八紘一宇を建国の心に持ち、同盟国から要請を受けてもユダヤ人を迫害せず、むしろ上海や満州でユダヤ人を保護し、植民地支配に苦しむ同胞たちを救いだすために戦う民、それが日本人なのです。
それはつまり「心に愛があり、愛の心でこそ日本人は戦っていた」、ということなのです。
それを示すこんな話があります。
パラオという国は、スペインやドイツから九割の人が殺されてしまうほど、酷い植民地支配を受けていました。
しかし日本はオランダ軍をパラオから追いやると、パラオから利益を吸い上げて奪うことなど、当然しませんでした。
それどころか、戸籍制度や学校が無かったパラオに、我々の先祖は学校を建てて、戸籍制度を作り、教育も行い、島民たちは日本兵と仲良く一緒に歌ったのです。
しかし戦時中、アメリカの太平洋艦隊が、再びパラオの攻略を目指していました。
パラオのペリリュー島の島民たちは集会を開きました。そして全会一致で彼らは、大人も子供もふくめて、一緒になって日本人とともに「戦う」ということを決めたのです。
パラオ・ペリリュー島の人々は、代表数人で日本軍の中川州男(くにお)隊長のもとに向かい、「私たちも日本軍と共に戦わせてください」と申し出たのです。
しかし日本軍の中川隊長は、真剣に訴える彼ら一人一人をじっと見つめ、しばしの沈黙の後、大声で次のように言いました。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
ペリリュー島の代表たちは耳を疑い、何を言われたのか分からなかったそうです。
なぜなら家畜のごとく扱って、九割のパラオ人を虐殺する白人たちとは異なり、日本人は自分たちを同じ人間として扱うばかりか、日頃から「仲間」と口にし、「対等」とまで言ってくれていたからです。
それが突然、「土人」などと言われために、彼らは帰り道に泣いたそうです。
このことをペリリュー島の代表者が島の人々に報告すると、みんなが「日本人に裏切られた」、「日本人に騙されていた」という思いで、悲しくて、悔しくて、泣いたそうです。
そして何日かが過ぎ、ペリリュー島の人々は日本軍が用意した船で、パラオ本島に退去させられる日がやってきました。港には日本兵は一人も見送りに来ません。
自分たちの故郷である島を去らねばならないこと、またそれ以上に仲間であり、対等とも思っていた日本人に裏切られたという思いで、島民たちは茫然自失で船に乗り込みました。
汽笛が鳴り、船がゆっくりと岸辺を離れはじめた次の瞬間です。
島から「オオオオ!!」と雄叫び声があがりました。なんと島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から浜に走り出してきたのです。
そして日本人は、パラオの人々と一緒に歌った日本の歌を歌いながら手を振って見送ったのです。
その時、船上にあった島民たちには、ようやくはっきりとわかりました。
「日本人は島民を戦火に巻き込まないために、あえて『土人』という酷い言葉を使ったのだ」と。
「そうまで言わなければ、自分たちは『私たちも日本人は一緒に戦う』引き下がらなかったので、彼らはあえて酷いことを言ってくれたのだ」と。
「他人のために嫌われ役さえやってのける、それが日本人の優しさであり、真の侍なのだ」と。
船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
1944年9月、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。
島に立てこもる日本兵10500人、対する米軍は四倍以上の48740人です。
圧倒的な戦力の差から米軍は「2、3日で陥落させられる」と予想をたてていました。
しかし戦闘はなんと1ヶ月半も続いたのです。
アメリカ太平洋艦隊司令長官であるチェスター・ニミッツは、この島で戦った日本の侍に対して次のように述べております。
この島を訪れるもろもろの国の旅人たちよ。どうか故郷に帰ったら伝えて欲しい。
この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心の奥深きを。
こうした壮絶な地上戦で、米軍は思い知らされました。物量で勝る米軍は海戦や空中戦ならば勝てるが、しかしもしも地上戦を行ったら、たとえ勝っても米軍側にも甚大な被害が出る、本土決戦は危険である・・・、と。
日本人はたった34人の生存を残して全員玉砕しましたが、島民の死傷者はゼロです。
こうしたこともあってパラオは戦後に独立を果たすと、日の丸をモチーフに国旗を作り、敬意を払ってあえて日の丸を少し左にずらしているほどです。パラオの人々の中には、戸籍制度が出来た時、あえて日本人の名前を付けた人もいるくらいなのです。
このように愛の心で戦うのが、真の日本人なのです。
そしてそうした愛の心で戦うことは、「仁を成す」とも表現できます。