻して、使徒でない、普通の男が神様に用いられたというのは、励ましである。普通の人を

使って、普通でない働きをさせるのは、神様の得意技である。


その秘訣は、ピリポが神様の語りかけに対して、従順であったからではないかと思う。(26,29節)神様が

語られたとおりに行動すれば、神様がすでに用意してくださっている結果を得ることができる。


(適用)

・まず何をするにも、聖霊様の声を聞くことから始める

・語られたことを先延ばしにしていることがないか吟味する